空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

高野山

2014-01-06 01:21:05 | 旅行記

 昨年12月6、7日には、高野山にも行った。

 友人が仲間4人と高野山へ行くので、以前、私が利用したことのある宿坊を教えてほしいと言ってきたとき、私も仲間に加えてもらったのである。一泊したのは友人と私の2人だけで、あとの4人は日帰り。

 予定していた宿坊は、2011年に高野山大学創立125周年を記念して開かれた、「ダライ・ラマ法王特別法話」に参加したときに泊まった、国民宿舎・巴陵院であるが、昨年の台風で破損して修理中とのことで、これも2011年に泊まった橋本の旅館に宿泊することにした。

 この旅館は、1泊2食付で6500円。安いだけでなく、おかみさんがとてもいい人だったので、今回も予約した。電話をすると、私のことを覚えていてくれた。 

 友人の仲間は、一人を除いて私と同年代で、独身であったり、、離婚したり、連れ合いに先立たれたりして、いずれも一人で自由な生き方をしている人たちだった。 年齢は中高年だが、気持ちは20代と変わらず、気を遣うことなく、楽しい会話のできる人たちだった。

 南海電車が、往路だけ特急「高野号」の座席指定の特急券がついた往復乗車券と、高野山内のバスが2日間乗り放題、拝観料や土産物が割引になる「高野山・世界遺産きっぷ」を販売していた。それを購入すると800円ほどお得になる。

 「ダライ・ラマ特別法話」に参加したときは、時間がなくて、山内をゆっくり見ることもできなかった。今回は、バスを乗り降りしながら、一日目は奥の院、山上伽藍を、2日目は金剛峰寺、霊宝館、土産店をゆっくり見て回ることができた。

 金剛峰寺では、狩野派の名だたる絵師の襖絵を、ガラス越しではなく、あるべき姿で直接見ることができた。庭もよかった。シャクナゲがたくさんあって、花の季節にきたら、さぞ美しいだろう。

 霊宝館では、空海の書を見られるかと思ったが、徳川家と高野山の企画展をやっていて、書の展示がなかったのが残念。

 お土産は、有名な濱田屋のごま豆腐と、干菓子、前回も購入した塗香、高野豆腐、とうふ粉を買って帰った。

 とうふ粉は、粉状の高野豆腐だ。テレビで紹介されていて、最近開発された商品かと思ったが、「本陣」のおかみさんによると、昔から、高野豆腐の製造過程で出る不良品やくずを粉にして、普段のおかずに使っていたそうである。

 大根やニンジンなどあり合わせの野菜や、シイタケ、油揚げなどを炒め、出汁、調味料で煮て、とうふ粉を加え、最後に卵でとじる。

 「私らのこどものころは、母がいつも作ってくれたもんです。おからよりおいしいですよ」とおかみさん。このおかみさんは、高野山町から山一つ越えた、奈良県野迫川村出身だそうだ。

 高野山は、観光地化していて、その意味では俗界ではあるのだが、本来は、空海が真言宗の修行の地として開いた聖地である。宿坊の中には、温泉地の料理旅館とさして違わない商売をしているところもありそうだ。けれども、訪れる人間の心しだいで、聖地の空気に触れることができる。

 2011年に訪れたときには、ダライ・ラマ法王がいらっしゃったこともあるが、聖地としての高野山をすごく感じた。 

 そのときのことについては、またの機会に書くつもりである。

 

 

 

 


アート、映画のこと

2014-01-04 21:49:53 | アート・文化

 父の死後、重しが取れたように、あるいは手から放れた風船のように、身軽になったので、昨年11月以降、いろいろな活動を再開した。

 まず、介護生活に入る前は月に2回、通っていたアート教室へ再び通い始めた。大昔、一緒に朝鮮語を習っていた在日の友人が開いている教室だ。

 久しぶりに行くと、小学生、中学生の二人と若い主婦二人の生徒も新しく加わり、内容も、遠近法、スケッチ、水彩、油絵の技法を本格的に学ぶ教室になっていた。

 私はコラージュが好きで、以前からやっていたこともあり、油絵や水彩はいずれ学ぶことにして、今はコラージュを中心とした曼荼羅シリーズを製作している。先生は、展覧会をやるから、そのつもりで、と生徒にはっぱをかけている。

