コロナでブログも自粛していたわけではなかったが、1年ぶりの更新である。
友人たちと年4回発行していたミニコミ紙も発行を休止していたが、1年ぶりに再開した。そのミニコミ紙に書いたエッセイを再録する。
岩佐寿弥・川口汐子往復書簡集『あの夏、少年はいた』を読む
―〝ギフト〟考 その1―
1年も前のこと、映画「蜜蜂と遠雷」を見た。
それより少し前、NHKBSで「蜜蜂と遠雷~若きピアニストたちの18日」というドキュメンタリーが放送されていた。
「第10回浜松国際ピアノコンクール」に挑戦する若きピアニストたちの姿を追った、その番組の中で、このコンクールが恩田陸の小説『蜜蜂と遠雷』のモデルになっているという説明があった。
放送と相前後して映画が上映されたので、見に行ったのである。
記憶に残っている場面がある。今は亡き著名なピアニスト、ホフマンが、コンクール参加者の一人、風間塵を推薦する手紙を審査員たちに送っていた。
「この少年を災厄と取るか、ギフトと取るかは諸君の裁量次第だ」という手紙に審査員たちは困惑する。
私は、「ここにも〝ギフト〟が出てきた」と驚いた。
作者が〝ギフト〟をどんな意味で使ったのかはともかく、私はフランスの社会学者、マルセル・モースが未開社会における贈り物の交換について論じた「贈与論」を思い出したのである。
文化人類学者であり、道元の深い理解者である岩田慶治さんの著書、『道元の見た宇宙』を読んで、初めてモースの学説のことを知った。((岩田さんは「贈与説」と表記)
岩田さんは、「第2章 道元の言葉」の中で、言霊(ことだま)についての理解を助けるために、「贈与説」を紹介している。
要約すると「AがBに贈り物をする。贈り物をもらったBは機会をとらえて、Aに贈り物のお返しをする。Aの贈り物には、Aの霊魂が付着している。この霊魂はもともとAのものだから、いつかAのもとに戻りたいと思っている。そこで、BはAの霊魂をもとの主人に送り返すためにも、機会をみて贈り物をAに送り届けなければならない。そのように、贈り物、ものであると同時に情報でもあるものは、いわば霊魂のレールにのって去来するのである。モースはそのように考えた」。
岩田さんは、ものに付着して去来する霊魂を、ある種の空間だと考える。
「霊魂というのは目に見えない場所であり、……身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間なのである。
……贈り物とともに霊魂が去来すると考えるのは、……私とあなたはたがいに同じ命の場を共有している、同じ目に見えない土壌の上に生きている、ということを『もの』の去来を通して確認するためなのである。
……ここまで解説すれば、あらためて述べるまでもなく、言霊といわれるものがモースのいう、そして私が拡張解釈した、霊(たま) =場所にあたるということが納得されるであろう。
霊=場所の上を運ばれてゆくから、言(こと)=記号が相手に届き、相手からの返信がかえってくるのである。」
前置きが長くなった。さて、今回のテーマ、岩佐寿弥さんと川口汐子さんの往復書簡集に移る。
今年1月、BSプレミアムで「あの夏~60年目の恋文~」と題したドキュメンタリ―が再放送されていた。
2006年の初回放送時に見た記憶があった。テレビをつけたまま、家事をしながら耳だけを傾けていたが、「モウモ チェンガ」「いわさひさや」という聞き覚えのある名が耳に飛び込んできて、慌ててテレビの前に座った。
「あの夏~60年目の恋文~」は、昭和19年、奈良女高師(現奈良女子大学)附属国民学校4年生の少年が、教育実習生として教壇に立った雪山先生にひそかな恋心を抱き、60年後、その先生の消息を偶然知って、長い手紙を書く。
何回かの手紙のやりとりと、再会後の交流を、先生の孫娘の目を通した再現ドラマ仕立てで描いている。
奇跡とも思える再会と、年齢を超えた2人の交流に、とても感動した覚えがあるが、初回放送当時は、映画作家である岩佐寿弥さんのことを私はまだ知らなかったから、少年の名も記憶に残らなかった。
映画「オロ」を見たのは2013年だったか。インド・ダラムサラで、チベット亡命政府が運営する「チベットこども村」に学ぶ少年、オロを描いた作品だ。
監督が岩佐寿弥さんだった。その映画を見て、岩佐寿弥という名が初めて私の記憶と心に刻まれたのである。
オロは母親に勧められて家族と別れ、ヒマラヤを越えてインドに亡命してきた。
このような子供たちが多くいることは、ドキュメンタリー映画「ヒマラヤを越える子供たち」にくわしく描かれている。
