空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

「資本主義的食料システム」を考える

2019-02-26 21:00:12 | 社会・経済

友人たちと出している同人紙からの転載です。

 

 先日、興味深い講演を聞いた。

 神戸の市民運動の拠点となっている神戸学生青年センターが主催する「食料環境セミナー」で、平賀緑さんが行った「『資本主義的食料システム』を考える~大豆を伝統食から工業原料に、植物油をエネルギーから食材に変えた政治経済史」という講演である。

 平賀緑さんは、丹波で有機菜園を作り、バイオディーゼル燃料で車を走らせるなど、持続可能な食とエネルギーの実践に取り組んだり、ロンドン市立大学食料政策センターに留学し食料栄養政策の修士を、京都大学大学院で農業・食料の国際政治経済学を学び、経済学博士を取得している異色の研究者だ。

 平賀さんを初めて知ったのは、昨年12月に開かれた「有機農業関西のつどい」の席である。私は生産者と消費者が提携して有機農業を支える運動団体「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称「求める会」)に参加してきたが、高齢化を主な理由として会員は減る一方。いつかは会を閉じなければならないにしても、自分たちがやってきた運動の理念を次の世代に伝えるためにはどうしたらいいのか、というのが今、一番に考えなければならない課題となっている。

 そうした中で、大きな壁となっているのが、消費者の意識である。

 運動が始まった1970年代は、有機農業という言葉自体がまだ知られていなかったが、今では「有機農産物」というものが一応定着して、市場価値を持つ時代になっている。

 提携運動という形をとらなくても、消費者はスーパーマーケットや百貨店で、あるいは通信販売で、「〇〇さんが作った安全で新鮮な〇〇」というラベルの付いた有機農産物を簡単に「買う」ことができる。

 私たちは食べ物を市場の商品ととらえるのには違和感がある。

 食べ物は命を支えるものであって、生産者と消費者は食べ物を介してお互いに命を委託し合う関係だということを、「求める会」の運動の理念としてきた。

 だから、提携という形にこだわってきた。しかし、このような理念は、今の若い消費者には面倒くさい理屈であるようだ。

 「有機農業関西のつどい」でも、有機農業運動(日本有機農業研究会などが担ってきた)をどのように次世代につなげていくかということが話し合われたが、若い有機農業生産者にとっても運動という形はなじめないようであった。

 そのつどいに平賀緑さんも参加されていて、私はその席で初めて「食料政策」という言葉を知った。

 私たちが食べ物を市場の商品として扱うことに違和感を感じていることについて、平賀さんは違う視点で語ってくれるように感じた。

 平賀さんはまず、現在の私たちを取り巻く食べ物の在り方について話し始めた。

 100円ショップの青果市で「新鮮、土づくり、無添加野菜」と謳われていたり、「町の健康ステーション」「お母さん食堂」と銘打ったコンビニご飯、サラダチキンとミネストローネの加工食品を並べて「混ぜたら手作り」として売っている例をあげた。

 オーガニックとして売られている食品も、多くは地球の裏側から持ってきたもの。

 石油エネルギーをたくさん使った「植物工場」は「持続可能な農業の実現」として紹介されている。

 このように、売るための商品作物、加工食品産業など、食べ物がお金の世界に組みこまれた状況を「資本主義的食料システム」という。

 英語圏では20年ぐらい前から語られるようになった。

 貧しい人々に肥満が多いという事実が明らかになり、食べ物を取り巻く研究が始まったそうだ。

 食と資本主義の歴史は、①1870~1914 イギリスを中心としたヨーロッパ諸国に、新大陸や植民地から穀物や食肉を安い賃金材(労働者が賃金で購入するもの)として供給したことから始まり、輸出のための大規模生産、鉄道の発達、輸送技術の発展などをもたらした。主にイギリスで産業革命、都市化、資本主義が発展した。

 ②1947~1973 アメリカが中心で、過剰生産された穀物を、日本やヨーロッパ、途上国へ食料援助として戦略的にばら撒いた。これによって、市場開拓、近代的農業・加工型畜産が拡大した。

