空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

萬葉集を読む②

2017-05-24 21:50:00 | アート・文化

  同人紙からの転載のつづきです。

1人の女性をめぐり展開された権力争い~万葉集を読む~(Ⅱ)

 前号で、①額田王をめぐる、天智、天武天皇の恋の歌、②石川郎女をめぐる、大津皇子、草壁皇子の相聞歌、③高市皇子の妻であった但馬皇女が穂積皇子を思う歌、④人妻であった紀皇女を恋う弓削皇子の歌。これらの歌の背景に、当時の皇位継承をめぐる権力争いがある、ということを書いた。

 ①の背景には壬申の乱があり、乱後、皇統は天智系から天武系に移った。②③④の背景には、持統帝の皇子・草壁と、その皇子・軽皇子を皇位に付けようとする持統、藤原氏と、他の皇位継承候補(およびその担ぎ手)との対立がある。

 軽皇子が文武天皇として即位して以降、中継ぎの天皇として、天智の娘で草壁皇太子妃であった元明天皇、草壁の娘である元正天皇がいるけれども、皇統は持統系から藤原氏出身の女を母とする皇子たちに移っていく。

 歌の歴史的背景が事実はどうであったかは別として、編者である大伴家持が、そのように読み取れるような編纂をして、歌を配置したのではないかということである。

 このような考えに至ったのは、梅原猛氏の『水底の歌』に展開された万葉論に負うところが大きい。梅原氏は、万葉集を怨恨の書と見る。公けの歴史書は勝者の歴史を記録している。歴史書に記録できない敗者の歴史を、伝承された歌や、編集の仕方によって暗示し、後世に伝えようとした、というのである。

 そう思って万葉集をひも解いてみると、意味がとりにくかった歌の数々が、霧が晴れたように、はっきりした姿を見せ始めるから不思議である。もっとも、梅原氏の説には、牽強付会ではないかと感じる箇所も多々あるけれども。

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 歌や物語をこのような形で記述、編纂するという方法は、万葉集に限ったことではない。古くは『古事記』や『日本書紀』にも見られる。例えば――

 『古事記』仁徳天皇の代では、天皇に召されながら、天皇の弟、速総別王(はやぶさわけのおおきみ)と結婚した女鳥王(めどりのおおきみ)の物語が記されている。女鳥王は、皇后・石之日売(いわのひめ)の留守中に仁徳帝が妻に迎え、石之日売の怒りを買った八田皇女(やたのひめみこ)の妹で、仁徳帝の異母妹である。

 仁徳帝は、速総別王を仲人にして、女鳥王を妻に迎えようとしたが、女鳥王は「皇后の嫉妬で姉は妃となることができなかった。私もお仕えすることはできません」と返事して、速総別王と結婚した。そのことを知った天皇は2人を殺そうとして軍を差し向ける。2人は共に逃げるが軍に追い詰められ、殺される。

 同じく『古事記』允恭天皇の代に、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)と、同母妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の物語が記されている。軽大郎女は、美しさが衣を通して輝いたので、衣通王(そとおりのおおきみ)とも呼ばれた。同母兄妹の密通事件によって、百官および天下の人々の心は木梨軽太子から離れ、同母弟の穴穂御子(あなほのみこ)の側に付いた。

 軽太子は大臣の家に逃げ込んで戦の準備をするが、穴穂御子率いる軍隊に捕らえられ、伊予の湯(道後温泉)に流される。軽大郎女は太子の後を追い、伊予の地で共に自殺する。彼らを追いやった穴穂御子は後の安康天皇である。

 この物語は、『日本書紀』では、軽大郎女と衣通王とは別人として描かれている。衣通王は皇后の妹で、天皇に召されるが姉の気持ちを思い、たびたびの要請にも応じない。これから類推すると、軽太子の罪は近親相姦ではなくて、天皇に召された女性と通じたことにありそうだ。

 二つの物語の主人公たちは、タブーである恋ゆえに殺されるのであるが、対抗する勢力を抹殺するために、一方の側が他方の罪をでっちあげたのではないかとも思われる。

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 時代はずっと下って、平安時代、『伊勢物語』と『源氏物語』にも似たような記述がみられる。

 『伊勢物語』第3段から9段にかけて、男(在原業平とされる)が二条の妃に懸想して、事件後、男が東国に下る話がある。二条の妃とは清和天皇の皇后、藤原高子で、陽成天皇を生んでいる女性である。男が「身をやうなきものに思」って東国に下る話は有名だが、皇后と通じて何の追及もされないのはおかしい。東下りとは、実は東国への流罪ではないか。