オロが「監督は年寄りなのに、なんでこんな映画を撮るのか」と尋ね、岩佐監督がまじめに答え、オロが納得するシーン、10年前に撮った映画「モウモ チェンガ」の主人公で、ネパールに住むチベット難民のおばあさんに会い、おばあさんの家族と親しくなったオロが自らのことを語りだすシーン、映画の最後でオロは「それでもぼくは歩いていく」と決意するシーン、どれも心に残る。
「ぼくのなかでオロは〈チベットの少年〉という枠をこえて地球上のすべての少年を象徴するまでに変容していった」と岩佐監督は語っている。
監督についてもっと知りたいと思い、公式ホームページを見た。岩佐監督の訃報が載っていた。
2013年5月3日、宮城県での「オロ」上映会のあと、宿泊先で階段から転落し、翌4日、亡くなったという。享年78歳。
映画「オロ」は、各地のミニシアターや自主上映会で共感の輪が広がり、ⅮⅤⅮも出ていることを知ったので、早速取り寄せた。
上映会の開催に奔走し、道の途中で亡くなった岩佐監督へのせめてもの追悼の気持ちからでもある。
テレビのドキュメンタリー「あの夏~60年目の恋文~」の再放送を見る中で、この番組が、岩佐寿弥さんと、教生の雪山先生(結婚後、川口汐子さんとなる)との往復書簡集『あの夏、少年はいた』をもとに構成されたものだと知った。
2005年刊の本は絶版になっていたが、地元の図書館で見つけ、1週間前にようやく手にすることができた。
2003年8月のある夜、岩佐さんは、ⅮⅤⅮに録画していたテレビ番組を見て、そこに出演していた川口汐子さんが、雪山先生ではないかと気づく。
NHKのアーカイブ番組「戦争を伝える」シリーズで、1979年に放映された「昭和萬葉集」という番組だった。
その中で結婚したばかりの夫のことを詠んだ川口さんの短歌が朗読され、川口さんの短いインタビューのシーンがあった。
川口さんの夫は海軍士官で、特攻隊として出撃する運命にあった。少しでも夫の近くにいたいと、川口さんは夫を追って任地を転々とする。出撃予定日の一週間前に戦争は終わった。
岩佐さんは、テレビにくぎ付けになる。
国民学校時代のアルバムを持ち出して、集合写真にある雪山先生とテレビ画面の川口汐子さんの顔を見比べ、朗読された短歌
「君が機影 ひたとわが上にさしたれば 息もつまりて たちつくしたり」
の詠み人の名に汐子とあるのを見て、川口さんが雪山先生であると確信する。
インターネットで、川口さんが姫路に健在であり、歌人、随筆家、童話作家として活躍していることを知り、川口さんの歌集を取り寄せ、長い手紙を書く。
そして、時間を60年前に一気に引き戻すような、2人の交流が始まるのである。
ドキュメンタリーの再放送を見て、あの少年は岩佐さんだったのかと分かったのは、川口さんの娘と孫が、岩佐さんに会うべく、「モウモ チェンガ」の上映会に現れるシーンであった。
私の中で、戦争中、雪山先生に恋した少年と、映画「オロ」を撮った岩佐監督の人間像が、矛盾することなく重なった。
2人の感動的な往復書簡の内容を記したいが、紙面がないので、岩佐さんが巻末に記したエピローグを紹介する。
岩佐さんは川口さんへの最初の手紙で国民学校4年生の夏休み、京都の叔母の家近くにあった雪山先生の家を探し当て、表札を見ただけで引き返したことを告白している。
再会後、幾度か姫路に川口さんを訪ねたある日、「京都のあの家は今もあるのですか」と尋ねた岩佐さんに、川口さんは「今から一緒に行きましょう」と、夕暮れ時の住宅街で家を探し出す。
60年前そのままの門前に、八十嫗と七十翁は立ち並んだ。岩佐さんが「表札はもっと高く見えたなあ」と思ったとき、川口さんは杖を取り落とし、うつ伏して泣いていた。
このとき、2人のいた場所は、岩田慶治さんが「言霊」と呼び、「身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間」「たがいに同じ命の場を共有している」と表現した、霊(たま)=場所であるような空間だと思うのだ。
その空間は、戦争中、少年だった岩佐さんが雪山先生に出会った場所であり、若き日の川口さんが戦争の時代に自分を見失わなかった場所であり、60年後に2人が再会し手紙を交換した場所であり、岩佐さんが「オロ」と出会った場所でもある。
2人は亡き人となったけれども、その場所は、目に見えぬところに永遠に存在していると思う。
岩佐さんのあとがきの次のページ、書簡集の最後のページに記された歌。
「少年も少女も齢(よはひ)重ねたりふつふつと粥煮ゆるときのま 川口汐子」