空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む(2)

2019-11-09 02:18:14 | アート・文化

 

◇『風濤』を読む

 『敦煌』を読んだ話を友人にしたら、本棚に眠っていたという、文字がぎっしり詰まった新潮文庫の『風濤』を譲ってくれた。

 『敦煌』は1959年に書かれ、4年後の1963年、『風濤』が発表された。

 高麗国が元の支配下に置かれた時代、皇帝、フビライハンは日本攻略のために、高麗の国力をはるかにしのぐ数の軍船の建造、兵士、船頭、食糧の調達など、次々と命令を下す。

 元の兵站基地と化した高麗の混乱、疲弊していく様が描かれている。

 井上靖は『風濤』の中で、歴史文献(主に「高麗史」)を頻繁に引用している。

 その漢文の書き下し文に挟まれるようにして、高麗王の元宗、その息子の忠烈王、李蔵用、金方慶ら重臣たちの、国を存立させるために苦心する様、丸裸にされていく国の惨状が語られている。

 今は亡き篠田一士氏が書いている巻末の解説が素晴らしい。

 井上靖は、『天平の甍』に始まり、『楼蘭』『敦煌』「蒼き狼』『風濤』の一連の作品を自ら「西域小説」と命名していた。

 篠田氏は、それが題材的な事柄ではなく、小説そのものの本質的な要素を指す言葉ととらえている。 

 「人事がほとんど無力に近い西域の砂漠のなかでは時間は広々漠々たる空間のなかへ吸収されてしまい、その用をなさないかのようにみえる。

 (中略)井上氏が『西域小説』の名の下に目指したのは、人事はもちろん、人事を背後から支えて、その多彩な変転を色あざやかにみせる時間に背を向け、ただ荒漠たる空間の拡がりのみを読者に現前させようということである。

 その空間を、自然と言いかえてもいい。時間の軛(くびき)から離脱して、永遠の域にほとんど達したような自然。だが、これを小説において志すのは、およそ近代小説の本意にそむくことである。」

 そして、「人事世態を細かく描き、その間に経過する時間の流れを読者に強く感銘づける」近代小説の手法に対して、「西域小説」を反近代小説と位置付け、『風濤』が「『西域小説』を志した井上氏の詩的正義をはるかによく実現した」作品だと評価している。

 「『風濤』の眼目は、外ならぬフビライそのひとである。この小説を一貫して、たえず、大小さまざまな風が吹きすさび、また、高低さまざまな濤(なみ)がうねり、たかまってくるが、それらはすべて、このひとりの人物から発する。フビライを、人物とよぶにはあまりにも怪物じみている。」

 篠田氏がこのように展開している小説論は、中島岳志氏の「与格小説」と言いかえてもいいと思う。

 登場人物たちは、『敦煌』では、シルクロードで繰り広げられた歴史に翻弄され、『風濤』では、怪物のようなフビライから発せられた、さまざまな風、波に翻弄されながら生き、死んでいく。

 

◇「与格」的生き方

 「与えられたものの行き先」という説明は、「与えられたものを入れる器」と言い換えてもいいのではないか。

 というのは、私は文法用語としての与格に引き付けられただけではなく、中島氏の説明を聞きながら、「私の生き方は与格的だなあ」と思ったのである。

 周囲には意志の強い、気の強い人間だと思われがちであるが、自分では、意志薄弱で、自ら道を選ぶというよりは、流され流され生きてきて、ふと気が付いたら今の自分があると思っている。

 自己実現だの、フェミニズムだの、自分をしっかりもって生きるべきだという社会的風潮の中で育ったので、若いころは、そんな自分が嫌で、ずいぶん肩肘張って生きてきた。

 ところが年を取るにつれて、流されて生きてきた自分は正解だったのではないかと思うようになった。

 その方が楽で、自分に合っているのだ。

 いろいろ関心を持ったこと、学んだこと、経験したこと、出会った人々が、私という器の中で、最初はばらばらに存在していたが、次第にまとまり、私の背丈に合うように収まりよくなってきた。

 「ああ、これはこういうことだったのか」と少しずつではあるが、納得できるようになった。

 中島氏の「与格」の説明を聞いたとき、自分の生き方が「与格的」という言葉で説明できるということを発見したようで、うれしかった。

 大学時代の友人がたまたま電話をくれたとき、その話をした。

 彼女は「私は昔からそう思っていたわよ。あなたは昔から与格的だったわよ」と即座に答えた。

 本人より彼女の方が、私という人間をよく見ていたのである。

 人間を「与えられたものを入れる器」と解釈すると、仏陀が説いた「縁起の法」とも重なってくる部分があるように思える。

 「縁起の法」とは、すべての現象は、そのもの自身として独立して存在することはなく、あらゆる原因や条件が互いに影響し合い、作用しあった結果として生起するという真理をいう。

