空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

なぜ「贈与論」か -〝ギフト〟考 その2-

2021-06-24 23:42:58 | 日記・エッセイ・コラム

 友人と発行している同人紙からの転載です。発行が再開されたにもかかわらず、コロナ禍その他の理由で立夏号の発行が遅れているため、先にブログに転載しました。

 

 なぜ「贈与論」か  -“ギフト〟考  その2-

 前回で、「ギフト考」と題しながら、本筋とは少し離れた内容を書いた。

今回は、なぜ「ギフト」について考えようと思ったのか書いてみようと思う。

ちなみに、学術書などでは「贈与」論、「贈与」説と記述していることが多いのだが、「贈与」を「ギフト」と言いかえた方が、学術論から離れて、自由にイメージを広げることができるような気がしている。

 前回、文化人類学者、岩田慶治さんの著書、『道元の見た宇宙』で、マルセル・モースの「贈与論」を知ったこと、それを拡張解釈した「言霊(ことだま)論」を紹介した。

この考え方に出会って、世界の見方が変わったといっても過言ではない。

私は直感的に物事をとらえるほうだ。

映画を見ても、音楽を聴いても、美術作品を見ても、ある一点に強く惹かれて、その作品が記憶に残り、強く惹かれた一点の持つ意味を考えてしまう。

しかし、なぜ、惹かれたのか、なぜいつまでも記憶に残り、考えてしまうのか、自分でも理解できないことが多々あった。

 両親に介護が必要になったのは、10年以上も前になるだろうか。

そのころは付きっきりの介護はまだ必要がなくて、基本的には実家で生活し、週に1、2度、片道2時間かけて実家から自宅に戻るという生活を続けていた。

途中、電車の乗り換え駅で古書店を見つけ、時々立ち寄るようになった。

少し前から仏教書に親しむようになっていて、その頃は、道元が生涯をかけて書き継いだ『正法眼蔵』に取り組んでいたのだが、あまりの難解さに、途中で投げ出していた。

 ある時、その古書店で岩田慶治さんの『道元の見た宇宙』を見つけた。

私は、書店で本を手に取ると、まず、あとがきを読む。本の内容や筆者の意図が大体つかめるからだ。

『道元の見た宇宙』のあとがきのページを開けたとたん、いきなり心をつかまれ、夢中で読み進めた。

 岩田さんは、あとがきで、『正法眼蔵』を読むということについて次のように書いている。(紙面の関係でメモ書きでしか紹介できないのが残念)

 ◆本を読む〈とき〉は、本との出会いの〈とき〉である。〈出会いのとき〉は〈無心のとき〉でなければならない。

 ◆読むことは対話することである。対話することによって自分の存在を確かめ、自分のアイデンティティーを手に入れることができる。

 ◆(対話している)二人のコミュニケーションを成立させていたのは、実は、対坐している二人を包む場所である。文字や、言葉や、音の流れではなくて、対坐する二人でさえもなくて、二人を受けとめていた場所が対話の本当の主人公。

 ◆『正法眼蔵』を読むことは、『正法眼蔵』と自分が置かれている場所を読むことである。辞書不要、文法不要。もっぱら、そのとき、その場所に突入しなければならないのである。

 ◆〈時空〉を捨てる。文化の中に仕組まれた〈時空〉の尺度、座標軸を捨ててしまうと、そこに驚くべきことが起こる。新しい風景が見えてくる。

 ◆<時空>を捨てると、それまで見えなかったものが見えてくる。見えない世界から見える世界が誕生する、そういう万物創造の現場に立ちあうことになるのである。

 ◆岩田さんは文化人類学を4つの領域に分類し、第4の型、自他を究明しようとする学問の型を「自分づくり型」と名付けている。自他をあるがままに映す、全体を、宇宙を映す、そのための鏡をつくる学問で、これが道元の途にぞくすると言っている。  

 自分を取り囲んでいる、「文化の中に仕組まれた<時空>の尺度」を捨て、自他をあるがままに映すことは容易ではないが、辞書片手に言葉と格闘し、理解しようとしないで、ただ心の赴くままに本を読むように、読書の姿勢が変わっていった。

 『正法眼蔵』はもちろんのこと、『道元の見た宇宙』も、依然として難解であることに変わりはない。

しかし、途中で投げ出すということをせず、少し時間を置いては再び本を手に取り、繰り返し読む。繰り返し読んでいるうちに、前方にぼんやりと光が見える気がしたり、手探りしながらも面白いと感じたり、ばらばらに浮遊していた言葉たちが、突然、ひとつの世界を語り始めるということが起こってくる。

 そのように、読み進めていくうちに、岩田さん独自の「贈与論」、「言霊論」に出会ったのである。

岩田さんの解説による「贈与説」と、それを拡張解釈した「言霊論」をもう一度記してみよう。

【贈与説】AがBに贈り物をする。贈り物をもらったBは機会をとらえて、Aに贈り物のお返しをする。Aの贈り物には、Aの霊魂が付着している。BはAの霊魂をもとの主人に送り返すためにも、機会をみて贈り物をAに送り届けなければならない。そのように、贈り物、「もの」であると同時に情報でもあるものは、いわば霊魂のレールにのって去来するのである。モースはそのように考えた。

【言霊論】霊魂というのは目に見えない場所であり、身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間なのである。贈り物とともに霊魂が去来すると考えるのは、私とあなたはたがいに同じ命の場を共有している、同じ目に見えない土壌の上に生きている、ということを「もの」 の去来を通して確認するためなのである。霊=場所の上を運ばれてゆくから、言(こと)=記号が相手に届き、相手からの返信がかえってくるのである。

 岩田さんの「贈与説」「言霊論」に出会ってのち、音楽や、映画、美術作品に心惹かれたときは、「ギフト」という視点を持つようになり、「もの」とともに、霊(たま)が去来する、その場をイメージするようになった。

すると、その作品たちが、単に表現されたものの枠をはみ出して、もっと拡がりを持った世界、深い意味を示し始めることがたびたび起こった。啓示といってもよい。

 映画「蜜蜂と遠雷」では、著名なピアニストで、今は故人となったホフマンから、コンクール出場者、風間塵を推薦する手紙が審査員たちに送られてくる。

その手紙には、「この少年をギフトと取るか厄災と取るかは、諸君の裁量しだいだ」と書かれていて、審査員たちを困惑させる。

私がこの「ギフト」という言葉に直感的に反応したのは、以上のような理由による。 

 風間塵は、この世界のあらゆる現象のなかに、音楽を感じることができる少年として描かれている。

蜜蜂の羽音も遠雷も音楽だ。音楽は、この世界、宇宙からの「ギフト」であり、音楽を演奏するということは、この世界、宇宙へ、ギフトのお返しをするということなのである。

岩田さん流に言えば、世俗的な、音楽という〈時空〉の尺度を捨て、万物創造の現場に立ちあっている。

 『道元の見た宇宙』を読み進めているころに続けて観た、心に残る2本の映画がある。「テンペスト」と、「大鹿村騒動記」だ。

 「テンペスト」はシェイクスピア最後の戯曲だ。

女性であるジュリー・テイモア監督は主人公のプロスペローを女性に変えて、時には世界を滅ぼしもするが、一方では豊かなものを生みだす大地であるという女性原理を象徴的に使うなど、様々な新しい演出を試みている。

 ミラノ大公であったプロスペローは、大公の地位を奪った弟、アントーニオの一行が乗った船を難破させ、登場人物たちは魔法を駆使したプロスペローの復讐劇に振り回される。

しかし、最後にプロスペローは復讐を思いとどまり、魔法の本と杖を海に投げ入れる。

魔法の本が海に沈んでいく映像とともに、和解と再生を願うプロスペローの、歌のようなセリフが流れるシーンはとても美しい。

 テイモア監督は、ミュージカル「ライオンキング」で、独自の動物の衣装というか装置を考えたことで有名な演出家だ。

「テンペスト」を撮る10年前に、やはりシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」を原作とした「タイタス」という映画を世に出している。

これは、アンソニー・ホプキンス扮するローマの武将タイタスの、徹底した復讐劇で、あらゆるものの命を奪い、何も生みださない、人間の悲劇を描いている。

いわば不寛容な男性原理のもたらす悲劇である。

 「タイタス」の悲劇を埋めるかのように、10年後、「テンペスト」という和解と再生の物語を世に出したのは、テイモア監督の、この世界へのギフトのように思える。

シェイクスピア自身が、最後の戯曲として「テンペスト」を書いたのも、この世界へのギフトだったのではないだろうか。

 「大鹿村騒動記」は、300年間、長野県下伊那郡大鹿村の村人たちによって演じられてきた「大鹿歌舞伎」をテーマにした映画だ。

国選択無形民俗文化財に指定されている大鹿歌舞伎に芸能の原点を見出した原田芳雄の発案で、阪本順治が脚本を書き、監督した。

原田芳雄は末期がんをおして撮影を続け、映画公開の3日後に亡くなっている。

 映画「大鹿村騒動記」は、いろいろなトラブルや事情を抱えた村人たちの現実と、大鹿歌舞伎が並行して進行する。

演目は「六千両後日之文章重忠館之段」。この演目は、大鹿歌舞伎にしか残っていないそうである。

 平家の落人、景清が、仇である源頼朝とその重臣、畠山重忠にたった1人で戦いを挑み、源氏の世を見たくないために、自ら両眼をくりぬく。

頼朝は自分を襲った景清を赦し、景清は最後に、目から血を流しながら「仇も恨みもこれまで、これまで」と見得を切り、日向に落ちのびてゆく、という平家滅亡の後日談だ。

 歌舞伎が「和解」で終わるように、村人たちの様々な事情も、それなりの解決点を見出していく。

 映画を撮っているときには、原田芳雄は自分が映画の公開直後に死ぬとは思っていなかったかもしれないが、身体の中に重いがんを抱えていたし、71歳という年齢は、原田芳雄から一切の無駄なものを取り除き、純粋に芸能の原点に立ち返って、伝えるべきものを伝えようとしていたのではないだろうか。