 ③1973~現在 多国籍企業によるグローバルな生産・加工・流通・販売体制。日本の総合商社・食品多国籍企業も世界に進出した。

 平賀さんは、大豆油をとおして「資本主義的食料システム」を研究している。

 私たちは大豆というと、味噌、醤油、納豆などをイメージするが、それらに使われる大豆はごくわずか、大部分は精油用である。

 農水省『我が国の油脂事情』(2000年版41ページ)に「大豆の用途」という図が掲載されている。

 大豆を木に見立てて、用途別に枝が分かれている。

 大豆をそのまま、味噌・醤油・豆腐・納豆・きな粉などの材料として使うのは根元から伸びた小さな枝でしかない。

 大部分は製油という大きな幹となって、その先に原油、製精油の枝が伸びている。

 原油や製精油から、菓子、マーガリン、石鹸、食用油、潤滑油、医療用油などの枝が分かれている。

 一方、油をとった後の脱脂大豆からは、肥料、豆腐、ソーセージ、グルタミン酸、アミノ酸、菓子、パン、麺類、さらに味噌、醤油、納豆、こうじなどが作られる。

 大豆をそのまま使った味噌、醤油と、脱脂大豆から作られた味噌、醤油が同じものか、見極めが必要だ。

 つまり、大豆は様々な商品をつくる工業の原材料で、植物油はそれ自体が高度な加工品なのだ。

 古来、植物油は燈明用にエゴマ油、ナタネ油が使われてきた。

 明治になって満洲から大豆粕が輸入されるようになる。大豆粕は外貨獲得の絹を生産するため、カイコのエサとなる桑畑の肥料として必要だった。

 そのうち大豆を輸入して日本で大豆粕製造、大豆搾油を行う工場ができる。背景には産業革命、国際貿易の推進、アジア進出を図る近代的国家建設プロジェクトがあった。

 その国策の担い手となったのが、三井物産、鈴木商店などの財閥、商社である。

 食用油メーカー最大手の日清オイリオの前身は、大倉財閥と肥料商が創立した日清豆粕製造株式会社だ。

 鈴木商店は、大豆の研究をしていた満鉄中央試験所から製油技術を譲渡され、豊年製油を設立した。豊年製油は後に味の素、吉原製油を統合してJ-オイルミルズとなる。

 国内に市場のなかった大豆油は欧米に輸出された。

 第一次世界大戦時には油の輸出量が増え、近代油脂産業は急成長するが、大戦後は特需がなくなり、余った油は食用として販売されるようになる。

 第二次大戦中は、石油の代わりに大豆油、魚油が重要軍需関係品とされ、油脂産業は政府・軍部の統制下、工業用・軍需用を中心に生産基盤を確立した。

 終戦後、国産ナタネの増産が推奨され、小規模搾油所が乱立した。

 しかし、アメリカから政策的に大量輸入された大豆を活用して再建され、食用油の市場を拡大していった大手油脂企業には太刀打ちできなかった。

 戦後、食生活が西洋化され、消費者の好みが変わったとよく言われてきた。米食が粉食になり、植物油の需要が増加した。果たして消費者の好みでそうなったのだろうか。

 アメリカを中心とする農業の大規模化は大量の原料を生産し、その原料を使って大量の商品が作られる。

 その需要を促すために、アメリカ、日本政府、食品産業が一体となって、大量消費するシステムを作り上げたのだ。

 この食料システムの構築に、三菱商事、三井物産、伊藤忠、丸紅などの総合商社が果たした役割は大きい。

 小麦や大豆の市場拡大のために、国民の栄養改善という大義名分のもと、アメリカ、日本政府、企業によるキャンペーンも行われた。

 「1日1回フライパンで油料理をしましょう」という厚生省の指導のもと、キッチンカーを導入し、小麦粉(メリケン粉)とサラダ油(大豆油)を使ってパンケーキやスパゲッティ、オムレツなどの料理を実演指導した。