 私のような中高年と違って、小学生や若い人は、先生から教えられたことをすぐに自分のものにして、進歩が著しい。それが刺激になって、以前より集中して製作している。

 

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 国立国際美術館の「貴婦人と一角獣」展、京都市立美術館の「竹内栖鳳展」にも行った。どちらも友人が招待券を手に入れてくれたので、年金生活者にはありがたかった。

 貴婦人と一角獣を描いたタペストリーを製作した当時の技術、いまだに美しい色を残していることに驚かされた。 

 このタペストリーが飾られていた貴族の館に、私の好きなジョルジュ・サンドが滞在し、傷んだままになっていたタペストリーの保存に助力したという話が、教育テレビの「新日曜美術館」で紹介されていた。

 竹内栖鳳展では、有名な「班猫」を実際に見ることができて、長年の望みがかなった。栖鳳が最後まで、画法を追求し続けたことがよく伝わってくる展覧会だった。

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 映画も観に行った。

 印象に残っているのは「アンナ・カレーニナ」。

 これは父がまだ元気だった7月に観た映画だが、「プライドと偏見」のジョー・ライト監督が、トルストイの長編小説をどのように映画化したのか興味があり、ちょうど近くの映画館で上映されていたので出かけたのである。

 「プライドと偏見」にも出ていたキーラ・ナイトレイがアンナ役をやっている。 

 まず、その手法に驚かされた。映画の観客は、舞台で演じられるアンナとヴロンスキーの恋物語に加えて、役者がせわしく動き回ったり、衣装替えしたりする舞台裏や、舞台装置まで見せられる。

 一方で、トルストイに近い人格と言われるリョーヴィンとキティの恋は、ロシアの雄大な田園風景の中で描かれている。

 アンナとブロンスキーの恋や二人を取り巻く貴族社会が芝居じみて見える一方、リョーヴィンとキティーは地に足が付いた現実の生活を感じさせる。 

 長編小説を映画化する場合、原作に忠実に描こうとすれば、ストーリーを追うだけで精いっぱいという結果になりがちだが、ジョー・ライトは、舞台劇という演出方法を使って、トルストイが描こうとしたのはこういうことではなかったかと、一歩引いた視点から観客に問いかけているのである。

 若いころに読んだ原作では、アンナに感情移入するあまり、夫のカレーニンが俗人っぽく感じられたが、映画では、妻の不倫と貴族社会の中で苦悩する良識ある男として描かれている。私は、アンナより、カレーニンの方に感情移入したほどである。カレーニン役のジュード・ロウの演技がすばらしかったせいかもしれない。

 アンナとヴロンスキーが出会う舞踏会の場面は、モダンダンスの振付師、シディ・ラルビ・シェルカウイという人の振付けだそうである。

 音楽と巧みなボディ・ランゲージによって、アンナとヴロンスキーの、いったん燃え上がったら最後、理性でコントロールできない恋を象徴的に描いていて、リアリズムで描くより、恋というものの本質を見事に表現している。

 次に感動したのは、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」。

 高畑監督の作品は、宮崎駿監督の作品より、私の体質に合うような気がする。

 原作の「竹取物語」は、j平安時代の物語文学の中では好きな物語だ。高校の古典の教科書で初めて原作に接し、暗唱するほど何度も読んだ。かぐや姫が天に帰るときの、あたりが真昼のようになり、慌てふためく地上の人間の描写は見事だと思う。明るい満月の夜、私は決まって「竹取物語」のこの場面を連想する。

 アニメ「かぐや姫の物語」は、幼なじみの男との恋を除いては、原作に忠実に描かれている。

 高畑勲という名を認識したのは、彼のアニメ作品が最初ではない。

 カナダのアニメ作家、フレデリック・バックの「木を植えた男」を観て大いに感動し、書店で見つけた『木を植えた男』の著者が、高畑勲だった。

 「木を植えた男」は、パステル画か砂絵が動いていくような、流れるような線で描かれた作品で、アニメ映画を見ているというより、目の前に何かの啓示が出現したような、不思議な感動を覚えた。

 そのフレデリック・バックは昨年のクリスマス・イブに、89歳で亡くなった。

 高畑監督自身が、フレデリック・バックに大きな影響を受けたということを、ことあるごとに言っているように、「かぐや姫の物語」も、風景や草木が緻密に描かれているのとは対照的に、人物は、素描画がそのまま、水の流れが動いていくかのように描かれる。それが、かえって、生き生きした動きを生み出している。

