友人たちと出している同人紙からの転載です。
先日、興味深い講演を聞いた。
神戸の市民運動の拠点となっている神戸学生青年センターが主催する「食料環境セミナー」で、平賀緑さんが行った「『資本主義的食料システム』を考える~大豆を伝統食から工業原料に、植物油をエネルギーから食材に変えた政治経済史」という講演である。
平賀緑さんは、丹波で有機菜園を作り、バイオディーゼル燃料で車を走らせるなど、持続可能な食とエネルギーの実践に取り組んだり、ロンドン市立大学食料政策センターに留学し食料栄養政策の修士を、京都大学大学院で農業・食料の国際政治経済学を学び、経済学博士を取得している異色の研究者だ。
平賀さんを初めて知ったのは、昨年12月に開かれた「有機農業関西のつどい」の席である。私は生産者と消費者が提携して有機農業を支える運動団体「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称「求める会」)に参加してきたが、高齢化を主な理由として会員は減る一方。いつかは会を閉じなければならないにしても、自分たちがやってきた運動の理念を次の世代に伝えるためにはどうしたらいいのか、というのが今、一番に考えなければならない課題となっている。
そうした中で、大きな壁となっているのが、消費者の意識である。
運動が始まった1970年代は、有機農業という言葉自体がまだ知られていなかったが、今では「有機農産物」というものが一応定着して、市場価値を持つ時代になっている。
提携運動という形をとらなくても、消費者はスーパーマーケットや百貨店で、あるいは通信販売で、「〇〇さんが作った安全で新鮮な〇〇」というラベルの付いた有機農産物を簡単に「買う」ことができる。
私たちは食べ物を市場の商品ととらえるのには違和感がある。
食べ物は命を支えるものであって、生産者と消費者は食べ物を介してお互いに命を委託し合う関係だということを、「求める会」の運動の理念としてきた。
だから、提携という形にこだわってきた。しかし、このような理念は、今の若い消費者には面倒くさい理屈であるようだ。
「有機農業関西のつどい」でも、有機農業運動(日本有機農業研究会などが担ってきた)をどのように次世代につなげていくかということが話し合われたが、若い有機農業生産者にとっても運動という形はなじめないようであった。
そのつどいに平賀緑さんも参加されていて、私はその席で初めて「食料政策」という言葉を知った。
私たちが食べ物を市場の商品として扱うことに違和感を感じていることについて、平賀さんは違う視点で語ってくれるように感じた。
平賀さんはまず、現在の私たちを取り巻く食べ物の在り方について話し始めた。
100円ショップの青果市で「新鮮、土づくり、無添加野菜」と謳われていたり、「町の健康ステーション」「お母さん食堂」と銘打ったコンビニご飯、サラダチキンとミネストローネの加工食品を並べて「混ぜたら手作り」として売っている例をあげた。
オーガニックとして売られている食品も、多くは地球の裏側から持ってきたもの。
石油エネルギーをたくさん使った「植物工場」は「持続可能な農業の実現」として紹介されている。
このように、売るための商品作物、加工食品産業など、食べ物がお金の世界に組みこまれた状況を「資本主義的食料システム」という。
英語圏では20年ぐらい前から語られるようになった。
貧しい人々に肥満が多いという事実が明らかになり、食べ物を取り巻く研究が始まったそうだ。
食と資本主義の歴史は、①1870~1914 イギリスを中心としたヨーロッパ諸国に、新大陸や植民地から穀物や食肉を安い賃金材(労働者が賃金で購入するもの)として供給したことから始まり、輸出のための大規模生産、鉄道の発達、輸送技術の発展などをもたらした。主にイギリスで産業革命、都市化、資本主義が発展した。
②1947~1973 アメリカが中心で、過剰生産された穀物を、日本やヨーロッパ、途上国へ食料援助として戦略的にばら撒いた。これによって、市場開拓、近代的農業・加工型畜産が拡大した。
③1973~現在 多国籍企業によるグローバルな生産・加工・流通・販売体制。日本の総合商社・食品多国籍企業も世界に進出した。
平賀さんは、大豆油をとおして「資本主義的食料システム」を研究している。