その原田芳雄とともに演じている他の俳優たちも、監督やスタッフたちも、実に生き生きと映画作りを楽しんでいる、そういう空気が観客席にまで伝わってくるような映画だった。

 シェイクスピア劇、歌舞伎というまったく違った演劇のなかに、「和解と再生」という共通のテーマを見出したことは、新鮮な発見だった。

「ギフト」「霊魂が去来する場」というイメージがなかったなら、こんな発見はできなかっただろう。

 多くの悲喜劇を世に出し、最後に和解と再生の物語「テンペスト」を書いたシェイクスピアも、奇想天外な展開の中で観客の共感とカタルシスを導き出す歌舞伎、そして、歌舞伎以上に奇想天外な物語で観客を引き付ける人形浄瑠璃も、演劇という空間、魂の去来する場を共有する点で同じである。

観客は多分、喜劇であれ、悲劇であれ、知らず知らずのうちに、その空間の先に、和解と再生の物語を読み取っているのではないだろうか。

 原田芳雄が大鹿歌舞伎に見出した芸能の原点とは、演者と観客が、演劇という空間で、霊魂の交換をするということではなかったかと思う。

そして、映画「大鹿村騒動記」は、原田芳雄の遺言であると同時に、最後の「ギフト」だったのだと思う。 


岩佐寿哉・川口汐子往復書簡集『あの夏、少年はいた』を読むー〝ギフト〟考 その1

2021-03-09 18:09:24 | 日記・エッセイ・コラム

 コロナでブログも自粛していたわけではなかったが、1年ぶりの更新である。

 友人たちと年4回発行していたミニコミ紙も発行を休止していたが、1年ぶりに再開した。そのミニコミ紙に書いたエッセイを再録する。

 

岩佐寿弥・川口汐子往復書簡集『あの夏、少年はいた』を読む

                  ―〝ギフト〟考 その1―

 

 1年も前のこと、映画「蜜蜂と遠雷」を見た。

 それより少し前、NHKBSで「蜜蜂と遠雷~若きピアニストたちの18日」というドキュメンタリーが放送されていた。

 「第10回浜松国際ピアノコンクール」に挑戦する若きピアニストたちの姿を追った、その番組の中で、このコンクールが恩田陸の小説『蜜蜂と遠雷』のモデルになっているという説明があった。

 放送と相前後して映画が上映されたので、見に行ったのである。

 記憶に残っている場面がある。今は亡き著名なピアニスト、ホフマンが、コンクール参加者の一人、風間塵を推薦する手紙を審査員たちに送っていた。

「この少年を災厄と取るか、ギフトと取るかは諸君の裁量次第だ」という手紙に審査員たちは困惑する。

 私は、「ここにも〝ギフト〟が出てきた」と驚いた。

 作者が〝ギフト〟をどんな意味で使ったのかはともかく、私はフランスの社会学者、マルセル・モースが未開社会における贈り物の交換について論じた「贈与論」を思い出したのである。 

 文化人類学者であり、道元の深い理解者である岩田慶治さんの著書、『道元の見た宇宙』を読んで、初めてモースの学説のことを知った。((岩田さんは「贈与説」と表記)

 岩田さんは、「第2章 道元の言葉」の中で、言霊(ことだま)についての理解を助けるために、「贈与説」を紹介している。 

 要約すると「AがBに贈り物をする。贈り物をもらったBは機会をとらえて、Aに贈り物のお返しをする。Aの贈り物には、Aの霊魂が付着している。この霊魂はもともとAのものだから、いつかAのもとに戻りたいと思っている。そこで、BはAの霊魂をもとの主人に送り返すためにも、機会をみて贈り物をAに送り届けなければならない。そのように、贈り物、ものであると同時に情報でもあるものは、いわば霊魂のレールにのって去来するのである。モースはそのように考えた」。

 岩田さんは、ものに付着して去来する霊魂を、ある種の空間だと考える。

 「霊魂というのは目に見えない場所であり、……身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間なのである。

 ……贈り物とともに霊魂が去来すると考えるのは、……私とあなたはたがいに同じ命の場を共有している、同じ目に見えない土壌の上に生きている、ということを『もの』の去来を通して確認するためなのである。

 ……ここまで解説すれば、あらためて述べるまでもなく、言霊といわれるものがモースのいう、そして私が拡張解釈した、霊(たま) =場所にあたるということが納得されるであろう。

 霊=場所の上を運ばれてゆくから、言(こと)=記号が相手に届き、相手からの返信がかえってくるのである。」

 

 前置きが長くなった。さて、今回のテーマ、岩佐寿弥さんと川口汐子さんの往復書簡集に移る。

 今年1月、BSプレミアムで「あの夏~60年目の恋文~」と題したドキュメンタリ―が再放送されていた。

 2006年の初回放送時に見た記憶があった。テレビをつけたまま、家事をしながら耳だけを傾けていたが、「モウモ チェンガ」「いわさひさや」という聞き覚えのある名が耳に飛び込んできて、慌ててテレビの前に座った。

 「あの夏~60年目の恋文~」は、昭和19年、奈良女高師(現奈良女子大学)附属国民学校4年生の少年が、教育実習生として教壇に立った雪山先生にひそかな恋心を抱き、60年後、その先生の消息を偶然知って、長い手紙を書く。

 何回かの手紙のやりとりと、再会後の交流を、先生の孫娘の目を通した再現ドラマ仕立てで描いている。

 奇跡とも思える再会と、年齢を超えた2人の交流に、とても感動した覚えがあるが、初回放送当時は、映画作家である岩佐寿弥さんのことを私はまだ知らなかったから、少年の名も記憶に残らなかった。

 映画「オロ」を見たのは2013年だったか。インド・ダラムサラで、チベット亡命政府が運営する「チベットこども村」に学ぶ少年、オロを描いた作品だ。

 監督が岩佐寿弥さんだった。その映画を見て、岩佐寿弥という名が初めて私の記憶と心に刻まれたのである。

 オロは母親に勧められて家族と別れ、ヒマラヤを越えてインドに亡命してきた。

 このような子供たちが多くいることは、ドキュメンタリー映画「ヒマラヤを越える子供たち」にくわしく描かれている。

 オロが「監督は年寄りなのに、なんでこんな映画を撮るのか」と尋ね、岩佐監督がまじめに答え、オロが納得するシーン、10年前に撮った映画「モウモ チェンガ」の主人公で、ネパールに住むチベット難民のおばあさんに会い、おばあさんの家族と親しくなったオロが自らのことを語りだすシーン、映画の最後でオロは「それでもぼくは歩いていく」と決意するシーン、どれも心に残る。

 「ぼくのなかでオロは〈チベットの少年〉という枠をこえて地球上のすべての少年を象徴するまでに変容していった」と岩佐監督は語っている。

 監督についてもっと知りたいと思い、公式ホームページを見た。岩佐監督の訃報が載っていた。

 2013年5月3日、宮城県での「オロ」上映会のあと、宿泊先で階段から転落し、翌4日、亡くなったという。享年78歳。

 映画「オロ」は、各地のミニシアターや自主上映会で共感の輪が広がり、ⅮⅤⅮも出ていることを知ったので、早速取り寄せた。

 上映会の開催に奔走し、道の途中で亡くなった岩佐監督へのせめてもの追悼の気持ちからでもある。

 テレビのドキュメンタリー「あの夏~60年目の恋文~」の再放送を見る中で、この番組が、岩佐寿弥さんと、教生の雪山先生(結婚後、川口汐子さんとなる)との往復書簡集『あの夏、少年はいた』をもとに構成されたものだと知った。

2005年刊の本は絶版になっていたが、地元の図書館で見つけ、1週間前にようやく手にすることができた。

 2003年8月のある夜、岩佐さんは、ⅮⅤⅮに録画していたテレビ番組を見て、そこに出演していた川口汐子さんが、雪山先生ではないかと気づく。

 NHKのアーカイブ番組「戦争を伝える」シリーズで、1979年に放映された「昭和萬葉集」という番組だった。

 その中で結婚したばかりの夫のことを詠んだ川口さんの短歌が朗読され、川口さんの短いインタビューのシーンがあった。

 川口さんの夫は海軍士官で、特攻隊として出撃する運命にあった。少しでも夫の近くにいたいと、川口さんは夫を追って任地を転々とする。出撃予定日の一週間前に戦争は終わった。

 岩佐さんは、テレビにくぎ付けになる。

 国民学校時代のアルバムを持ち出して、集合写真にある雪山先生とテレビ画面の川口汐子さんの顔を見比べ、朗読された短歌

 「君が機影 ひたとわが上にさしたれば 息もつまりて たちつくしたり」

の詠み人の名に汐子とあるのを見て、川口さんが雪山先生であると確信する。

 インターネットで、川口さんが姫路に健在であり、歌人、随筆家、童話作家として活躍していることを知り、川口さんの歌集を取り寄せ、長い手紙を書く。

 そして、時間を60年前に一気に引き戻すような、2人の交流が始まるのである。

 ドキュメンタリーの再放送を見て、あの少年は岩佐さんだったのかと分かったのは、川口さんの娘と孫が、岩佐さんに会うべく、「モウモ チェンガ」の上映会に現れるシーンであった。