 私は何度も泣いてしまった。どうして泣いてしまったのか。目が腫れるほど泣いて、恥ずかしいので、遠近両用メガネをかけ、マスクをして映画館を出た。その夜は、泣いたことで鼻の粘膜が炎症を起こし、ティッシュボックスを一箱、空にした。

 「かぐや姫の物語」を見て、すっかり忘れていた話を思い出した。幼いころのことなので、自分では覚えていないが、父がよく話してくれたことがある。

 私が初めて買ってもらった絵本が「かぐや姫」だそうだ。敗戦から何年もたっていないころの話だから、今のような立派な絵本ではなく、粗末な紙に粗末な色で描かれたものだったと思う。

 その絵本を繰り返し、繰り返し、読んでほしいと父にせがんだそうだ。父が読んでやると、かぐや姫が天に帰る場面で、決まって、大きな目を見開いてぽろっと涙を流したのだそうだ。そのくせ、また、読んでほしいとねだり、天に帰る場面でまた涙を流すのである。 

 ふと、私が「竹取物語」が好きで、暗唱するほど読んだのは、幼い日、「かぐや姫」の絵本を読んでもらったせいではないか、と思った。 

 そして、「かぐや姫の物語」を見て、目が腫れるほど泣いてしまったのは、父に読んでもらった「かぐや姫」の絵本の記憶のせいではなかったか。 

 「かぐや姫の物語」では、竹の中から拾い上げたかぐや姫を、竹取の翁と媼が、いつくしみ、かわいがって育てる様子を、詳細に、美しく描いている。 

 その場面を見ながら、まず、泣けてきた。「このように、私も、両親にいつくしみを受け、大切に育てられたんだ、なぜ、今まで、そういう自明のことに気付かないできたのだろう」と思うと、涙が止まらなかった。

 


お正月

2014-01-03 13:15:17 | 日記・エッセイ・コラム

 明けまして、おめでとうございます。

 父の喪中なので、あんまり大声で新年のあいさつをするのははばかられるが、それでもお正月には違いない。

 元日は実家で迎えた。

 両親が健在であったころは、私は、例年11、12月になると暇を見つけて帰っては、大掃除をした。母はいつも、今年はおせちは用意しないと言いながら、結局、コープで3万円ほどのおせち料理とにらみダイを予約して、31日に取りに行った。私は黒豆と特製のごまめを作って持って行った。

 弟や妹の家族が、それぞれ用意したおせち料理を持って、1日から3日の間に押し掛けた。孫たちにお年玉をあげるのが、父の楽しみで、その習慣は、孫たちが成人して、母が亡くなった年まで続いた。

 大みそか、ぽち袋に孫の名前を書き、それぞれの年齢に応じてお金を入れる父のそばで、母は「みんな大きくなったんだから、もうやめたら」と毎年言っていたなあ。

 母が亡くなる前年、2010年の正月には、海外にいる姪とその婚約者のジョン、ただ一人のひ孫まで、家族全員が同じ日に奇跡的に集まった。その年は両親にとって最高のお正月だったろうと思う。

 母が亡くなり、父が施設に入所して実家が空き家になると、家族が集まる家は無くなった。

 それでも、私は実家に帰ってお正月を迎えた。

 一昨年は一人で、昨年は友人が、実家からそう遠くはない大神神社に初詣をしたいと言ったので、大みそかに一緒に年越しそばを食べ、終夜運行の電車に乗って大神神社に参り、明け方に帰ってひと寝入りして、簡単なお雑煮を食べた。

 今年も大みそかに実家に帰った。自宅から雑煮用の野菜と前日に用意したお煮しめ、黒豆を持って帰った。

 実家近くのコープは閉店間際、しかも元日は休みなので、何もかもが安くなっていて、それらを買い求める客で大賑わい。私は雑煮用の鶏肉と、年越しそばの材料、晩ご飯用の弁当、お墓と神棚用の榊を4束買った。

 テレビを見ながらの晩ご飯(すごくまずい)のあと、目につくところの埃払いをし、家中に掃除機をかけた。紅白を見ながら(知らない歌手ばっかり)の年越しそば(これも天ぷらが衣ばかりで胸やけがしそうなぐらいまずかった)を食べた後、ラジオ深夜版を聞きながら寝た。典型的な独居老人の大みそか風景だ。