 『源氏物語』の「須磨」の巻は、光源氏が、異母兄にあたる朱雀帝の女御として入内するはずだった朧月夜との密会が発覚し、都に居づらくなって須磨に退く話である。

 朧月夜の父は、光源氏および左大臣勢力と対立している右大臣。姉は朱雀帝の母で、かつて源氏の母、桐壺更衣が帝の寵愛を一身に受けるのに嫉妬し、光源氏に息子の地位をとって代わられるのではないかと恐れた、弘徽殿の女御である。

 これらを考えると、光源氏が右大臣一派によって政治的に失脚させられたことは明らかだ。

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 以上、古代から中古にかけて、同様なパターンの記述方法を拾い上げてきたが、こうして見ると、一つの伝統とでもいうべきものが考えられる。それは、政治的な権力争いをあからさまに述べずに、あるまじき(=悲劇的)恋愛事件として記述するという伝統である。

 一つの恋愛事件を読み、あるいは聞きながら、その背後の政治的抗争を読み取る、あるいは聞き取ることは、ある時代までごく常識的なことだったのではないだろうか。

 これが、私のたどり着いた、もう一つの結論である。

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【付記】ここまでが、40年以上も前に同人誌に書いたエッセイである。

 これを現在、友人たちと発行している同人紙に転載した後、空海の生涯と思想について書かれた『空海の座標 存在とコトバの深秘学』(高木訷元・高野山大学名誉教授著、慶應義塾大学出版会刊)を読んでいると、興味深い事実に突き当たった。

 藤原種継暗殺事件に、佐伯氏が連座して罰せられたとある。空海は讃岐の佐伯氏の出身で、佐伯氏は大伴氏から出ている。高木氏は、空海が、母方の叔父の勧めで入った大学を辞めたのは、この事件が影を落としていると考えておられる。

 空海12歳の延暦4年(785)、桓武天皇の側近として長岡京の造営に当たっていた藤原種継が暗殺される。直前の8月28日に死去していたにもかかわらず、大伴家持が事件の首謀者とされ、従三位中納言の官位を剥奪された。大伴継人、佐伯高成ら八人が死罪、息子の大伴永主らは流罪になった。

 家持は亡くなった延暦4年、陸奥按察使鎮守府将軍と同時に早良皇太子に仕える春宮大夫となっている。事件で死罪・流罪となった中に、春宮の官僚たちも多い。

 早良皇太子は桓武帝の実弟で、家持にそそのかされたとして廃太子となり、淡路へ配流される途中、亡くなった。事件の真相は謎だが、背景に藤原氏の四家(南家、北家、式家、京家)の勢力争いがあったと見る説もある。

 その後、桓武帝の周辺で死者が相次ぎ、天然痘が流行した。早良の廃太子により、皇太子となった安殿皇子(後の平城天皇)は桓武の長子で病弱だったが、いずれも早良親王の祟りとされた。

 祟りを恐れた桓武天皇は、早良親王に祟道天皇を追号、家持の官位を回復し、流罪になった者たちの官位も回復された。長岡京は棄てられ、平安京となる。

 桓武の母・高野新笠が、百済系渡来人の子孫であったことは有名である。父・光仁天皇の皇后は聖武天皇の皇女、井上内親王であったが、天皇を呪詛したとして、息子の他戸皇太子とともに幽閉され殺される。母子は後に祟り神となり、奈良の御霊神社に祀られることになる。

 桓武は、二人の死により皇位につくことができたとも言える。この事件の首謀者は、藤原式家の藤原百川だとする説が有力だ。百川の甥が種継であり、その娘薬子は、平城上皇と実弟の嵯峨天皇の権力争いに乗じて薬子の変を起こす。

 家持が生きた時代は、天皇家、藤原家をめぐる権力争いが熾烈で、大伴氏のような古代豪族は中央から遠ざけられ、没落の一途をたどる時代であった。このような時代背景を考えれば、万葉集巻19の有名な歌を詠んだ家持の気持ちが痛いほど理解できる。

4292 うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも獨(ひとり)しおもへば

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 詩人の大岡信氏は著書『あなたに語る日本文学史』(新書館)の中で、「政治の敗者はアンソロジーに生きる」と題して万葉集を論じている。『万葉集』の大伴家持(および大伴一族)、『古今和歌集』の紀貫之(紀氏)、いずれも古い家系を誇りながら、政治的には没落した氏族だ。

