空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

鳥の肖像を描くには

2018-11-08 10:13:12 | 映画

 例によって、友人たちと年4回発行している同人紙からの転載です。

 

  鳥の肖像を描くには―映画「ZEN FOR NOTHING」を見て

 ずいぶん前に、ドキュメンタリー映画「ZEN FOR NOTHIG~何でもない禅~」を見て、その感想を書こうと思っていた。 

 今年2月か3月に映画を見てから半年以上経ってしまい、詳しい内容はほとんど忘れてしまったけれども、映画の中で、主人公のスイス人女優が、ジャック・プレヴェールの「鳥の肖像を描くには」という詩について語った場面が、頭から離れないでいる。 

 ジャック・プレヴェールといえば、日本で最も有名な詩は、シャンソンの「枯葉」だろう。次に思い出されるのが、不朽の名作と言われる「天井桟敷の人々」の脚本。マルセル・カルネ監督の戦前の映画「悪魔が夜来る」の脚本もプレヴェールによるものだ。 

「鳥の肖像を描くには」という詩は全く知らなかった。 

 探してみたら、唯一、あの高畑勲の訳によるプレヴェールのアンソロジー『鳥への挨拶』に収められていた(「ぴあ」より出版。残念ながら絶版になっており、市立図書館で見つけた)。原本では『ことばたち』という詩集に所収されている。 

 

  まず鳥籠を描くこと

  扉は開けたままで 

  つぎに描く 

  鳥にとって 

  なにかここちよいもの 

  なにかさっぱりしたもの

  なにか美しいもの 

  なにか役立つものを… 

  つぎにカンバスを木にもたせかける 

  庭のなかの 

  林のなかの 

  あるいは森のなかの. 

  木のうしろに隠れる

  一言もしゃべらないで 

  動かずに… 

  ときには鳥はすぐ来る

  だが長年かかることもある 

  その気になるまでに. 

  がっかりしないこと 

  待つこと 

  必要なら何年間でも待つ. 

  鳥の来るのが早いかおそいかは 

  何の関係もないのだから 

  絵の出来ばえには. 

  鳥が来たら 

  来たらのはなしだが 

  完璧に沈黙をまもること 

  鳥が鳥籠に入るのを待つこと 

  鳥が入ったら 

  そっと筆で扉を閉める 

  そして 

  柵を一本一本すべて消す 

  鳥の羽根に決して触れないように気をつけて. 

  つぎに木の肖像を描く 

  鳥のために 

  いちばん美しい枝をえらんで. 

  みどりの葉むれや風のさわやかさも描く 

  日ざしのほこりも 

  夏の暑さのなかの虫たちの声も. 

  それから待つこと 鳥がうたう気になるのを. 

  もし鳥がうたわないなら 

  それは良くないサイン(しるし) 

  絵が良くないサイン 

  しかしもしうたったらそれは良いサイン 

  きみがサインしてよいというサイン 

  そこできみはそっと抜く 

  鳥の羽根を一本. 

  そして絵の隅にきみの名を書く。 

 

  映画「ZEN FOR NOTHING」は、日本在住のドイツ人映像作家、ウェルナー・ペンツェルと写真家の茂木綾子の共同作品で、兵庫県美方郡の山中にある曹洞宗の修行道場、安泰寺が舞台。 

 安泰寺が出てくるというので、私は映画を見る気になったのだ。 

 仏教を学び始めたころ、偶然、安泰寺のドイツ人住職、ネルケ無方さんのブログを発見して、ずっと愛読していた。 

 ネルケ無方さんはキリスト教のなかで生まれ育ったが、青春時代に悩み続けた末、ついには日本にたどり着いて、安泰寺で修行する。 

 教えを受けた住職が亡くなった後、ネルケさんが安泰寺を受け継いだ。 

 ネルケさんは、曹洞宗の道場、永平寺を開いた道元禅師と、戦後に安泰寺を再興した沢木興道、内山興正両師の教えを忠実に実行しているように思える。 

 道元禅師の教えの根本にあるものを現代に生きるうえでちゃんと受け止めて、自ら実践し、生きる道を求めて世界中から安泰寺の門をたたく人々に伝えているように思えるのだ。 

 映画は、スイス人女優サビーネ・ティモテオが、安泰寺を訪れるところから始まり、11月から翌年3月まで、サビーネと、他の修行者たちの安泰寺での日々を淡々と描いている。 

 坐禅を中心に、作務(さむ。禅の修行の一環として寺院維持のための掃除、薪割りなどの労務を行うこと)、当番で典座(てんぞ。食事を作る役職。道元は重要な禅の修行の一つとして位置付けている)を務める様子、作業の合間の楽しみ、就寝前の個人の時間、出家得度式などが、一切のナレーションなしで映し出される 