 私の中で、戦争中、雪山先生に恋した少年と、映画「オロ」を撮った岩佐監督の人間像が、矛盾することなく重なった。

 2人の感動的な往復書簡の内容を記したいが、紙面がないので、岩佐さんが巻末に記したエピローグを紹介する。

 岩佐さんは川口さんへの最初の手紙で国民学校4年生の夏休み、京都の叔母の家近くにあった雪山先生の家を探し当て、表札を見ただけで引き返したことを告白している。

 再会後、幾度か姫路に川口さんを訪ねたある日、「京都のあの家は今もあるのですか」と尋ねた岩佐さんに、川口さんは「今から一緒に行きましょう」と、夕暮れ時の住宅街で家を探し出す。

 60年前そのままの門前に、八十嫗と七十翁は立ち並んだ。岩佐さんが「表札はもっと高く見えたなあ」と思ったとき、川口さんは杖を取り落とし、うつ伏して泣いていた。

 このとき、2人のいた場所は、岩田慶治さんが「言霊」と呼び、「身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間」「たがいに同じ命の場を共有している」と表現した、霊(たま)=場所であるような空間だと思うのだ。

 その空間は、戦争中、少年だった岩佐さんが雪山先生に出会った場所であり、若き日の川口さんが戦争の時代に自分を見失わなかった場所であり、60年後に2人が再会し手紙を交換した場所であり、岩佐さんが「オロ」と出会った場所でもある。

 2人は亡き人となったけれども、その場所は、目に見えぬところに永遠に存在していると思う。

 岩佐さんのあとがきの次のページ、書簡集の最後のページに記された歌。

「少年も少女も齢(よはひ)重ねたりふつふつと粥煮ゆるときのま    川口汐子」

 


中山連山のコバノミツバツツジ

2019-05-01 00:40:55 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、コバノミツバツツジが咲くころ、友人と二人で中山連山を歩く。

いつもは連休に入ってからだが、花が散ってしまっているので、今年は1週間早く、21日の日曜日に出かけた。

藤棚がある公園から山に入る。白藤が満開で、その藤を見に来ている人が結構いた。いつもはアブハナバチがブンブン飛び回っているのだが、今年は数が少ない。

4月に入ってから、寒さがぶり返す日が多かったせいだろうか。

友人ともども、年のせいで足腰が弱ってきているので、ゆっくりと歩く。

曇り空でも、歩き始めると汗びっしょりになって、髪を染めて間もなかったので、帽子の縁が染料で青く染まってしまった。これもいつものことである。

登り始めたのが11時を過ぎていたので、会う人は、下りの人ばかり。それも、若い人より我々と同年配の高齢者が多い。

はあはあ言いながら登っていくと、高齢の男性のグループが突っ立っている。

かれらが立ち去ってから、私たちは石の上に腰かけ、チョコレートを口に含んでお茶を飲んだ。

友人曰く。「さっきの人たち、立ったままだったでしょ。座ると立ち上がるのにしんどいから、立ったまま休憩してたんよ」。

たしかに、高齢者は一度座ると、なかなか立ち上がれない。

私たちがお弁当を食べるのは、一度沢に下りてから。水の流れが気持ちいいし、日陰だから涼しい。

ところが、下ってきた男女の高齢者グループから、「こんなところで食事したら、石が落ちてきて危ないよ」と声をかけられた。

「いつもここで食べているから大丈夫です」と言うと、「この人は登山のプロだから」と、女性が男性を指さして言う。

たしかに周りは、土が崩れたあとがあったが、いかにも「プロの言うことを聞け」と言われたようで、少しカチンときた。

親切心で言ってくれたらしいが、もう少し言いようがあるのではと思う。

腹ごしらえを済ませて、沢を登る。頂上までには、急な、岩だらけの登りが続く。体がなまっているうえに、お腹がいっぱいになったあとなので、息苦しい。

それでも、昨年登った時よりはましなような気がする。

昨年、駅までのバスが1時間に1本しかないところに引っ越したので、急ぐ時と炎天下をのぞいては、歩くようにしている。

それで少しは足腰が鍛えられたかもしれない。

途中会った女性が、頂上近くがいちばんツツジがきれいだと教えてくれた。

ちょうど満開の時期だが、花をつけているツツジの木そのものが少ない。

昨年夏の猛暑と台風、秋の大雨、暖冬という異常気象で木が弱って、花をつけていないのだ。

頂上にはいくつかのグループが立ったまま、休憩していた。座るのに適当な岩などがないせいもあるが、やはり一度座ってしまうと、立ち上がるのがしんどいからなのだろうか。

私たちは紙袋を敷いて座り、甘いお菓子で一服した。

それから奥の院目指して降りる。トイレと聖水を汲むのが目的だ。聖水を持ち帰り、家でコーヒーをいれるのが毎年の楽しみなのだ。

奥の院はきれいに整備されて、昔のような雰囲気は失われたが、それでも、高木が茂っていたり、ツバキをはじめ、いろいろな花が咲いていて、好きな場所だ。

ベンチでコーヒーを入れて一服。

それから阪急中山観音駅まで降りるはずだった。

ところが、途中の夫婦岩で道を間違えたらしい。出たところが売布きよしガ丘という新興住宅地。売布神社駅までアスファルトの道を下っていると足が痛い。

中山観音へ出て、駅から国道に出たところにある「マリーアンジュ」というケーキ屋さんで、ゴルゴンゾーラのチーズケーキと紅茶をいただいて、疲れをいやすというのが最初の予定だった。

友人は途中下車するのは面倒だと、そのまま電車に乗って帰って行った。

私だけ中山観音で降りて、まず駅前の苗屋さんで、ニガウリの苗を買った。これも例年のこと。

マリーアンジュのケーキはどれもおいしいが、とりわけ、ゴルゴンゾーラのチーズケーキは、ほかではお目にかかったことがないし、途中下車してでも食べる価値があると私は思う。

ところが、この日はそのケーキがなかった。

ショック! ゴルゴンゾーラチーズが明日にならないと入荷しないのだそうだ。

ご主人(パティシエというのかな)が挨拶にきて、ゴルゴンゾーラのチーズケーキを作るようになったいきさつを話してくれた。

酒飲みで、ケーキをあまり好きではない知人にもおいしいと言ってもらえるケーキを作ろう、酒を飲みながらでも食べられるケーキを作ろうと、研究を重ねて作り上げたのだそうだ。

ゴルゴンゾーラの塩味と合わせるのに何をどれだけ使うか、いろいろ組み合わせて工夫したそうである。

この話を聞いたうえは、また近いうちに、店に寄って、ケーキを食べないわけにはいかない。

その日は、他のお勧めのケーキと紅茶をいただいた。

とてもおいしくて、山登りの疲れも十分癒やしてもらった。

来年はツツジがたくさんの花をつけますように。

 

 

 

 

 

 

 

 


ふたたびの豪雨被害に思うこと

2018-08-16 03:57:19 | 日記・エッセイ・コラム

 猛暑と気力と時間がなくて、なかなかブログを更新できません。

 例によって、友人と発行している同人紙からの転載です。

 

  ふたたびの豪雨被害に思うこと 

 7月中ごろ、兵庫県丹波市市島町を訪れた。

 私が40年近く有機野菜などをとっている「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称「求める会」)と提携して、野菜や卵、米を生産しているのが「市島町有機農業研究会」(通称・市有研)で、求める会は毎月の市有研との話し合いのほか、年2回、作付け会議と圃場見学を行っている。

 今回は秋冬野菜の作付け会議と、6月末から7月上旬、台風7号と梅雨前線による集中豪雨(「平成30年7月豪雨」と命名、「西日本豪雨」とも)が市島にもたらした被害を知るための圃場見学だ。