 

 7時ごろに起きて、神棚に榊を供え、 大祓詞を唱えた。母亡きあと、飛鳥坐神社の宮司さんが祓詞の言葉が書かれた冊子をくださった。それを見ながら、実家にいるときには毎朝、唱えている。

 その後、墓参りに行った。

 この墓地は村の共同墓地で、空いているところを新しい住人に抽選で提供してくれたものである。ほとんどの墓には、新しい花が供えられていた。近くに住んでいる人が多いので、花は枯れる前に替えられている。

 元日の墓参りはやはりすがすがしい感じがする。榊を供えて、こんどは大祓詞ではなく(冊子も持って行かなかったので)、般若心経を唱えた。

 良いお天気なので、庭や畑に立ち枯れている菊などの花を刈り取った。サボテンやアロエなどの多肉植物の鉢を、ナマコ板で覆っただけの、父手作りの温室に入れた。

 

 午後から、末の弟夫婦が来た。弟たちが買ってきたお寿司と、私の作った簡単なお雑煮、煮しめ、黒豆でお正月の食事をした。

 実家は、末の弟の名義にすることに兄弟で話し合って決めた。他の兄弟は相続放棄の書類にサインしなければならない。その書類に私が最後にサインした。父がずっと前に書いていた遺言には、私が住むように書かれていたし、私も父の死後は実家に住むつもりにしていた。

 実家は田舎で、いろいろ不便なことも多い。父が施設に移って分かったことだが、病院、介護業者の対応も、自治体の対応も、今、私が住んでいる地域とは、ずいぶん遅れている。これから年老いていくことを考えると、元気なうちは田舎暮らしもいいが、いずれ動けなくなっていくことを考えると、今、住んでいる地域の方がはるかに便利である。

 「親の残した家を大切に思う気持ちは分かるが、これからは自分の年老いたときのことを考えて、住むところを決めるべきではないか」と妹にも言われた。

 そう言われれば、そうだ。出かけるにしても、実家近くには何もなくて、少し遠出すれば交通費もばかにならない。引きこもり老人になりかねない。実際、父が車の運転ができなくなってからは、両親はどこへも出かけなくなり、老化のスピードも速くなった。

 妹も私も一人暮らし、年金も十分ではない。いまから公営住宅に応募し続けて、安い家賃の高齢者住宅に入れれば何とかやっていけるのではないかというのが、妹の老後の計画である。思い優先で物事を決める私に対して、妹はなかなか現実的である。

 とりあえず、私の次に家への思いが強く、同じ県内に住んでいる末弟の名義にすることにしたのである。弟は仕事の関係で、あと5年は移れないと言っている。その間、私が今まで通り、時折帰って、家や庭の手入れをするつもりでいるが、5年後にどうなっているか、誰にも分からない。

 書類にサインするとき、いろいろな思いが頭をよぎったが、考えるときりがない。弟はもうリフォームのことを話している。「あんた、リフォームより、自分がその時まで元気でいることのほうが大事だよ」と私が言うと、「そうやなあ、5年先には俺は死んでいるかもしれんしなあ」と病気持ちの弟は言った。

 弟夫婦とはざっくばらんな話ができるので、この先、家をどうしていくか、話し合いながら、気分転換のためにも実家に通い、守っていくつもりにしている。

 

 帰る前に、弟夫婦が、鈴なりになったキンカンを収穫した。

 弟は、甘いキンカンより未熟気味の酸っぱいものが好きなので、いつも早めに取りに来ていた。弟のお嫁さんは、テレビで見たキンカン・ソースをつくると言って、二人でたくさん収穫した。

 その様子を2階の窓から見ていた。「今年のキンカンは大きいなあ」、「もっと上の方が大きいのがあるよ」と言う声が庭に響く。弟は踏み台を持ってきて届かなかった上の方に手を伸ばして摘んでいる。

 その様子を見たり、久しぶりに庭に響く声を聴いていると、両親を囲んで兄弟で過ごしたころが思い出された。その時間は二度と帰ってこない。

 両親がこの様子を空から見ているような気がした。

 新年早々、おめでたい話ではなく、やはり生老病死の話になってしまった。