 いわゆる「フライパン運動」である。フライパン運動を担った栄養改善普及会の会長、副会長には元厚生大臣、大企業社長が名を連ねていた。

 我が国の大豆の自給率は7%弱、73%はアメリカからの輸入だ。その94%は遺伝子組み換え(GM)大豆である。

 生産者がよく口にするのは、肥料や飼料を輸入に頼らざるを得なくなり、しかもGMでないものを手に入れるのが年々困難になってきているという話だ。

 食べ物が商品として扱われることに私たちが違和感を感じていたのは、命よりも資本の論理を優先する「資本主義的食料システム」への違和感だったのだ。

 平賀さんは最後に「持続可能な社会への展望」として、取り込まれた世界から抜け出すことが重要だと言った。

 まず「素性の分かる食材を一から自分で料理すること」、「食卓から世界を変えること」だと。

 そして、「畑とつながる」「命ある食べ物を育ててくれる農民たちを応援すること」だと。

 私たちにできることは、それしかない。

 

 


立憲民主党を応援するぞ

2017-10-17 19:57:07 | 社会・経済

 15日の日曜日、最寄りの電車の駅前で、立憲民主党候補の桜井シュウさんが街頭演説をすると知ったので、雨の中をでかけた。

 気温が下がり、冷たい風が吹くなか、バス停前や陸橋に、支援者が駆け付けた。

 選挙公示前にポストに入っていた桜井シュウさんのビラには、民進党兵庫県第6区総支部と小さく印刷されているだけで、希望の党から立候補するのか、無所属なのか、分からない。希望の党なら絶対に投票したくないと思っていた。しかし、ビラに書かれてある政策には、共感するものが多い。

 これまでの選挙では、私が住んでいる地域の民主党候補は、地域で生の声を聞いたこともなく、主張もはっきりしない。ビラや選挙公報を読んでも、本人の政治姿勢が少しも伝わってこない。

 積極的に1票を投ずる気が起こらず、かと言って棄権すれば自民・公明を利することになるので、小選挙区は現政権への批判票を投ずる意味でずっと共産党に投票していた。

 桜井シュウさんがどういう立ち位置で立候補したのか判断できないので、今回も共産党に入れるしかないなあと思っていた。

 ところが、公示後のビラには、ちゃんと立憲民主党と印刷されている。やっと、積極的に1票を投ずることができる、とうれしかった。

 桜井シュウさんは伊丹市議会議員を辞しての立候補である。1970年生まれの47歳。

 桜井さんは街頭演説のなかで、民進党がいきなり希望の党から立候補することになって、希望の党から出るか、無所属で出るか、ずっと迷っていた、ぎりぎりになって、枝野さんが立憲民主党を立ち上げたので、ここしかないと、立憲民主党に入党したと、出馬の経緯を語った。

 伊丹市議会議員2期の経験があるとはいえ、国政選挙は初めてで、演説に堅さが目立つが、まじめさが伝わってきた。

 会場には冷たい雨の中、けっこう大勢の市民が集まって、要所要所でさかんに拍手していた。友人や顔見知りもいて、選挙事務所を手伝っている友人は「声も大きくなって、演説もだんだんうまくなってきてる」と言っていた。その友人に、カンパをことづけた。

 桜井さんの演説が終わると、次の会場、阪急伊丹駅に移動。というのは、立憲民主党の枝野幸男代表の応援演説会があるのだ。

 冷たい雨が降り続き、ときに激しくなるなか、大勢の聴衆が集まり、街宣車の屋根に枝野さんが現われると大きな拍手と枝野コール。周りの建物のネオンばかりが明るく、枝野さんたち弁士の顔が暗いのが残念だったが、演説を聞いているうちにそのことが気にならなくなってきた。

 初めに、宝塚市の中川智子市長(宝塚市民の多くは、どこかの政党が推薦した市長ではなく、自分たちが選んだ市長だと思っている)が、市民の命と生活を守るべき自治体首長の立場から、民主主義と憲法を守る意味について語り、枝野さんにバトンタッチすると、会場は大いに盛り上がり、枝野コールが響き渡る。