 通常は生産者担当係の会員数名が参加するだけだが、今回は8名の会員が市島を訪れた。

 2014年の丹波豪雨被害については以前にも書いたが、その被害から何とか立ち直ろうとしていた矢先、今回の西日本豪雨災害が起きた。

 会員は、丹波豪雨以降の生産者の苦労話をずっと聞いていたから、市有研の畑がどうなっているのか心配のあまり、8名のメンバーが猛暑の中、市島を訪れたのだ。

 当日は日向に出れば皮膚がじりじり焼けるような熱暑。

 インターネットで調べたら、当日の最高気温は36℃、最低気温は28℃前日の最高気温は37℃、前々日は38℃もあった。

 雨が降り続いた日々は最高気温25℃~30℃だった。

 ちなみに過去の7月の平均は、最高31℃、最低23℃とある。最近の気温がいかに異常なものであるかが分かる。

 まず、I さんの畑に行って驚いた。

 例年なら炎天下でも青々と茂っているはずのピーマン、万願寺トウガラシが全部立ち枯れしている。

 雨が降り続いて排水ができず、3、4日も水に浸かっていたので豪雨の後の猛暑で根腐れし、枯れてしまったという。

 雨の後は一転して35℃~38℃の猛暑が続き、病気、虫害が発生した。

 農作物にとってはたまったものではない。

 半分緑が残っているピーマンも枝が折れ、枯れるのは時間の問題だとI さんは言った。

 参加者の中には、立ち枯れした万願寺トウガラシの、緑色のしなびた実をちぎっている人もいる。「まだ食べられるだろうから」と言うのだ。

 昨年はイノシシにやられて全滅したカボチャ。

 今年は獣害もなく出来がいいと、I さんも私たちも2年越しの収穫を楽しみにしていた。

 そのカボチャも水没して腐ってしまった。

 ナスは水には強いが、台風で傷がついた。

 その後の暑い日差しで日焼けが起き、さらにテントウムシダマシが葉裏に卵をびっしり生んで駆除に苦労しているそうだ。

 有機農業は農薬を使えないので、病虫害の駆除は大変な作業である。

 豪雨災害は、水が引いたあとも、猛暑、病気、害虫による被害をもたらす。

 サトイモも雨の後の日照りで葉が赤くなり元気がない。

  I さんの別の畑では、ハウスでキュウリ、トマトを栽培している。

 キュウリは台風で葉擦れが起きたうえに、ウリバエが飛び回っていた。

 ウリバエは葉にも実にもついて木を弱らせる。

 トマト、ミニトマトにはタバコ蛾の幼虫が木や実に入り、食害をもたらす。

 ハウス内にも水が入った。トマトは水が入ると実が割れるし、外が暑すぎると花が実にならないという。

 ハウスの中は40℃にもなって、作業をしていると火傷のようになると、Iさんは言う。

 次にH さんの畑に回った。

 4年前の丹波豪雨では、H さんの家の裏山から土砂が流入して、倉庫の農機、出荷前のタマネギが土砂に埋まった。近所では死者も出た。

 今回は、同じように裏山から土砂が流れてきたが、自治体が工事をして、前ほどの被害はなかったが、保存していたジャガイモが水に浸かったという。

 畑にも土砂が流入した。4年前に被害を受けた同じ畑である。Iさんと同じく、ピーマン、万願寺トウガラシがやられた。

 大きな株が泥に埋まって枯れていたので、これは何ですかと尋ねたら、ズッキーニだという。

 ズッキーニは雨に弱く、その後の猛暑で腐ってしまったそうだ。

 大きな株が畑一面、腐って枯れている姿は、断末魔の怪獣がのたうち回っているような、痛々しい感じがした。

 カボチャも腐ったという。

 H さんは平飼いで養鶏もしている。

 その鶏舎にも水が入りぬかるんでいるので、石灰を撒いてなんとかしのいだそうだ。

 市有研は6月に1人のメンバーが、高齢を理由に退会したので、2人になった。

 その上に今回の豪雨被害。今後どの程度の野菜を出荷できるのか、予想がつかない。

 今回は市有研の圃場見学ということで、同じ市島で米を作っている I N さんと、Tさんの畑を見ることはできなかった。

  T さんはお米のほかに、大豆畑トラストの大豆を栽培している。

 大豆畑トラストとは、1口1000円で会員を募り、大豆を作ってもらって、消費者は大豆または味噌の形で収穫物をいただいて国産大豆の生産を支えるという運動である。

 Tさんの作る大豆は見栄えもよく、おいしいので、毎年楽しみにしているのだが、大豆畑にも水が入り、一部の種が流されてしまったそうだ。

 畑が乾いてから流された部分の種を蒔きなおすそうだが、収穫にどう影響するだろうか。

 I N さんの田んぼは、丹波豪雨のときに、一番大きな被害を受けている。

 収穫前の山裾の田んぼが大量の土砂に埋まり、修復は不可能に思われた。

 驚くべきことに4年かかって整備し、今年やっと収穫できると期待していた、その田んぼが再び土砂に埋まってしまった。「

 心が折れそうになった」とI  Nさんは言ったあとで、「西日本豪雨ではもっとひどい被害を受けた人たちがいる、その人たちに比べたら……」と気丈に付け加えられたという。ほんとうに胸が痛む。

 市島は4年前の丹波豪雨で大きな被害を受けた後も、獣よけの電気柵の修復が遅れて獣害がますます増え、台風被害、大雪によるハウス倒壊、病虫害による被害、日照不足、反対に豪雨の後の日照りと、自然災害に悩まされ続けた。

 その結果、私たちに届けられる野菜が少なかったり、固かったり、虫食いが多かったり、黄色くなっていたりと、消費者のクレームが多くなっていた。

 中には、プロ意識が足りないのではないかと言う人もいる。

 そんな苦情は、豪雨被害の現場を目にすれば、言えなくなるだろうと思う。

 求める会と市有研が確認し合った「提携の基本方針」には、「生産者と消費者は生命を委託し合う関係」であり、「農産物は市場経済でいう商品ではない」と記されている。

 ところが、私たちはいつの間にか市場経済のものの見方に影響されて、お金を払って買うのだからと、完全な農産物を欲しがるようになってしまった。

 Hさんから聞いた話では、生協に出すキュウリは写真の見本があって、その通りの色、形でないと出荷できないそうだ。

 農水省発表では、今回の豪雨による農林水産業の被害額は1197億9000万円にのぼるという。

 被害が大きかった広島、岡山の把握ができていないので、被害額は今後大幅に拡大する見通しだそうだ。

 神戸新聞によると、兵庫県内の農林水産業の被害額は120億4600万円で、4年前の丹波豪雨の被害額65億円の倍近くになるとのこと。

 うち、畔やため池破損など農地・農業用施設の被害が66億円で5割を超える。市町別では宍粟市、丹波市の被害が最大で約17億円にのぼる。

 このような被害は、これからも続くだろう。地球規模で温暖化による異常気象が起きているのだから。

 危惧すべきは、農産物被害にとどまらない。

 高齢化、過疎化でただでさえ農業従事者が減り続けている現在、被害が続けば、農業をやめる人が増えるのは想像に難くない。

 今日の民放のニュースで、今回の被害が大きくなった原因の一つが、農林業従事者がいなくなって、山や水路、ため池の管理が行き届かなくなったためであるという特集をやっていた。

 何億円もかけて大規模な砂防ダムを作っても、小さな水路やため池が決壊し、それが原因で被害が大きくなったという現場を取材していた。

 このような検証は初めて見たような気がする。

 兵庫県の被害額のうち、畔やため池破損など農地・農業用施設の被害額が半分を超えているのも、それらを管理する人々がいなくなったということではないだろうか。

 日本の自然は、里山、里海の自然で、農林水産業に従事する人々の手によって管理されてきたという歴史がある。

 私たちは、第一次産業に携わる人々、私たちの命のもとを作っている人々の手によって守られてきたという認識をもっと持ってもいいのではないだろうか。

 

 


気功と動的平衡と有機農業と

2017-08-22 21:42:57 | 日記・エッセイ・コラム

 友人と出している同人紙からの転載です。 

  

  三題噺のような題名だが、「気功」「動的平衡」「有機農業」、最近、この三つの言葉を結びつけて、考えを巡らすようになった。その経緯について書く。

 「峨眉気功」との出会い 

 「気功」とは、「峨眉気功」のこと。昨年暮れ、上智大学大阪サテライトキャンパスの公開講座「こころとからだのケア学」を受講した。

 全4回の講座は、毎回、後半に「峨眉気功」の実習がついていて、峨眉気功の中の基礎となる「伸展功」の技を習った。

 講座のまとめに、「東アジアの養生文化の発掘と未来可能性」というシンポジウムも開かれ、峨眉気功の伝承者、張明亮先生の講演を聞く機会に恵まれた。

 張先生が第14代伝人として中国内外で指導している「峨眉丹道医薬養生学」は800年の歴史があり、峨眉山の臨済宗の僧、白雲禅師が創設したと伝えられる。峨眉山は道教の聖地でもあり、芥川龍之介の短編『杜子春』で、主人公の杜子春が仙人修行をするところが峨眉山である。

 峨眉養生学の中心となる思想は、「太極」に象徴される宇宙観や生命観、「気」の思想だ。

 私は更年期に持病の喘息やアレルギーが悪化し、中医学の治療で改善した経験がある。現在も主治医は中医学の先生だし、鍼灸治療も続けてきて気の存在を実感しているので、張先生の峨眉養生学についての話はとても納得できるものだった。

 生命の三つの側面―「形」「気」「神」 

 とりわけ印象に残ったのは、「形」「気」「神」についての話だ。宇宙の万物はすべて「気」で構成されており、生命の根源である。

 「気」には「有形」と「無形」の二種類の存在形式がある。無形の気は微細で、拡散し、運動している状態で、見ることができない。有形の気は、気が凝縮して、目で見える実体となったものだ。

 これを人間に当てはめると、目に見える肉体は有形の気で、「形(けい)」という。目に見えない心、精神などは無形の気で「神(しん)」という。

 気は、形と神を仲介してつなぐもので、生命そのものである。気がなければ肉体は死に、心は活動できない。

 張先生はまた、気は私とあなたをつなぎ、私と世界、自然、宇宙をつなぐものだと説明された。

 峨眉伸展功は導引術の一つ。導引とは、肢体の屈伸運動で気血の巡りを促し、健康体と長寿をもたらす、中国古来の養生法だ。

 張先生は、伝統的な導引術を基礎として、ヨガなども取り入れ、「峨眉伸展功」を完成された。

 伸展功は、伸ばす、曲げる、緊張させる、緩ませるという身体運動によって、気を鍛錬し、心身をコントロールし、形神合一(心身合一)、ひいては人天合一を目指す技である。

 気をコントロールするためには、気を感じることが必要だ。

 例えば、立つという姿勢の場合、頭頂と足底の二点を相反する方向に伸展させる。すると二点の間に、気が通る道ができる。この気の通る道を「勁(けい)」といって、張りすぎても緩めすぎてもいけない。