 そして、歌合せ、連歌、連句という日本独自の「座の文芸」は、家持の父・大伴旅人が大宰府で詩を詠み合った宴にルーツがあるとの説を展開している。

 実際に詩歌を作る詩人ならではの発想だと思う。梅原猛氏の「萬葉集=怨恨の書」説よりも、大岡信氏の説の方がおおいに腑に落ちた。

 


萬葉集を読む①

2017-05-24 21:27:54 | アート・文化

いろいろ忙しくてブログの更新がお留守に。

例によって、友人と出している同人紙からの転載です。

 

1人の女性をめぐり展開された権力争い~万葉集を読む~(Ⅰ)

 先日、押し入れの段ボール箱を整理していたら、40年以上も前に職場の先輩が出していた同人誌が出てきた。先輩に頼まれて寄稿した若き日の私の原稿が掲載されている。読み返してみると、結構おもしろかった。今回は、その原稿をところどころ直し、場合によっては加筆して、転載することにした。

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 折に触れて万葉集を開く。読み方はまったくの自己流、その時々の想像の赴くままに読む。万葉の歌はどれもそれぞれにおもしろいが、何度となく読み返して興味深いのは、1人の女性をめぐる2人の男の争い、いわゆる三角関係のドラマが背後に窺われる歌群だ。

 「1人の女性を争う話」として誰もが思い浮かべるのは、額田王と、天智、天武天皇の兄弟の物語だろう。巻第1に、

20  あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)

21  紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも(大海人皇子、後の天武天皇)

 これらの歌は、天智天皇が蒲生野に狩りをした時、酒宴の座興に詠まれた歌というのが定説である。事実はそうかもしれないが、この歌の前後にある歌を見てみると……。(数字は歌番号)

 天智朝の前、斉明天皇時代の最後に、妻を争ったという大和三山伝説の歌(1314)がある。作者は、当時、皇太子であり、実権を握っていた中大兄皇子だ。

  彼が帝位につき天智朝となってから最初にある歌は、額田王の春秋を競わしめた歌(16)。次にくるのが、天智に召されて大津に下るとき、額田王が三輪山への惜別の思いを詠んだ歌(1718)である。 そして、先にあげた額田王、大海人皇子の歌(2021)がある。これを最後に天智朝は終わり、天武朝が始まる。(注 1519の歌は別の作者の歌とされている)

 天智朝と天武朝の間には、言うまでもなく、壬申の乱がある。それについて万葉集は一言も語らないが、斉明朝の終わりから、天智、天武朝に至る時代に、天智、額田王、天武のたった3人の歌しか登場させていないのは、1人の女性をめぐる兄弟の恋争いの物語を綴ることによって、壬申の乱へと盛り上がってゆく天智、天武の権力争いのドラマを、編者(大伴家持だとする説が最有力)は読み取らせようとしたのではないだろうか。

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 次に挙げるのは、持統天皇の代の歌。巻第2に、

107 あしひきの 山のしづくに妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに(大津皇子)

108 我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(石川郎女)

 大津皇子と石川郎女は人目をはばかりひそかに会っていたが、津守連通の占いによって密会が発覚、大津皇子は

109 大船の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

 「占いで2人の恋が発覚することは承知の上で2人で寝たのだ」と大胆にも詠んでいる。2人がなぜ人目をはばからねばならなかったかは、持統天皇の皇太子、草壁皇子が石川郎女に送った次の歌によって推察できる。(現代語訳は筆者)

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に刈る草(かや)の 束の間も 我れ忘れめや(大名児よ、彼方の野辺で刈るかやの1束の、そのつかの間も私は君が忘れられない)

 石川郎女は草壁皇子の思い人、つまり妻の一人であったようだ。大津皇子は天武の皇子、母は持統天皇の姉、大田皇女である。母が早く亡くなり、後ろ盾を失っていたが、容貌いかめしく、文武に秀で、人気も高かった。

 凡庸な草壁の歌にくらべて、大津の歌は調べ高く、強い意志が感じられる。病弱な草壁を支える持統天皇、藤原氏によって、大津は謀反を企てたとして死へと追いやられる。

 この謀反事件についても万葉集は直接触れないが、持統朝の最初に配置され、大津皇子と石川郎女の相聞歌の直前に配されている歌がある。大津が、伊勢神宮に仕える姉、大伯皇女を訪ねたときの歌で、大和に弟を見送る姉の不安な心情があふれている。

