空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

宇宙から買ってきたジュース

2013-07-21 14:34:29 | 日記・エッセイ・コラム

 いろいろあって、ブログを書く気力がわかず、長い間休んでしまった。 

 最近、友人とミニコミ紙を出すことになり、そこに書いたものを転載する。

 

 2年前、母が92歳で亡くなり、残された父は心身ともに急激に老いが進んで、在宅での介護が困難になった。

 介護に当たっていた長女の私まで倒れてしまうのでは、と心配したケア・マネージャーさんが、ケア付き高齢者専用住宅への入居を勧めてくれた。家賃、食事代、介護費用などが、父の年金でどうにか賄える施設だった。

 新しい環境に慣れるまで、父は家に帰ると言って暴れ、玄関から車道へ飛び出したり、止めようとする私を突き倒したり、杖を振り回したりした。

 今になってみると、母に先立たれた悲しみや、不安がそうさせたのだと理解できるけれども、当時の私は介護うつに陥っていて、父の気持ちまで考える余裕がなかった。

 もともと、父のことをあまり好きではなかった。母とは、価値観の違いからよく言い争いをしたものの、母が年取ってからは何でも話せる女同士になり、人生の先輩として尊敬もしていたが、父に対しては、つい批判的になって、いらだつことも多かった。

 母は人一倍苦労して育ち、結婚してからも、わがままな父に苦しめられた。母の愚痴は長女の私に向けられ、小学校五年生ごろから、父にどんなに苦しめられたかという話を、繰り返し聞かされた。そういうことが、父を好きになれなかった原因かもしれない。

 父は元気なころから、自分史を書き綴っていて、いつかは自費出版するつもりでいたが、そのうち介護が必要な状態になり、それどころで。はなくなった。

末の弟夫婦が、父が理解できるうちに出版してやりたいと、大急ぎでパソコン入力し、50部ほど印刷した。本を手にした父はうれしそうだったが、どこまで心から喜んでいたのか分からない。

 母は、生前、ノートに書かれた原稿をのぞき込んでは、「自分に都合のいいことばかり書いて」と笑っていた。私も母と同様、自分に都合のいい見方しかしていない箇所ばかりが目につき、ひと通り読んだだけだった。

 父が施設に入居して、実家は空き家になったので、私は、母の遺品整理や、家の風通し、庭の草抜きをするために、たびたび実家に帰っていた。

 ある時、実家の電話に女性からの留守電が入っていた。

 父が働いていた保険会社の社員だった人らしい。

 父がどうしているか案じ、自分の近況を報告する内容だった。「西さわこ」というその人の名前だけしか分からず、返事のしようもないので、そのときは放置したが、後日、また同様の留守電が入っていた。

 留守電の件を弟夫婦に話したら、弟の嫁さんが「西さんのこと、お父さんの自分史に出ていましたよ」と言う。」さすが、パソコンに入力したのは主に彼女なので、ちゃんと覚えていたのである。

  父は、母方の祖母がまだ健在だった故郷の鹿児島で、定年後の5年間、嘱託として働いた。医者に代わって保険加入者の診査を行う、検定士というのが父の仕事だった。 

自分史には、父が小学1年生のころ、両親は種子島の山中で炭焼きをしていて、隣の峰の炭焼き小屋に子だくさんの家族がいたこと、その末娘の西サワ子さんが後に同じ保険会社の外務職員になっていたこと、父が鹿児島に赴任して、種子島を担当した際、はからずも彼女と再会し、いろいろ話すうちに幼なじみだということが分かった、ということが10行ほど書かれていた。

 それから少したって、父が勤めていた保険会社の退職者の交流誌が実家に届いていた。その中に退職者名簿があって、西サワ子さんの名前と住所が載っているではないか。

 すぐに手紙を書いて、留守電に返事できなかったことを謝り、父の現況を報告し、父の自分史を同封した。しばらくして、西さんから返事が届いた。

めったに手紙を書かない人間なのでと、彼女が断っているとおり、たどたどしい文章で、退職者の交流誌に寄せられた父の短信を楽しみに読んでいたこと、最近、載っていないので心配で留守電を入れたことや、父の一家が炭焼き小屋から町に引っ越して行ったあとの、彼女の家族のその後が便箋3枚にびっしり書かれていた。

父の自分史には、西さんのことが簡単に書かれていただけであったが、西さんの手紙には、保険加入者の診査の仕事で父が種子島に来たとき、西さんの車で種子島宇宙センターに行った時のエピソードが綴られていた。

「会社にいるときは仕事仕事で、ゆっくり話すこともできず、丁度、お父さんが種子島に診査に来られたとき、私の車でロケット基地の宇宙開発の事務所に行きまして、私は車で待っていたとき、お父さんが、カンジュースを2本買って、西さん、西さん、宇宙からジュースを買ってきたよと。七月の暑いときでした。そのとき初めて、車で走りながら昔話をしたのです。母や兄たちから話は聞いていたのですけれど、お話を切り出す機会がなかったのです。あの時、まだまだ話しておけばよかったと今、残念に思っています。」

話好きな父からは、いろいろな思い出話を一方的に聞かされていたが、これは初めて知る話だった。

カンジュースを手に車をのぞき込んだ父のいたずらっぽい笑顔、父のユーモアと幼なじみの気安さから、その後の家族の物語を次から次へ話したであろう、西さんの生き生きした様子が目に浮かんできて、どういうわけか、私は声をあげて泣いてしまった。

 父は、いわゆる外面のいい人間だった。職場でも、親戚の間でも、ご近所でも、父のことを悪く言う人はいなかったが、私は、他人の前では過度にサービス精神旺盛な父が嫌だった。

 けれども、西さんの手紙に記された、宇宙から買ってきたジュースのエピソードからは、父らしい機知とサービス精神で、人を短い間でも幸せな気持ちにする、父のやさしさが感じられた。

 私の知らない無数の場所で、父の言動がどれだけの人を笑顔にし、ささやかな幸せの時間を生み出してきたか。

 そのころから、父の言動を何から何まで批判的に受け止めて、素直に向き合ってこなかった私の心のかたくなさが、少しずつではあるが、ほどけていったように思う。

 いま、父は寝たきりになり、認知症もさらに進み、誤嚥性肺炎も起こしている。

 部屋で転倒して股関節を骨折し、91歳という高齢に加えて糖尿病をはじめ様々な病気を持っているため、人工関節の手術のリスク、入院して環境が変わるリスクを考えた結果、在宅看護を選んだ。ケアマネージャーさんが介護と医療を組み合わせた看護態勢を整えてくれたので、家族はとても助けられている。

 宇宙のかなたから母が迎えに来る日も、そう遠いことではないだろう。

 スイカや水ようかんを、「うまい、うまい」と言って食べ、何の歌かわからない鼻歌を歌い続ける父、交代で訪れる妹や私、ヘルパーさんたちに、「ありがとう、ありがとう」と礼を言う父が、いまは、とてもいとおしい。