 伸展功は、「勁」を常に保ちながら動かなければならない。しかし、緊張させる部分、緩める部分、身体のあらゆる部分の動きを観察し、正しい姿勢と動きを身につけなければ、「勁」を感じることはできないし、「気」も感じられない。

 私は長年、友人の鍼灸師の下で鍼灸治療を受けてきた。気が通る道筋を経絡(けいらく)というのだが、的確なツボに鍼(はり)を打たれると、経絡に沿って気が動いていく様子を実況中継できるほど、気を感じ取ることができるようになった。しかし、伸展功で「勁」を感じるのは難しい。

 今、月一回の講習会と、月三回の伸展功を中心とした気功教室に通っているのだが、道遠しである。それでも、体が動く限り続けようと思っている。

 続ける理由は、伸展功が単なる健康体操ではなく、その背景に道教や仏教など、東洋の叡智ともいうべき身体観、世界観、宇宙観があって、折に触れて新しい発見をもたらしてくれるからである。

 ◇動的平衡こそ生命の働き 

 伸展功を学び始めて半年ぐらいたったころ、教育テレビの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で、生物学者の福岡伸一先生と坂本龍一の対談を聞いた。

 坂本龍一の音楽に対する真摯な姿勢にも感動させられたが、福岡先生が「動的平衡」について話した内容に、思わず引き込まれた。

 福岡先生の多くの著作はいまだ読んだことがなく、動的平衡という言葉も聞いてはいたが、それがどういうことを指すのか知らずにいた。

 ロックフェラー大学で、自分の研究分野のことを坂本龍一に話す場面で、動的平衡という言葉が出てきた。

 20世紀の生物学は、細胞の中で何がどういうふうに作られているかというメカニズムばかり研究してきた。しかし、今世紀にかけて、作ることよりも壊すことの重要性が注目されるようになった。

 福岡先生は、三分の一ほどが欠けた車輪が坂を登っていく図を示す。

 欠けている輪の下の端で分解作用が起き、上の端で合成作用が起きている。分解と合成の絶妙なバランスが、生命現象の流れ=動的平衡で、車輪が坂を登る力となり、転がり落ちるのを防いでいる。

 つまり壊すこと、分解がなければ、生命は維持されない。合成より分解のスピードが勝れば、細胞は老化し、やがて死に至る。

 福岡先生が示した動的平衡の図は、太極図を思い起こさせた。太極図の陰の部分が分解作用と考えれば、陽の部分は合成作用。陰と陽は常に動き、変わり続けている。しかし気の働きによって絶妙のバランスをとっているので、生命も宇宙も維持されている。

 また、動的平衡の概念は、仏教の「因果の法」や「無常」にも通じる。

 複雑な因果の働きによって物事が生じては滅する。生きとし生けるものは一瞬たりとも留まることなく、変化し続けている。

 『方丈記』の冒頭部分「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」、だからこそ川は流れ続けることができるのだ。

 ◇有機農業の有機とは「天地有機」 

 この6月、久しぶりに保田茂先生のお話を聞いた。保田先生は、私がかかわっている産消提携団体「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称求める会)を40年以上前に立ち上げた一人である。

 神戸大学農学部の教授を退官されたあと、NPO法人・農漁村文化研究所を創設し、有機農業の研究と普及に携わっておられる。

 「有機農業が目指してきたもの、目指すもの」と題された講演で、改めて考えさせられたのは、有機農業の本質的な意味についてである。

 保田先生は、1970年代に有機農業運動に尽力した一楽照雄氏の思想に触れ、「有機農業の有機は、『天地有機すなわち、天地、機あり』と理解すべきである」と言われた。天地には自然の働き、法則があるという意味である。

 ハッとさせられた。今まで、有機とは、有機物の有機だと解釈し、有機農業とは農薬や化学肥料を使わず、環境に負荷をかけない農業だというような、表面的な理解しかしていなかった。

 保田先生の言葉に強く心が動かされたのは、中医学や鍼灸治療を受けてきた経験や、伸展功、仏教の勉強を通じて、日常的に「天地有機」を感じるようになっていたからだと思う。

 「有機農業とは、大自然の法則を大地に生かす農業だ」と先生は言われた。

 「天地有機の世界は、山の森、土手の草むらに存在する。山の木、土手の草は自然の法則に従って生きているから、病気や害虫の被害はほとんどない。その秘密の力は土(腐葉土)と環境(生態系)にある。腐葉土は、植物性の有機物を主体に、ダンゴムシ、ゴミムシ、ミミズなどの小動物、土壌微生物など、多様で豊かな生態系の中でつくられる。だから、特定の生物の異常発生も抑制される」。

 「したがって、有機農業の基本原理は、いい土をつくること、いい環境をつくることである」。

 保田先生は、天地の機、すなわち自然の法則に学び、しかも、生産者ができるだけ楽に、質の良い農産物をつくれるように、10年にわたる農業の実践を通じて、有機農業技術を研究され、各地で農業従事者の塾を開き、技術を伝え続けておられる。

 結論というにはおこがましいが、この世に存在するすべてのもの、自分自身、社会、世界、自然、宇宙全体、すべてのものは、天地の機によって生じ、滅する。

 天地の機、その叡智を学び、自らのものとすることで、人間は世界と調和した生き方ができるのではないかと考えている。

 『荘子』の「渾沌、七竅(きょう)に死す」という寓話を折に触れて思い起こす。

 南海の帝・儵(しゅく)と北海の帝・忽(こつ)が、中央の帝・渾沌(こんとん)の手厚いもてなしを受け、その恩に報いようとする。人間にある七つの穴(目、耳、鼻、口)が渾沌にはないので、その穴をあけてあげようと、一日に一つずつ穴を穿っていった。渾沌は七日目に死んでしまった。儵忽はつかの間という意味。渾沌は未分化であらゆるものを包みこんでいる自然。

 効率や便利さを追い求める人間の浅知恵が何をもたらすかを、強烈に皮肉った寓話である。


菩薩へ至る道(Ⅱ)-ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』を聞く-

2016-11-17 01:44:59 | 日記・エッセイ・コラム

 引き続き、同人紙からの転載。

 

 菩薩へ至る道(Ⅱ)-ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』を聞く-

 前号は仏教の歴史を説明しただけで終わってしまった。ダライ・ラマ法王が4日間にわたって『入菩薩行論』を講義された、その内容を正確に記す能力はないし、分量的にもこの紙面では足りないので、私が理解できた部分を中心に報告しようと思う。

 『入菩薩行論』は、8世紀のインド僧、シャーンティデーヴァの著作で、10章からなり、ブッダとなるための菩薩行の実践について書いている。

 菩薩とはどういう存在か 菩薩とは菩提薩埵(ぼだいさった)を略したもので、「菩提」はさとり、「薩埵」は有情(衆生)のこと。原始仏教では、菩薩は釈迦の修行時代をさした。部派仏教では、ブッダとなるため修行するものは誰でも菩薩と呼ばれるようになった。

 さらに大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性」を説いて、生きとし生けるものはすべて、仏となる性質(仏性)を持っているとして、菩提心を起こした者は菩薩と言われた。

 菩提心とは、さとりを求める心のこと。菩薩行とは自らのさとりを求めて修行するだけではなく、苦界にとどまって他をさとらせ、一切衆生を苦しみから救う(衆生済度という)利他の修行も含まれる。

 仏教の勉強を始める前に私が持っていた菩薩の概念とは、「ブッダとなる前の修行中の釈迦の姿だから、飾りのついた冠や衣装をつけた王子の姿をしている」という程度のものであった。

 本格的に勉強をして、大乗仏教における菩薩の存在を知ったとき、とても感動した。

 菩提心を起こし、修行を積めば、だれでも菩薩となり、たとえ今生でブッダのさとりを得られなくても、いつかは、ブッダのさとりに到達できる可能性を持っている。

 そのような教えは、煩悩にまみれ、意志薄弱な私のような人間が、仏道修行をしようと発心し、挫折を繰り返しながらも修行を続けていくための、とてもよい動機づけとなるからである。

 仏教を学び始めたころ、「三帰依文」を覚えた。仏・法・僧に帰依しますという、パーリ語経典にもある祈りの言葉だが、日本で唱えられる三帰依文は冒頭に導師が唱える偈が加えられている。それを知ったとき、これは私のためにある言葉ではないかと思ったほど、心に響いた。

 人身受け難し、今すでに受く。

 仏法聞き難し、今すでに聞く。

 この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。

 これは

「無数の命がある中で、人間として生まれることはたいへん難しいことだ。けれど、今、私は人間として生まれて、ここにいる。仏の真理の言葉を聞く機会に出会うのは大変難しい。けれど、今、私は仏の真理の言葉を聞くことができた。人間として生まれてくることができた今生において、仏の真理の言葉を聞くことができたこの時に、さとりへの道を歩むことをしないで、いつの世にさとりを求めて修行をするというのか」