 ハードスケジュールで各地で演説を繰り返してきたとは思えない、とても歯切れのいい、聞き取りやすい声だ。 

 民主主義を作るのは、立憲民主党でも枝野でもない、みなさんたちだ。一緒に民主主義を作る戦いに参加しようと訴えたときには、ひときわ大きな拍手が沸き起こった。

 政党の政策にただ反対、賛成票を投じるような受け身ではなく、民主主義を作る戦いだと本気で思っている政治家が、いまどれだけいるだろうか。

 私は70年安保世代、ノンポリながら、デモや集会に参加してきた世代なので、枝野さんの演説を聞いて、初心に戻ったような気持ちだ。

 枝野さんのあとを受けた桜井さんの演説も、枝野さんの聴衆を引き付ける見事な演説に感化されたかのように、さらに力が入っていたように思える。

 演説が終わると、枝野さんも、桜井さんも、聴衆の中に飛び込んできた。聴衆が駆け寄って、「立憲民主党を立ち上げてくれてありがとう」、「よくぞ立候補してくれた」、「がんばって!」、「応援するぞ-」、それぞれが声をかけながら、握手したり、肩をたたいたりした。

 私の位置からは握手できなかったので、目の前を通り過ぎるときに、肩をたたいて、頑張ってくださいと叫ぶ。

 こんな熱い選挙演説会は、おたかさん(土井たか子さん)のとき以来だ。

 この日は、枝野さんは兵庫に入る前に大阪各地で応援演説をしている。大阪の友人は、立憲民主党の候補がいてうらやましい、と言った。友人の選挙区には立憲民主党の候補がいないのだ。せめて枝野さんを応援したいと、大阪駅ヨドバシカメラ前の会場にかけつけたそうだ。

 枝野さんと握手したよ、とラインで興奮が伝わってくるような報告をしてきた。

  


信濃毎日の社説

2013-12-30 23:24:35 | 社会・経済

 先日、『信濃毎日新聞』のウェブサイトで、秘密保護法について論じた社説を読んだ。 

 驚いたことに、サイトで確認できる範囲では(あまり前の記事は削除されているので)、11月中旬から、ほとんど連日、特定秘密保護法についての社説を掲載している。

 全国紙やテレビなど、他のマスメディアが、はじめは様子見的な論調から、世論が盛り上がりを見せて以後に、ようやく危機感を持った論調に変わっているのに対し、『信濃毎日』は、秘密保護法がいかに国民の知る権利と表現の自由を侵し、民主主義を危機に陥れるものであるかという内容で、首尾一貫している。

 見出しだけを並べてみよう。

 11月22日「秘密保護法 野党の対応 将来に責任持てるのか」

 11月23日「今できること 声を上げ行動に移そう」

 11月24日「秘密保護法 共謀罪 心の中も取り締まる」

 11月25日「秘密保護法 衆院審議 疑問は山積みのままだ」

 11月26日「秘密保護法 外交文書 さらに国民から遠のく」

 11月27日「秘密保護法 採決強行 議会政治の自滅行為だ」

 11月28日「秘密保護法 参院審議入り 民意に沿って廃案へ」

 12月1日「市民も処罰 国際基準を逸脱する」

 12月2日「秘密保護法 会期末へ 拙速審議は許されない」

 12月3日「秘密保護法 石破氏の発言 法案の危険性さらした」

 12月4日「秘密保護法 保護措置 議会政治を窒息させる」

 12月5日「広がる慎重論 国民の声に耳を傾けよ」

       「秘密保護法 党首討論 懸念ばかりが膨らむ」

 12月6日「公安警察肥大 息の詰まる社会にするな」

       「秘密保護法 採決強行 内外の懸念無視の暴挙」

 12月7日「秘密保護法 力づくの成立 民主社会を守るために」

 12月8日「秘密保護法 安倍政治 軍事優先には『ノー』を」

 12月10日「秘密保護法 報道の自由 壁に穴をうがつ決意」

 12月11日「臨時国会 もう力づくはごめんだ」

 12月12日「共謀罪 内心の自由を侵さないか」

 12月14日「公布のあと 廃止の努力を重ねよう」

 内容も、秘密保護法を一般論として、他人事のように取り上げるのではなく、報道機関である『信濃毎日新聞』自身に降りかかる問題だとする当事者意識が、他のメディアより前面に出ているように感じる。