105 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし

106 ふたり行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

 大津が姉を訪ねたのは、自分が決起し、その結果殺されるかもしれないことを打ち明け、別れを告げにいったのかもしれない。

 巻第2の挽歌で、持統朝になって最初に掲げられているのは、大津皇子を悼む大伯皇女の有名な挽歌4首(163166)である。特に次の2首は、愛する弟の非業の死を現実のものとして受け止めようとする、姉の悲しみの深さが胸を打つ。

165 うつそみの 人にある我(あ)れや明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我れ見む(あなたは死んでしまったのに、現世にまだ生きている私は、明日からはあなたが葬られた二上山を弟だと思って生きていきましょう)

166 磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに(岩の上に生えた馬酔木を手折ろうとするけれども、その花を見せてあげたいあなたがこの世に生きているとは誰も言ってくれない)

 そのあとに続く167170が、草壁皇子を悼む柿本人麻呂の挽歌であるのは、偶然ではなく、編者の意図が働いていると見たい。

 ここでも、石川郎女をめぐる2人の皇子の恋の争いを描くことで、大津皇子対草壁皇子という皇位継承争いを暗示して見せている。

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 大津皇子、石川郎女、草壁皇子の相聞歌の数首あとに、但馬皇女の、穂積皇子を思う3首(114116)が挙げられている。中でも116の歌は、人を恋う若い女のひたむきで危うい情熱がほとばしり出ている。

116 人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(人の噂がひどくてうるさいので、この世に生まれて渡ったことのない冷たい朝の川を渡って、あなたを追っていきます) 

 このような情熱的な歌に対して、穂積皇子の返歌はない。皇女の死後、雪降る中で皇女の墓をはるかに望み、悲しみの涙を流しながら詠んだ挽歌があるのみである。

203 降る雪は あはにな振りそ 吉隠(よなばり)の 猪養の岡の 寒くあらまくに(雪よ、ひどく降らないでくれ。皇女が眠る吉隠の猪養の岡が寒かろうから)

 草壁皇太子の死によって、皇位継承争いは激しさを増していく。天武、あるいは天智の血を引く諸皇子が次々と失脚していき、沈黙させられる。

 但馬皇女は天武の長子、高市皇子の宮にいたとあるから、高市の妻の一人だったのだろう。その皇女と天武の第五皇子、穂積皇子が通じてしまった。そのことが原因なのか、穂積は一時、滋賀の山寺に追いやられる。都に戻されても、不注意な言動が命を落とすきっかけになりかねない。但馬皇女の死後、その墓を見やりながら挽歌を詠むことが、精いっぱいのことだったのかもしれない。

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 もう一つの例をあげよう。天武の第六皇子、弓削皇子が、異母妹の皇女、紀皇女を思って詠んだ歌が、巻第2の119122だ。その4首目、

122 大船の 泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子ゆゑに(停泊する港に大船が揺れてたゆたっているように、私も物思いに心が揺れて痩せてしまった。人妻の君に恋したせいで)

 「人の子ゆゑに」とあることから、紀皇女は他の皇子の妻だったようだ。皇女の返歌はないが、巻3の比喩歌390には、一人寝の寂しさを詠んだ紀皇女の歌が載っていて、弓削皇子との恋を暗示しているようにも読める。

 興味深いことに、穂積皇子が但馬皇女を偲んだ挽歌203のすぐ次に、弓削皇子が亡くなったときに置始東人が詠んだ挽歌204206が配されている。

 弓削皇子は、沈黙を続けた穂積皇子とちがって、物申す性格だったらしい。最古の日本漢詩集『懐風藻』には、持統天皇が草壁皇太子亡き後、その息子の軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にしようと諮ったときに、弓削皇子が意見を言おうとして、壬申の乱で敗れた大友皇子の王子、葛野王(持統天皇の意を汲んで、軽皇子の立太子を支持)に厳しく制止されたという話が載っている。

 弓削皇子も若くして亡くなっている。梅原猛氏は、その著『黄泉の王』で、高松塚古墳の主は弓削皇子ではないかという仮説を立てている。他の皇子の妃であった紀皇女と通じ、軽皇子の立太子に異論を唱えようとした弓削皇子は、持統天皇・藤原氏から危険分子と見なされ殺される。その墓が高松塚であるという仮説である。

 この仮説を是とするなら、前に挙げた三つの例と全く同じパターンが展開されていることになる。