 と、発心(菩提心を起こすこと)からすべてが始まることを説いている。

【ティーチング1日目】ダライ・ラマ法王はまず、「すべての宗教は、愛と慈悲心を根本に置き、苦しみからの解脱を説いている点で共通しています。キリスト教などの有神論は慈悲の根本を神に置いていますが、仏教などの無神論は因果の法に基づいています」と、ブッダが説いた法の根本である、因果の法から話を始められた。

 「仏教は心についての科学です。執着や怒りなどの煩悩によって心がかき乱されると、苦しみが訪れ、心が安らかになると幸せが訪れる、と釈尊は説かれました。心の平安を得るために、正しい智慧を育まなけれななりません。そのためには、聞・思・修(もん・し・しゅう)、すなわち、正しい教えを聞く、よく考える、教えについて瞑想し、正しい教えに心がとどまっていることを確かめながら実践する。知性に裏付けられた、正しい智慧を育むことが最も大切です」。

 そして、ブッダが「初転法輪」(最初の説法)で説かれた「四聖諦」について話された。

 「四聖諦」とは、四つの聖なる真理、「苦諦・集諦・滅諦・道諦」のことで、因果の法に基づいている。

 すなわち、①苦しみを知る ②苦しみには原因がある ③苦しみを原因とともに滅した境地が存在する ④苦しみのない境地に至る修行道がある。

 このようなダライ・ラマ法王の解説はとても理解しやすい。これは、苦しみから脱して、さとりへ至る、実践的な方法論なのだ。

 菩提心および「空を理解する智慧」について いよいよ『入菩薩行論』の本論に入る。法王は、空の教えと菩提心が『入菩薩行論』の主なテーマだと述べられた。第1章~3章は菩提心についての解説である。

 「空」とは、「五感の対象となるすべてのものは、原因と条件に依存して存在する。自らの力で存在するものは何一つない」という、ものの在り方をさす。

 仏教の入門書を読むと、「空」を「無」と同義語であるかのように説明したものが多々あり、私はそのように誤解して、虚無感に襲われことがある。

 空を理解するためには、ナーガールジュナが『中論』で論じた、「二諦」という概念を知っておく必要がある。二諦とは二つの真理、「世俗諦」(せぞくたい)と「勝義諦」(しょうぎたい)をいう。

 世俗諦は世俗の真理で、ものの現れ方と真の在り方(空)が一致していない。

 勝義諦は究極の真理で、ものの現れ方と真の在り方が一致している。

 世俗諦では物事は確かに存在しているが、勝義諦ではすべての現象は空である。勝義諦での「空」を、そのまま世俗にスライドさせると、「すべては無だ」となってしまい、虚無感に襲われてしまう。

 法王は、『入菩薩行論』第九章の智慧波羅蜜について、ナーガールジュナの『中論』を引用しながら解説された。

 智慧波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五波羅蜜の実践によって得られる智慧、すなわち空を理解する智慧のことである。

 物事には実体があるという考えにとらわれることを無明といい、根源的な無知をさす。

 無明を源としてすべての煩悩が生まれ、煩悩と、煩悩に支配された行為を源としてすべての苦しみが生まれる。

 つまり、空を理解する智慧こそが、無明を晴らし、苦しみを滅する手段になるのだ。

 「一切衆生を苦しみから救うためには、自らが一切智の境地(完全なさとりの境地)に至ることが必要です。そのために菩提心を育み、空性を理解する、その二つの修行によって一切智の境地に至りブッダとなることができるのです」。 

 【ティーチング2日目】2日目は、仏教の歴史を概説されたあと、「四聖諦」について詳しく解説された。

 根源的な苦を知る 「苦しみには三つの種類があります。一つは苦苦。動物でもわかる、感覚的な苦です。二つめは壊苦(えく)。変化に基づいた苦で、幸福だと思っていてもいつかは苦に変わってしまう。三つ目の行苦は、無明に基づく、根源的な苦です。四聖諦の『苦を知る』ということは、この行苦を知るということです。

 私たちの心と体は一瞬一瞬変化しています。そのような心と体に依存している『我』が実体として存在すると考える(無明)ことから、苦しみが生まれるのです。四聖諦とは、私たちが苦しみの本質の中にいることを知り、空を理解する智慧によって苦しみから離れ、滅諦の境地に至ることを目的に実践する(道諦)という教えです」。

 ダライ・ラマ法王の「四聖諦」についての法話を繰り返し聞くうちに、私は、この「四聖諦」が、ブッダの教えの基盤であることが理解できるようになった。しかし、頭ではわかっても、当然のことながら、実践することは大変困難である。

 『入菩薩行論』は、第4章「菩提心の不放逸」で、煩悩による過失から菩提心を守ることを説き、第5章「正知の守護」では、そのために日ごろから自分の心と体を注意深く見守り、警戒心を働かせることに慣れ親しむことが大事だと説く。第6章「忍辱波羅蜜」では、怒りがもたらす過失から功徳や善行を守るのが、忍耐という修行であると説く。

 「逆境に陥ったとき、逆境を他を助けるための状況だととらえれば、自分を高める修行の場となります。私は(インドに亡命し)難民となったおかげで世界中の人々と会い、ナーランダのテキストを世界中の人々と分かち合うことができるようになりました。別の角度から見る心の広さを持てば、ひどい状況から抜け出す道を切り開くことができます」。

 ナーランダ僧院の伝統 ダライ・ラマ法王は、折に触れて、「ナーランダ僧院の伝統」ということを言われる。

 ナーランダ僧院(大学)はインドの仏教を学ぶ最重要拠点で、玄奘三蔵や、『大唐西域求法高僧伝』を著した義浄も学んだ。イスラム教徒の侵攻で破壊され、現在は遺跡しか残っていない。

 多くの賢人たちが著した著作は、チベット仏教の重要なテキストになっている。ダライ・ラマ法王は、「聖ナーランダ大僧院の17人の賢者に捧げる祈願文」を著されている。「ナーランダ僧院の伝統」と法王が言われるとき、釈尊に始まり、インドでは滅びた仏教がチベットにもたらされた。そのことへの感謝と、法灯を引き継ぎ、守り伝えることがご自分の使命だとする、法王の覚悟を感じずにはおれない。

 ダライ・ラマ法王は、たびたび、ナーガールジュナ(龍樹)や、アサンガ(無著)など、ナーランダ僧院の賢者たちが著した論書を引用しながら、解説される。

 知識の乏しい私には、聞き慣れない言葉が理解できないでメモし損ねているうちに、ただでさえスピードの早い同時通訳が先に進んでしまう。午後になると、眠気という煩悩に妨げられる。今、これを書くためにノートを読み返しているのだが、判読不明の箇所がなんと多いことか。

 2日目の午後は、法王が読まれる部分がテキストのどこに書かれているのか、ぺージを探しているうちに終わってしまった。ご高齢にもかかわらず遠い日本を訪れて、熱心に法を説かれる法王さまには何とも申し訳のないことである。 

【ティーチング3日目】3日目はチベット仏教の歴史から始まり、『入菩薩行論』は、第7章「精進波羅蜜」、第8章「禅定波羅蜜」、第9章「智慧波羅蜜」と読み進められた。詳しい内容を書くには紙数が足りなくなったので、印象に残った言葉をノートから拾うことにする。

 「精進の妨げとなる怠慢には、明日やろうと1日伸ばしにする怠慢、自分にはできないと初めから諦める怠慢、悪い行いに執着する怠慢があります。私たちには仏性が与えられています。勇気と自信をもって、慣れ親しむ努力をすれば成し遂げられます」。

 「瞑想は、何も考えないことではありません。西洋で言うメディテーションは、心がかき乱されている時には役に立ちますが、心の変容をもたらしません。一点に集中する『止』と、分析的な瞑想『観』がありますが、観の土台となる止の成就をまず追求すべきです」。

 「平等心を育むためには、自分と他者を入れ替えて考える、他者は自分の身体の一部分であると考えることです。社会が幸せでなければ自分は幸せになれません。この世のいかなる幸せも、他者の幸せを望むことで得ることができます。利己主義こそが私たちを苦しみの中に投げ入れているのです」。

【ティーチング4日目】最終日は、まず般若心経が日本語、中国語で唱えられ、法王は、般若心経の意味について詳しい解説をされた。その後、在家信者戒、菩薩戒が授与され、「文殊菩薩の許可灌頂」(修行を始めるための許可を受ける儀式)が行われた。

 4日間を通してダライ・ラマ法王が繰り返し言われたことは、菩提心と空を理解する智慧を育むこと、歩みを止めることなく修行を続けること、教えの意味を正しく理解し、知性に基づいて修行することの大切さだった。

 私がさとりの境地に達する可能性は、ガンジス川の砂粒一つほどもない。けれども、日々煩悩に振り回され、己の怠慢を反省することを繰り返しながらも、仏教の勉強を続けていこうと改めて思った。ダライ・ラマ法王の法話を「聞く」たびに、その思いを強くする。

 李さんとは、昼食を一緒に食べたり、法話が終わってからお茶を飲んだり、いろいろな話をした。同じようにダライ・ラマ法王の法話を聞いてきた者同士、率直に仏教や人生の話をすることができて楽しかった。後日、彼女は、知り合いの仏教学者が4日間のティーチングの内容をまとめたものを手に入れて、メールで送ってくれた。私のノートの欠けた部分を補うのに、おおいに役に立った。