私たちは大豆というと、味噌、醤油、納豆などをイメージするが、それらに使われる大豆はごくわずか、大部分は精油用である。
農水省『我が国の油脂事情』(2000年版41ページ)に「大豆の用途」という図が掲載されている。
大豆を木に見立てて、用途別に枝が分かれている。
大豆をそのまま、味噌・醤油・豆腐・納豆・きな粉などの材料として使うのは根元から伸びた小さな枝でしかない。
大部分は製油という大きな幹となって、その先に原油、製精油の枝が伸びている。
原油や製精油から、菓子、マーガリン、石鹸、食用油、潤滑油、医療用油などの枝が分かれている。
一方、油をとった後の脱脂大豆からは、肥料、豆腐、ソーセージ、グルタミン酸、アミノ酸、菓子、パン、麺類、さらに味噌、醤油、納豆、こうじなどが作られる。
大豆をそのまま使った味噌、醤油と、脱脂大豆から作られた味噌、醤油が同じものか、見極めが必要だ。
つまり、大豆は様々な商品をつくる工業の原材料で、植物油はそれ自体が高度な加工品なのだ。
古来、植物油は燈明用にエゴマ油、ナタネ油が使われてきた。
明治になって満洲から大豆粕が輸入されるようになる。大豆粕は外貨獲得の絹を生産するため、カイコのエサとなる桑畑の肥料として必要だった。
そのうち大豆を輸入して日本で大豆粕製造、大豆搾油を行う工場ができる。背景には産業革命、国際貿易の推進、アジア進出を図る近代的国家建設プロジェクトがあった。
その国策の担い手となったのが、三井物産、鈴木商店などの財閥、商社である。
食用油メーカー最大手の日清オイリオの前身は、大倉財閥と肥料商が創立した日清豆粕製造株式会社だ。
鈴木商店は、大豆の研究をしていた満鉄中央試験所から製油技術を譲渡され、豊年製油を設立した。豊年製油は後に味の素、吉原製油を統合してJ-オイルミルズとなる。
国内に市場のなかった大豆油は欧米に輸出された。
第一次世界大戦時には油の輸出量が増え、近代油脂産業は急成長するが、大戦後は特需がなくなり、余った油は食用として販売されるようになる。
第二次大戦中は、石油の代わりに大豆油、魚油が重要軍需関係品とされ、油脂産業は政府・軍部の統制下、工業用・軍需用を中心に生産基盤を確立した。
終戦後、国産ナタネの増産が推奨され、小規模搾油所が乱立した。
しかし、アメリカから政策的に大量輸入された大豆を活用して再建され、食用油の市場を拡大していった大手油脂企業には太刀打ちできなかった。
戦後、食生活が西洋化され、消費者の好みが変わったとよく言われてきた。米食が粉食になり、植物油の需要が増加した。果たして消費者の好みでそうなったのだろうか。
アメリカを中心とする農業の大規模化は大量の原料を生産し、その原料を使って大量の商品が作られる。
その需要を促すために、アメリカ、日本政府、食品産業が一体となって、大量消費するシステムを作り上げたのだ。
この食料システムの構築に、三菱商事、三井物産、伊藤忠、丸紅などの総合商社が果たした役割は大きい。
小麦や大豆の市場拡大のために、国民の栄養改善という大義名分のもと、アメリカ、日本政府、企業によるキャンペーンも行われた。
「1日1回フライパンで油料理をしましょう」という厚生省の指導のもと、キッチンカーを導入し、小麦粉(メリケン粉)とサラダ油(大豆油)を使ってパンケーキやスパゲッティ、オムレツなどの料理を実演指導した。
いわゆる「フライパン運動」である。フライパン運動を担った栄養改善普及会の会長、副会長には元厚生大臣、大企業社長が名を連ねていた。
我が国の大豆の自給率は7%弱、73%はアメリカからの輸入だ。その94%は遺伝子組み換え(GM)大豆である。
生産者がよく口にするのは、肥料や飼料を輸入に頼らざるを得なくなり、しかもGMでないものを手に入れるのが年々困難になってきているという話だ。
食べ物が商品として扱われることに私たちが違和感を感じていたのは、命よりも資本の論理を優先する「資本主義的食料システム」への違和感だったのだ。
平賀さんは最後に「持続可能な社会への展望」として、取り込まれた世界から抜け出すことが重要だと言った。
まず「素性の分かる食材を一から自分で料理すること」、「食卓から世界を変えること」だと。
そして、「畑とつながる」「命ある食べ物を育ててくれる農民たちを応援すること」だと。
私たちにできることは、それしかない。