 人間も、縁起の結果としての、今この一瞬の「私」としてしか存在しない。

 このような存在の在り方を「空」という。「色即是空」の「空」である。

 インターネットで与格のことをいろいろ調べているうち、今年1月、真宗教団連合で中島氏が講演した内容が出てきた。

 その講演で中島氏は、

 「(与格では)言葉が私にきて留まっている。私が言葉の器なのである。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。親鸞は『言葉の器』になりきることによって何かを表現できると考えた宗教家である」

 と語っている。

 中島氏は、『敦煌』の読書会よりずっと以前から、「与格」について考えていたようである。

 与格的生き方と縁起の法、器としての私については、まだ思い付きの段階なので、考えがまとまったときに、改めて書こうと思う。


「与格小説」考―井上靖『敦煌』『風濤』を読む(1)

2019-11-06 16:40:07 | アート・文化

 

 友人と発行している同人誌に書いた文を転載します。

 

 「与格小説」考井上靖『敦煌』『風濤』を読む

 

 今年4月ごろだったか、NHK・ BSプレミアムの「深読み読書会」という番組で、 井上靖の『敦煌』を取り上げていた。

『敦煌』は映画化もされたが、映画も見ず、原作も読んでいないので、どんな小説なのかまったく知らなかった。

 莫高窟の仏教壁画や、大量の仏典が発見された、仏教遺跡としての敦煌に関心があったので、番組を見た。

 「深読み読書会」の出演者は、高橋源一郎、小林恭二、中島岳志、サヘル・ローズという面々。

 出演者が『敦煌』を読んで独自の解釈を展開するなかで、中島岳志氏が「この作品は与格小説である」と評したのが記憶に残った。

 原始仏典を読むために勉強しているパーリ語に、日本語にはない「与格」という文法格があったので、「与格」という言葉に反応したのである。

 

 ◇与格とは

 中島氏は、ヒンディー語を例にとって「与格」の説明をしていた。

 ヒンディーは現在もインドの公用語として最も多く使われている言葉である。

 パーリ語は古代インドのプラークリット(俗語)の一つだが、今は原始仏典の中に残っているだけである。

 文字を持たず、上座部仏教(初期仏教)が伝わった国の文字(スリランカのシンハラ文字、カンボジアのクメール文字、タイ文字、アルファベットなど)で記述され、実際の生活の中では使われていない。

 一方、サンスクリット(文語、雅語)は文学、哲学、学術、宗教の分野で使われた。

 大乗経典はサンスクリットで書かれている。

 文字((梵字)を持ち、現在も使われている言語である。

 サンスクリットもヒンディーも、パーリ語も、同じインド・アーリア語なので、文法は似ている。

 与格とは、名詞・代名詞の格の一つ。

 パーリ語の格は8つあって、主語にあたる格は主格 nominative、目的語にあたるのは対格accusative という。

 与格 dative は、パーリ語文法のテキストでは、「受益者for,to ~のために~に」と説明されている。

 「彼は私に(私のために)本をくれた」という文章を例にとると、「彼は」が主格、「私に(私のために)」が与格、「本を」が対格になる。

 この一文を書くために、与格について詳しく調べてみたら、とても分かりやすい解説を見つけた。

 与格 dative は、ラテン語の do(与える)の過去受動分詞 datus( 与えられたもの)に -iveがついて形容詞になったもので、与格とは「与えられたものの行き先」を説明したものだそうだ。

 なるほど、だから「与格」というのか。

 また、大阪大学外国語学部ヒンディー語のサイトを見ると、

 「意味上の主語、あるいは動作・状態の結果が及ぶ対象に後置詞 को を添えて、人格の意志や力の及ばない、感情、生理的な現象、嗜好、状況、事態、また行為の結果や影響などを表現する特徴的な構文を与格構文と呼ぶ」

 という説明があった。

 この説明によるならば、『敦煌』を「与格小説」と呼んだ中島岳志氏の意図がよくわかる。

 中島氏の説明によると、

 「私は風邪をひいてしまった」という文章が、与格表現では「風邪が私の中に入ってきてとどまっている」となり、

 「私はあなたを愛している」は、「あなたへの愛が私の中に入ってきてとどまっている」という表現になる。

 