 この秋もダライ・ラマ法王が来日された。私は多忙のため参加を断念したが、李さんは大阪で開かれた灌頂会や、高野山大学と東京での法話に参加した。法王の体調が芳しくなく、大阪での灌頂が予定されたものとは違う内容になったと彼女からメールが来た時は、ご高齢なのでとても不安になったが、法王のホームページを見ると、いつもどおりの笑顔で人々に接しておられるご様子なので、安堵した。落ち着いたら、メールで感想を聞こうと思っている。(おわり)

 

 

 


菩薩へ至る道(Ⅰ)-ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』を聞くー

2016-10-31 12:48:03 | 日記・エッセイ・コラム

 友人と出している同人紙からの転載。

 

 菩薩へ至る道(Ⅰ)-ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』を聞くー

  5月中旬、大阪府立国際会議場で、「ダライ・ラマ法王のパブリック・ティーチング」が4日間にわたって開かれ、参加した。法王にお会いするのは一昨年、高野山で開かれた「胎蔵界曼荼羅灌頂」に参加して以来だ。今回の法話の内容は、「入菩薩行論と文殊菩薩の許可灌頂」である。

 『入菩薩行論』は、8世紀のインド、ナーランダ僧院の僧、シャーンティデーヴァ(寂天)の著作。チベット仏教ではすべての宗派で重視されている論書(仏教の教説の解説書)だ。サンスクリット原典の題名は「菩薩の実践行(菩薩行)に深く入ること」という意味だそうである。要するに、菩薩行とはどういうものか、菩薩としての実践方法について、具体的に説いたものである。

 ティーチングの内容について書く前に、仏教の歴史をたどってみたい。

 初期仏教 紀元前五世紀の北インド、シャカ族の王族に生まれたガウタマ・シッダールタ(釈迦、ブッダ)は、29歳で出家。35歳の時、悟りを得て、かつての修行仲間5人に初めて教えを説く(「初転法輪」という)。この時が仏教の始まりとされる。

 ブッダとは、パーリ語、サンスクリット語で、真理に目覚めた人という意味である。ブッダはガンジス中流域を旅して、あらゆる階層の人々に法を説き続け、80歳のとき、クシナガラで入滅する。

 入滅直後、弟子たちが集まり、ブッダの教えを唱えて確認し合う第一結集(けつじゅう)が行われた。結集は4回行われたが、教団の統一が保たれたのは、入滅後100年間だったと言われ、この時期の仏教を原始仏教、あるいは初期仏教という。

 上座部仏教 その後、保守的な上座部と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂(根本分裂)、さらに20以上の部派に分裂した(部派仏教)。上座部仏教は、スリランカ、ミャンマー、タイなど南に伝わったので、南伝仏教ともいわれる。

 初期仏教の経典は、当時の俗語であるパーリ語の口伝で伝えられた(後に伝わった地域の文字で表記されるようになる)ので、パーリ語経典ともいう。

 大乗仏教 紀元前1世紀ごろ、大乗仏教の変革運動が起こった。それまでの仏教が、出家者が自らの完成や救済を目的として修行する自利の教えだったのに対して(大乗仏教側は、それを「小さい乗り物=小乗」とおとしめた言い方をした)、大乗仏教は、出家、在家を問わず、生きとし生けるものを救済するため(利他)、菩薩の道を歩んでブッダと同じ悟りに到達するための教えで、「大きな乗り物」(大乗)と称した。

 大乗仏教は、多くの経典を生みだした。その代表的な経典が「空」を説いた「般若経」だ。大乗経典はサンスクリット文字で表記され、漢訳されて日本に伝わった。大乗仏教は、インドから北の経路、シルクロードを経て中国、朝鮮、日本に伝わったので、北伝仏教という。

 大乗仏教の思想を体系化したのが紀元後2~3世紀のインド僧、ナーガールジュナ(龍樹)で、その代表的な著書『中論』で、「縁起」と「空」を説いた。彼を祖とする学派が中観派と呼ばれる。

 その後、アサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)兄弟の説いた「唯識思想」や、人の心は本来清浄で、すべての者はブッダとなる可能性をもっているという「如来蔵思想」などが現れた。

 密 教 5、6世紀になると、ヒンドゥー教の宗教儀礼や呪法を取り入れた密教が誕生する。

 大乗仏教は菩薩に自らを重ね、ブッダの悟りを目指す教えだが、悟りに至るためには、輪廻を繰り返し、長い修行の時間を必要とする(ブッダでさえ、何回も輪廻を繰り返したという前世物語「ジャータカ」がある)。

  密教は修行時間を超短縮し、現世においてブッダとなることを目指す「即身成仏」を説いた。密教の実践は神秘的な体験に基盤を置いているので、その内容を正確に理解することは困難で、師が認めた弟子に秘密裏に伝授されたため、密教という。

 チベット仏教 チベットに仏教が伝わったのは7世紀だが、本格的に仏教が導入されたのは8世紀後半である。当時の王が、インド仏教の重要拠点ナーランダ僧院(「西遊記」のモデル、玄奘三蔵がここで学んだのは有名)の長老、シャーンタラクシタの助言に従い、密教の第一人者、パドマサンバヴァを招いて大きな僧院を建立し、仏教の学習と実践が始まった。パドマサンヴァはチベット密教の開祖となった。以来、歴代の王は、国家を挙げて仏典の翻訳に取り組んだ。

 その後、暗黒時代を経て、11世紀中ごろ、インドから招かれた名僧・アティーシャによって、チベット仏教は復興した。アティーシャは、様々な形で伝えられていた教えを、小乗・大乗・密教の三重構造の実践体系にまとめ上げた。この実践体系を「ラムリム」という。

 仏教は、本家のインドでは、ヒンズー教に吸収されたり、イスラム教徒の侵攻によって寺院が次々と破壊されて、衰退の一途をたどった。

 一般に、最大のヴィクラマシーラ僧院が破壊された1203年をもってインドの仏教は滅亡したとされる。最後の大座主シャーキャシュリーバドラはチベットに逃れ、インド仏教の法灯をチベットの僧たちに伝えた。

 インド仏教の伝統を継承するチベット仏教 インド仏教が滅亡したのち、チベットが仏教の本流を継承する形になった。多くのサンスクリット原典が正確にチベット語に翻訳され、インド仏教の伝統が忠実に継承されている。  

 チベット仏教の特徴は、初期仏教から大乗仏教、大乗仏教の最終形態である密教までを、教理面でも実践面でも、矛盾なく理論的に体系づけていることである。

 仏教を学び始めたとき、いろいろな仏教入門書を読んだが、多くの宗派に分かれている日本の仏教とブッダの教えがどう結びつくのか、そもそもブッダの教えとは何なのか、まったくわからなかった。

 2006年、広島でダライ・ラマ法王の法話を聞いたとき、まず仏教の歴史について話された。そのとき初めて、ブッダから今に至る仏教の流れがわかり、現代人の我々にとって、ブッダの教えがどういう意味を持つのか納得できた。

 それは、チベット仏教が、ち密に構築された理論的な仏教体系を持っていたからだと分かったのは、ずっと後のことだ。

 第1日目 会場に入って、台湾、中国、チベット、モンゴルなど、外国の団体参加者が多いのに驚いた。韓国の大きな団体のキャンセルが入ったということだったが、韓国人も多い。受付会場はとても混雑していて、いろいろな言語が飛び交っていた。

 受付を済ませたあと、同時通訳のレシーバーを受け取るために、それぞれの言語のブースに並ぶ。私の席はだいぶ後ろの方だった。荷物を置いて、すぐに、李さんを探した。

 李さんは敬虔な仏教徒で、一昨年の高野山での「胎蔵界曼荼羅灌頂」で隣同士の席になり、親しくなった台湾の女性だ。話してみると、2012年の高野山での「金剛界曼荼羅灌頂」にも、2006年の広島での法話にも参加していたことが分かった。

  東京在住で、以来、メールのやりとりを続けていた。李さんは友人に頼んで、かなり前の席を取っていた。2年ぶりに会うので、話すことはたくさんあったが、昼食を一緒に食べる約束をして、席に戻った。

 日本語の通訳は、いつも通り、日本人女性のマリア・リンチェンさんだ。

 大きい拍手に迎えられて登壇された法王はまず「私は今年81歳になり、法話の前に師である釈迦如来に五体投地すべきですが、膝に問題があり、それが難しくなりました。けれど、頭脳は鋭く働いてくれます」と挨拶された。座席に着かれるときも、両方から支えられて着席された。

 2006年に、広島で初めて法話をお聞きしたころと比べると、当たり前だが、お年を召されたなあと感じざるを得ない。けれども法話が始まると、力強く、休みなく話を進められ、いつもの法王さまだと安心する。

 法話の内容については次号で。

                  


ベランダ菜園

2016-08-28 20:14:00 | 日記・エッセイ・コラム

 住宅公団の狭いベランダで、数年前から、野菜を作っている。

 今は、二つの大きなコンテナにゴーヤが1本ずつ、ツルをのばして、緑のカーテンをつくっている。

 毎年の猛暑に、水やりが大変だが、今年はとくにひどい。暑さに強いゴーヤも、朝夕の水やりでは足りないのか、ただ暑さのせいなのか、元気がない。

 ゴーヤを育てている理由は、毎朝飲むスムージーの材料にしているからだ。ゴーヤに、ニンジン、酵素、黒酢、リンゴジュース、牛乳、ハト麦きな粉などを混ぜて作る。朝採りゴーヤのスムージーは栄養満点、おいしさ満点である。