 安泰寺は基本的に自給自足の生活なので、農作業はもっとも大切な作務だ。 

 ブルドーザーを使っての畑の開墾、植えつけ、収穫作業、冬に備えての雪囲いなどは重労働だ。 

 作務に慣れないサビーネのうんざりした表情も映し出される。 

 12月から3月は、安泰寺は雪に閉ざされるので、その間は坐禅、教学三昧の冬安居に入る。 

 安居(あんご)とは元々、インドで雨季の時期は外出できないので、修行者が一カ所に集まって修行三昧の生活をすること。 

 日本では冬と夏に行われる。 

 サビーネが滞在したのはこの冬安居の期間だったと思うが、作務に加えて坐禅三昧の日々はつらかっただろうと思う。 

 最低半年間の修行を終えた修行者たちが各々の思いを語る場面で、サビーネの語った内容がプレヴェールの詩「鳥の肖像を描くには」についての話だった。 

 彼女自身が語った詳しい内容は忘れたが、「鳥の肖像を描くには」という詩に出会ってから、自分という存在や生き方に疑問を持ち、自分を見つめるために安泰寺にきた。 

 初めは、十分きれいなのに、なぜ毎日隅々まで掃除をするのか、なぜ、ここで様々な労働をしなければならないのか、理不尽に思えた。 

 しかし、毎日の作務を繰り返すうちに、我を忘れて、ただその作業に打ち込み、楽しんでさえいる自分に気づいた。 

 そのように語りながら、サビーネは涙を流した。 

 涙の理由は、「鳥の肖像を描くには」という詩に出会った意味、安泰寺に来た意味に気づいたからだと私は思う。 

 道元禅師の著書『正法眼蔵』のなかの「現成公案」に、次のような言葉がある。 

  

    仏道をならふといふは、自己をならふ也。 

  自己をならふといふは、自己をわするゝなり。 

  自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。 

  万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 

 ネルケ無方さんは、著書『道元を逆輸入する―「現成公案」を英語から理解する試み』(株式会社サンガ発行)のなかで、このように訳している。  

 

  目覚めの道を学ぶことは、あなた自身の学びを意味する。 

  あなたの学びは、あなた自身を忘れることだ。 

  あなた自身を忘れるということは、よろずの事によって行われる、あなた自身の実現だ。 

  よろずの事による、あなた自身の実現はつまり、あなたの体と心の手放しである。

   そして人の体と心の手放しでもある。 

 

 私は道元禅師が好きで、『正法眼蔵』の注釈書もいろいろ読んだが、どれも禅問答のように分からなかった。 

 自らの実践を通して、日常使う自分の言葉で、道元禅師の言葉を理解しようとするネルケさんの訳がいちばん理解できた。 

 仏道とは「目覚めの道」、それは「仏の智慧、宇宙の真理」のことだ。 

 「自己をならう」とは、ありのままの自分を受け止めること。 

 仏道を学ぶことは、つまり自分で自分を学ぶことだ。 

 「自己を忘れる」ということは、富士山頂に立てば富士山は見えないが周りの世界がよく見えるように、自分になり切ったら、自分はどこにもない。 

 だから自己と他人の境界線もない。 

 見えているのは周りの世界である。 

 「万法に証せらるゝ」とは私の生き方によって私の現実が変わる。 

 私が万法をつくっているのだ。 

 反対に、万法が〈私〉を実現している。 

 もっと簡単に言えば、「あらゆる出会いの中に、自分自身を発見することだ」とネルケさんは言う。 

 仏教が目指しているもの、それはあらゆる束縛から解放されること、自由である。 

 究極の自由が≪解脱≫だ。 

 自分で自分を縛っている束縛の紐を解いてゆく。 

 身も心もすべて手放してしまえば、「放てば充てり」、手放してこそ、手を充たすものがある。 

 「手ぶらであるという自分の姿にこそ、法が現われている」というふうにネルケさんは解説している。  

 私は、「鳥の肖像を描くには」という詩の意味が最初は分からなかった。 

 「ZEN FOR NOTHIG」という映画のなかで、修行者のサビーネが語っている場面の意味をずっと考えているうちに、これは、まさに仏教の目指す世界ではないかと気づいた。 

 鳥は私、肖像を描こうとしている「きみ」も私。 

 鳥と「きみ」を隔てる境界線がなくなり、世界に境界がなくなったとき、鳥は歌い、「きみ」は鳥の羽根をそっともらって、ありのままの〈私〉の名前を書く。 

 監督のウェルナー・ペンツェルは安泰寺で長きにわたって繰り返し修行している。 

 仏教についても、道元禅師の教えについても十分理解しているはずだ。 

 だからこそ、サビーネに「鳥の肖像を描くには」という詩について語らせた。

 そして「仏道をならう」とは、何でもない日常の暮らしの中にある、身も心も手放した自分の中にある、という意味を込めて「ZEN FOR NOTHIG」という題をつけたのだと思う。