 たとえば、12月10日「秘密保護法 報道の自由 壁に穴をうがつ決意」では、

 「報道活動の前に立ちふさがる秘密の壁は一段と高く、厚くなる。穴をうがち広く国民に知らせようとする取材は、これまでとは比べものにならないくらい厳しいものになる。

 私たちはいまそんな覚悟を固めている。メディアで働く者に共通する思いだろう。

 特定秘密保護法は閣僚らが秘密を指定し、公務員からの漏えいを厳罰によって防ぐ法律である。それは同時に、強力なメディア規制法の側面ももっている。」

 と書き、次に、取材現場で記者が直面するであろう、報道を取り巻く厳しい環境について具体的に述べた後、

 「けれどもひるんではいられない。

 メディアに『報道の自由』が認められているのは、国民の『知る権利』に奉仕するためである。

 (中略)国民の『知る権利」あってこその『報道の自由』である。国民が知るべき情報に迫り、明らかにできないようでは、メディアの存在意義はなくなる。

 そのことをあらためて確認し、これまで以上に力を注ぐことを約束しておきたい。

 私たちはこれからも権力には厳しい目を注いでいく。秘密保護法の運用を点検し、問題が起きたら広く国民に訴えて、政府の是正を求めていくつもりである。取り組みを読者の方々が見守り、支えてくださることを願っている。」

 12月14日「公布のあと 廃止の努力を重ねよう」には 

 「石破茂自民党幹事長の発言が波紋を呼んでいる。法案反対のデモをテロになぞらえ、特定秘密の報道の処罰に言及した。すぐに撤回したものの、政府与党の強権姿勢がにじむ発言だった。

 表現の自由、報道の自由に理解の薄い政治家が幅をきかせている現状では、秘密法を始動させるわけにはいかない。危険すぎる。

 法律が公布されても、施行前に廃止することはできる。前例もある、私たちはこれからも秘密保護法反対を読者と国民に訴えていく。」

 

 長野県では、市町村が次々と、秘密保護法反対、もしくは施行に慎重であるべき、もしくは廃案にすべきだとする決議や意見書が議会で採択されているそうだ。

 私たちも、一人一人が、民主主義と、知る権利、報道の自由を守るために、自分の住む市町村議会で、秘密保護法廃止への決議が採択されるよう、働きかけよう。

 


維新の会大敗について思うこと

2013-04-17 01:27:42 | 社会・経済

 ロルフィング・テクニーク学習会の続きを書かなければならないのだが、その前に、マスコミが報じている維新の会大敗について、思うところが多々あるので書く。

 わが居住地域でも市長選があって、維新の会からも立候補した。結果的には、マスコミが大敗と報じるほど、大差で負けたが、その敗因について新聞、テレビが報じている内容が、ちょっと違うんじゃないのと言いたい。

 マスコミが報じている敗因は

  ①大阪では維新の会の議員が大勢いて、選挙活動が十分だったが、今回は候補者をささえる地方議員がいなかった②大阪では、既成の政治を批判することで維新の会の主張がアピールできたが、今回は、却って維新の会の主張が攻撃材料にされた③候補者が悪かった④橋下徹代表頼みだった等々。

 維新の会そのものが拒絶されたのではないかとの記者の質問に、橋下徹代表は「それもあるかもしれないが、維新の会の政策を理解してもらうのに時間が足りなかった」と答えている。

 記者がこういう質問をしたのは、選挙を取材するなかで、記者は有権者の拒絶反応を感じていたのだと思う。橋下代表はそれを分かっているのか分からないが、維新の会の候補者もそれを感じていたのではないかと思う。 