 ところが、毎年、冷蔵庫に保管しなくては間に合わないほどできていたゴーヤが、今年は花付きが悪く、品薄気味なのだ。

 元気のなくなったゴーヤの代わりに、元気いっぱいなのが、ゴーヤの葉をせっせと食べる青虫くんだ。

 少し前は、大きな尺取り虫がいて、これは老眼鏡をかけて探せば、退治できる。

 「退治」とは言っても、有機農業なので殺虫剤は使えないし、一応仏教徒で、在家信者が守るべき「五戒」に、生き物を殺してはいけない、とあるので、直接殺すことができない。

 それで、「ごめん」と言いながら、ベランダ下の草むらに、つまんで放り落とすのである。

 草むらには、ゴーヤのようなおいしい?葉っぱはないので、多分、死ぬと思うが、ゴーヤを守らなければいけないので、やむを得ない。

 しばらく暑かったので、べランダで作業するのもおっくう、水やりだけしていた。

 今日は涼しかったので、朝早く、久しぶりにベランダでゴーヤの世話をした。

 見ると、あちこちに青虫君の黒い糞がおびただしく落ちている。まるで黒コショウを振りかけたよう。

 老眼鏡にかけなおして、葉っぱを見ると、食い荒らされた葉っぱや、くるりと巻いた葉っぱが目についた。

 尺取り虫は大きかったが、今日の青虫君は2cm~5mmの大きさ。1cmに満たないのは、つまむこともできないので、「ごめん」と言って、くるりと巻いた葉っぱごと、下の草むらに放り投げた。

 計20匹ばかりを「退治」したが、上の方や、目につかないところに、たくさんの青虫君が潜んでいることだろう。これからは、毎朝、虫取りに励まなくては!

 ゴーヤの代わりに、バジルも育てているが、これは暑い時には元気がない。もう少し涼しくなったら、葉を茂らせてくれるだろう。

 でも、バジルにも青虫君がついていたので、先日、虫に食べられる前に50gの葉っぱを収穫して、バジルソースを作った。

 今年は、国産有機大豆の生産者から、コンテナでも枝豆ができるという話を聞いて、豆を植えて苗を育て、コンテナに4本、植えた。

 ところが、ゴーヤの陰になって日照不足なのか、肥料不足なのか、ひょろひょろと上に伸びるばかり。

 もう切ってしまおうと思った矢先、小さな花が咲き始めたので、添木をして試しに育ててみることにした。

 私は、野菜を洗った後の水を、家庭菜園の水やりに使っているので、時々、蒔いた覚えのない苗が芽をだす。

 例年はミニトマトが芽を出すのだが、今年はカボチャが芽を出した。これも試しに育てて、小さな実を1個収穫した。

 カボチャの葉っぱは狭いベランダを占領しかねないほど巨大なので、しかも、とげとげしていて、皮膚が過敏な私には刺激が強すぎるので、すごいスピードで伸びるツルを途中で切ってしまったら、たちまち元気がなくなって、1個以上の実をつけなかったのだ。  

 収穫したカボチャは、まだ食べないで、キッチンに飾っている。

 

 

 

 


蓮を見に~唐招提寺、万博記念公園~

2016-07-09 11:07:39 | 日記・エッセイ・コラム

 唐招提寺の蓮

 絵の題材に使うための写真を撮りに、1DAYチケットを使って、唐招提寺の蓮を見に行った。

 戒壇院横の蓮池が好きで、毎年のように行っているのだが、今年はつぼみが全く見当たらず、株も少なく、池には雑草が生い茂っていた。

 庭仕事をしていたおじさんに伺うと、天候不順のせいで、蓮の成長が良くないそうだ。

 縄文蓮や鑑真和上ゆかりの中国の蓮が育てられている鉢植えの蓮も、時間が遅かったせいか、閉じていたり、つぼみばかりで、全くの期待外れ。 

 奈良では、唐招提寺、薬師寺、喜光寺を回る西ノ京ロータス・ロードというのがあるが、薬師寺まで炎天下を戻る気力がなくて、唐招提寺東口のバス停からバスに乗って、奈良に行った。

 奈良町で洋服屋さんをしている友人に会うためだ。

 この友人とは、東大寺でダライ・ラマ法王の法話が開かれたとき、隣にいた人で、良い席を取るために2時間以上前に行ったので、いろいろ話をしているうちに、ダライ・ラマ法王を尊敬していることや、両親の介護をしているという共通点もあって意気投合し、友人になった。

彼女の店で扱っている服が気に入り、彼女の的確な助言もあって、奈良に出かけるたびに服を買っている。

おしゃれでない私が、唯一、まともな服を買っている店だ。

その日は彼女はご両親が入院している病院に行っていて、お姉さんが店番をしていた。

そのお姉さんとも話が弾み、今回も予算をはるかにオーバーしたが、2着も買ってしまった。

万博記念公園日本庭園の蓮

 ということで、肝心の蓮の写真が撮れていないので、昨日、インターネットで知った万博記念公園の蓮を見に行ってきた。

 7月18日までの金・土・日曜日、早朝観蓮会が開かれているのだが、早起きできなくて、昼前になった。

 早朝に咲いた蓮は閉じてしまったらしいのだが、広い蓮池一面に、ピンク、白の蓮が無数に咲いていた。

 夢中で写真に撮る。こんな広い対象物は、小さなデジカメでは無理で、一眼レフのカメラを持ってくればよかったと思う。 

 立ったり、座ったり、池を二週ぐらいして、写真を撮った。いつまで見ていても飽きない。

 万博公園の日本庭園がこんなにいいとは知らなかった。平日で、小雨日和だったこともあって、人も少なく、蓮以外にもいろいろな木をみたり、散策を楽しんだ。

 これから、季節ごとに訪れてみたいと思う。

 


windows10の侵入騒動記

2016-05-28 02:39:03 | 日記・エッセイ・コラム

 10日ほど前の夜中、パソコン作業中に、突然、 Windows10のインストールが始まった。

 何も触っていないのに、なんで?

 Windows10のアップグレードを勧める画面が、これでもか、これでもかと表示されるのをずっと無視していたのに、なんで?

 やっとインストールが終わって、メールをしようとしたら、なんと! 送信画面がでないのだ!

 着信はできるのだが、送信画面の下の書き込み欄に、「このページは表示されません」と出る。

 ちょうど送らなければならないファイルがあったので、パニクった。

 インターネットで、いろいろ検索して回復法を調べたが、わからない。

 その日は、産消提携運動「求める会」の事務所から帰る途中、求める会のグループごとに配布しなければならない機関紙などの書類を電車に忘れて、あちこち調べてもらったが、見つからなかった。

 明日には配布しなければならないので、夕方、事務所に戻って、書類を作り直した。5種類の書類を76部ずつ、コピーした。

 夜10時までかかって、疲労困憊、やっと家にたどり着いた、その夜中に、Windows10の侵入トラブルである!

 ただでさえ、パソコン用語と操作には疎い私なのに、疲れた頭ではどうしていいかわからない。その日は解決法がわからないまま、寝ることにした。

 翌日、ほぼ1日かかって、Windows10のメールソフトを立ち上げ、そこから友人にメールを送信した。

 着信を確かめるために、友人に電話したら、相手が「うちもWindows10のインストールが始まってるー! 何もしていないのにー!」と叫んでいるではないか。

 ほかにも、インストール後、再起動しないまま、パソコンが動かなくなった、とケータイメールを送ってきた友人もいた。

 これって、許されることなんかしら?

 私のパソコンは、Windows7で、容量が少ないため、動きがだいぶ遅くなっていた。

 すぐ、ビジー状態になって、動かなくなる。

 それで、エーイっ、めんどくさい! これを機に買い替えよう、セットアップも、接続も業者に頼もうと、駅前のヤマダ電機に下見にいった。

 すると、春モデルだが、性能は夏モデルとほとんど変わらないという機種が、在庫限りで安く売りだされていたので、勢いで購入することに決めた。

 対応した店員さんも、Windows10の強引なインストールで、あちこちでトラブルが発生していると言っていた。

 出張サポートも頼んだので、結構な出費になったが、もう仕方がない。

 今日、主張サポートのお兄さんが、パソコンを持ってやってきた。

 セットアップと接続で、約2時間ほどかかった。

 手元を見ていると、さすがにプロは違う。自分でやったら、1日では足りないのではないかと思う。

 とても親切なスタッフで、私のレベルの低い質問にも、わかりやすく答えてくれた。

 WindowsXPが使いやすくて、長年機嫌よく愛用していた。そのサポートが終わるというので、Windows7の機種に買い替えた。

 やっとその使い方に慣れたころに、今回のトラブルである。

 メールのトラブルに加えて、保存していた文書も、フォントが変わって、変になっていた。

 ほかにも、都合の悪いことが起きているかもしれない。

 買い替えにかかった出費の賠償と、パニクったことによる精神面の補償をしてほしい!

 サポートのお兄さんが言うには、Windows10への切り替えは、ビジネスで使う人にはなんのメリットもない。今回の強引なインストールで、実際にビジネスに影響が出た人もあると思うとのこと。

 このところ、そのトラブルのサポートで、あちこち飛び回らなければならないのだそうだ。

 でも、損害賠償の訴訟を起こしても、訴訟費用やなんやかやとかかるので、結局泣き寝入りすることになるのではないかと言う。

 知人の一人は、あまりにも腹立たしいので、新聞社に電話したとのことだ。

 消費者の意向を無視して、業者の都合で、こんな強引なことをやるなんて、許されるのだろうか。