◇『敦煌』を読む

 では、与格小説としての『敦煌』はどんな作品なのか。

 11世紀、宋の第4代皇帝・仁宗の時代、主人公の趙行徳は、科挙の試験を受けるために宋の都・開封に上るが、最後の試験の順番を待つ間、眠りに落ち、失敗してしまう。

 街をさ迷っているうちに、肉として売られている西夏の女を助ける。

 女が礼にと差し出した布片には、見慣れない西夏文字が記されていた。

 行徳は西夏文字を何とか読みたいと思い、西夏の都、興慶を目指す。

 タングート族の西夏は、シルクロード交易の要衝である一帯の支配権を得ようと、吐蕃(とばん)、回鶻(ういぐる)など、他の民族と戦闘を繰り返していた。

 途中、行徳は捕らえられ、西夏の漢人部隊の兵士にされてしまう。

 読み書きができたため、部隊の隊長で、漢人の朱王礼に認められる。

 回鶻の拠点、甘州を攻めたさい、回鶻王族の若い女を見つけ、かくまって世話をするうち、愛するようになる。

 しかし、興慶に行く機会を得た行徳は、1年後には戻ると約束し、女を隊長の朱王礼に託して旅立つ。

 興慶で西夏文字を学び、漢字との対照表を作成しているうちに、行徳は約束を忘れ、ようやく甘州に戻った時には、女は西夏の太子、李元昊の妾にされていた。

 女は城壁から身を投げて死ぬ。

 戦闘に明け暮れる日々が過ぎ、西夏に降った瓜州の太守から、経典を西夏語に翻訳する仕事を頼まれ、翻訳にいそしんでいたが、西夏王となった李元昊の軍が瓜州へ入城する直前、朱王礼が反乱を起こす。

 朱王礼も回鶻の女を愛しており、李元昊を恨んでいた。

 しかし、朱王礼は敗れ、一行は沙州(敦煌)へ逃れる。 

 西夏軍の攻撃を前にして、沙州の人々が財宝や家財をまとめて逃げる準備に追われるなか、行徳は寺にある膨大な仏典を救おうと思い立つ。

 隊商の商人、尉遅光から、財宝を隠せる洞窟があるという話を聞き、行徳は財宝を運ぶと偽って、尉遅光の手下の手を借り、僧たちとともに仏典をラクダに積み、洞窟へ運び込んで、入り口を封印した。

 その後の敦煌の歴史、1900年代初めに敦煌が発見され、多くの経典がスタインはじめ外国の探検隊に持ち出された顛末を記して、小説は終わる。

 この小説の一応の主人公は趙行徳であるが、彼の行動は、自分の意志とは関係ない、その時々の状況に影響され、「ふとしたことで」「いつのまにか」次の場所に身を置くことになるのである。

 「深読み読書会」でも誰かが言っていたように思うが、本当の主人公は「敦煌」という舞台であり、その時代、シルクロード一帯で繰り広げられた歴史そのものである。

 行徳はじめ、登場人物たちは、自分の意志や力の及ばない、砂漠の歴史の激流のなかで生き、死んでいく。

 まさに「与えられたものの行き先」として、存在している。

 その意味で、中島氏は「与格小説」と呼んだのだろう。

 行徳が西夏軍を迎え撃つ前に宿舎で休んでいるとき、この場所に来るまでの時間をさかのぼって辿る場面がある。

 

 「水が高処より低処へ流れるように、極く自然に自分は今日まで来たと思った。

 開封を発って辺土にはいり、それから西夏軍の一兵として辺境の各地を転戦し、その挙句の果 てに叛乱部隊の一員となり、いま沙州の漢人と一緒になって、西夏軍との間に死闘を展開しようとしている。

 もう一度新しく人生をやり直したとしても、同じ条件が自分を取り巻く限り、やはり自分は同じ道を歩くことだろう。

 (中略)後悔すべき何ものもなかった。

 開封から沙州までの幾千里の道を、その緩い傾斜面を、自分は長い歳月を費して流動して来て、いまここに横たわっているのである。」

 

 状況に翻弄されながらも後悔せず、自然と受け止める行徳の感慨を記した場面が何カ所か出てくる。

 高橋源一郎氏は、「『敦煌』は井上靖の自伝である」と発言している。

 井上は5歳から13歳まで、両親から離れ、戸籍上の祖母、実は祖父の妾であった人に育てられている。

 日中戦争で出征した経験もある。

 行徳のような与格的な生き方は、井上自身も身につけていたものかもしれない。

      (つづく)