 テレビで、候補者が悪すぎるとコメントした大学の先生がいたが、果たして維新の会から立候補する人間に、良い候補者がいるのかどうか、私は大いに疑っている。

 維新の会と橋下代表について、尊敬する内田樹さんが、たびたびブログに書いている。その内容については長くなるので書かないが、いちいち納得できる内容である。

 その内田さんのブログに対して、橋下代表がツイッターで批判しているのが、あるサイトに再録されていた。それを読むと、橋下という人は、内田さんの言っていることを全然理解できていない。理解できないので、ただ「大学の中でものを言うばかりで何も実践していないのに、何が分かるか。夢を追っているばかりだ」というようなことを繰り返すばかりである。 

 まさに、内田さんの維新の会批判の意味が理解できないような人間が、維新の会の候補者なのだ。 

 今回の市長選でも、維新の会の候補者の主張や掲げている政策を読むと、いろいろ言葉は並べているが少しも心に響いてこない。 

 有権者は、内田さんの言っていることを多分理解できるだろうと思う。内田さんの言葉や理論そのものは分からなくても、肌で感じることができる。大阪と違って、この地域の有権者はもっと大人なのだ。

 おっと、大阪の有権者がアホだというのではない。大阪の地方自治は、長い間、批判勢力もなく、溜まりにたまってきたヘドロの悪臭があまりにもひどかった。それに対する不満が、維新の会への期待となって、票が集まったにすぎないと私は思う。 しかし、人々の不満に付け込み、威勢のいい言説で政治勢力を拡大するのは、ナチズムやファシズムのやり口である。

  大阪で思い出したことがある。維新の会が始めほど支持の勢いが無くなったとき、あるテレビで、仏教者の釈徹宗さんにコメントを求めたことがある。釈さんいわく。「文楽の補助金を削ることで、文楽の太夫さんや人形遣いの人たちに横柄な態度で臨んだでしょう。あれが悪かったんとちがいますか。大阪人は、文楽を自分たちの文化として、誇りを持っている。それを傷つけられたという気持ちがあるんではないでしょうか」。

  住太夫さんを始めとする文楽協会の技芸員に対して、当時の橋下知事が横柄な態度でものを言っているのをテレビで見たとき、私も胸が痛んだ。住太夫さんたちが、どんなに苦労して文楽を守ってきたかを知っているなら、あんな物言いはしないだろうと思った。橋下という人は、文化が分からない人間ではないかとも思った。

 今回の選挙結果は、この地域の住民の見識だ思う。昔から、この地域は、じっくりとお酒を醸造するように、文化や政治意識を育ててきた。文化的にも政治的にも社会的にも成熟している。それに加えて、阪神淡路大震災と、その後の復興について自治体のやり方を経験するなかで、自分たちの生活に何が本当に大事かを肌で感じ取ってきた。3・11の東日本大震災で、その思いを新たにしたと思う。 

 自分たちの街は、自分たちの力で、急がず、あわてず、じっくり話し合いながら創っていくしかない。そして、外側ばかりを変えたところで、自分たち自身が変わらなければ、望むような街づくりはできないということを。 

 維新の会が大挙して乗り込んできて、何やらわあわあ叫んでいることに、住民は拒絶反応を示した。彼らの軽々しい言葉で、自分たちの街をひっかきまわされてはかなわないという気持ち。

 私は、郷土意識が強いほうではない。自分の街に対して、何から何まで満足しているわけではない。それでも、今回の選挙で、維新の会が好き勝手なことを言っていることに、嫌悪感や危険な臭いを感じた。現職の候補者が駅前で演説しているところに偶然行き会い、思わず駆け寄って握手し、「維新の会なんかに負けるな」と言った。候補者は「負けへん。絶対、負けへん」と手を握り返してきた。 

 私が言いたいのは、マスコミや維新の会の人間は、いろいろ敗因を並べているけれども、いちばん大事な有権者の意識について、何も論じていないということである。 

 これは、経済が停滞していることとも大いに共通点がある。 

 つまり、経済でいえば、消費者の意識、政治でいえば、有権者の意識が変化していることを、経済界も政界も、マスコミも理解していないということだ。