空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

丹波豪雨被害と日本の農業

2015-07-21 12:57:16 | 日記・エッセイ・コラム

 またまた『望空游草』からの転載です。

 神戸を拠点に、生産者と消費者の提携運動を進めている「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」(通称・求める会)のことを本紙第3号に書いた。この1年、会の世話人をやって、日本の農業について考えることが多かった。

 「求める会」と野菜、米の産消提携をしているのは丹波市市島町の「市島有機農業研究会」(通称・市有研)の生産者たちだ。その丹波市と、隣接する京都府福知山市は昨年8月、未曽有の豪雨に襲われた。

 市有研のメンバー、Hさんは有機農業がやりたくて市島に移住した。今回の豪雨で自宅の裏山が崩れ、住宅は直撃をまぬかれたものの、農機具や収穫後のタマネギ、ジャガイモを収納していた倉庫と、田んぼが土砂で埋まった。平飼いをしている鶏舎にも雨水が流れ込んだ。

 公道は行政が出動して復旧に当たったが、自分の土地は自分で何とかしなくてはならない。消防団の一員として救助活動をやっている間に、丹波市で唯一の死者となった同僚の父親を救えなかったことのショック、どこから手を付けていいのかわからないほどの被害の大きさに、農業をやめて故郷に帰ろうとまで思ったと、Hさんは後に告白した。

 有機農業運動や農業研修など、いろいろな縁でつながりができた若者たちが駆け付け、岩石まじりの大量の土砂をスコップですくい始めた。インターネットで知って駆け付けたという神戸大の学生もいた。

 私たち消費者も、おにぎりなどを用意してお見舞いに駆け付け、高齢者ばかりでほとんど役に立たなかったが、片付けのお手伝いをさせていただいた。

 彼らに背中を押されるようにして、自らも倉庫の土砂をすくっている間に、少しずつ落ち着きを取り戻し、生産量が大幅に減ったものの、今も野菜作りを続けている。

 しかし、豪雨のあとも天候不順はつづき、土が乾く間もないので種まきができない、日照不足で苗が成長しない、虫害がひどいということが続いた。4月から5月にかけての端境期には、野菜の出荷がまったくできなかった。こんなことは初めてだという。

 有機米の提携をしているIさんは、米作りをやめた農家の田んぼを少しずつ買い足し、おいしいお米ができる田んぼを何年もかけて作り上げた。その田んぼの3~4割が、山崩れの土砂と流木で跡形もなく埋まってしまった。

 私たちが訪ねたとき、Iさんと息子さんは、なぎ倒された電気柵の修復に駆けずりまわっていた。山に囲まれた市島は、シカやイノシシの獣害がひどく、電気柵が壊されれば、被害をまぬかれた収穫前の稲までもが食べ尽くされてしまう。

 Iさんのお連れ合い、のぶ子さんが私たちを土砂に埋まった田んぼに案内しながら、「ここいらの田んぼは私が一生懸命育てて、本当にいい米ができるようになったんよ」と説明してくれていたが、突然、「ここからは先にはよう行かん。あんたたちだけで行って」と引き返した。手塩にかけた田んぼの変わり果てた姿を見るのがつらいのだ。

 先に進むに従って、稲は立っているものの下半分が土砂に埋まっていたり、稲がなぎ倒されていたりする。さらに登っていくと、辺り一面のがれ場が現れた。土砂だけではなく、押し流される間に枝がもぎ取られ、表皮がはがれた材木が折り重なっている。こんな状態になってしまった田んぼを復旧するのは不可能だろうと思われた。

  「求める会」では地域ごとに集まる「地域集会」を開き、いろいろな問題について学習している。春には生産者を招いて現場の話をしてもらう。今年の春はHさんのお連れ合いのけい子さんが、豪雨被害のその後について話してくれた。

 一番心に残ったのは、高齢化に豪雨被害が追い打ちとなり、農業をやめて地域を出ていく人たちが多いという話だった。

 農地は、畔の草刈り、水路の管理が欠かせない。自分たちの田んぼを守るためには、地域のつながりがなくてはやっていけない。水路の上流が田んぼを放棄すれば、水路の管理をする者がいなくなり、自分たちのところにも水が来なくなる。

 農村の地域社会の崩壊は、農業の崩壊を意味する。「私たちのところに水がくるかどうか、水が来なければ田植えができないので、心配だ」とけい子さんが言った。このような状況は、今も、これからも日本各地で起きてくるだろう。

 丹波豪雨の二日後、広島市が豪雨に襲われた。神戸新聞によると、広島に六62億円の義捐金が寄せられたのに対し、丹波市への義捐金は2億円。メディアの注目度の差だと解説されていた。

 私は、メディアおよび社会が、農村や農業に対して関心が低く、それゆえの想像力の無さが、このような差を生んだのだと思う。七十四人の人命が奪われ、住宅被害の大きかった広島のほうがメディアには報道しやすかったし、社会の関心を引くことも容易だ。

  「求める会」では毎年4月、総会を開く。生産者も遠くから駆けつけてくれて、消費者と食事をしながらの交流会がある。そのうちの一人 Tさんは、市島で、有機米と、国産大豆を守るための運動「大豆畑トラスト」で有機大豆を作ってくれている。豪雨で大豆畑が冠水したが、大きな被害をまぬかれた。

 「TPPで安い輸入農産物が大量に入ってくると、日本の農業は大きな打撃を受ける。遺伝子組み換え作物も入ってくる。でも私は心配していません。ダメだったら、農業をやめればいいだけです。困るのは消費者なんですよ」とTさんは言った。

 本当に、日本の農業がダメになって困るのは、私たち消費者なのだ。

 TPPで日本の農業が衰退すれば、私たちの命を支える食料の安定供給が脅かされるだけでなく、遺伝子組み変え表示義務や添加物などの規制が緩和され、食の安全が脅かされる。

 農業を担う人がいなくなれば、農村の地域社会が破壊され、自然環境を守ることができなくなる。安い輸入材で林業が立ちいかなくなり、山林の手入れをする人がいなくなって、山崩れや洪水が繰り返されるようになったのと同じ理屈だ。

 「求める会」と「市有研」は今年、これまでの提携関係を振り返り、「提携の基本方針」を確認し合った。

 そこには「有機農業運動における生産者と消費者の提携では、立場は対等であり、生命を委託し合う関係」である、「農産物は市場経済でいう商品ではなく、食生活を見直し健康を保つものであり、運動をすすめ学習するための素材であることを認識」する、と記されている。

 農業が私たちの命を支え、生産者と消費者は生命を委託し合う関係にあるという認識があれば、メディアのとらえ方も、農業政策も変わってくるのではないだろうか。TPPにまい進する安倍政権は、それに反対する農協の解体を目ざした。自分の命が農業に支えられているという認識はまったくない。

 2014年が国連の定める「国際家族農業年」だったことは、日本ではあまり話題にならなかった。

 先進国では、新自由主義的政策によって、自由競争、グローバル化が進み、自給率低下や環境破壊が進んだことへの反省から、「持続可能な資源の利用」、「雇用創出」、「食料安全保障」において、家族農業や小規模農業の役割が見直されている。

 世界の農家数の圧倒的多数は小規模・家族経営で、北米などの大規模農業はむしろ特別なのだ。

 安倍政権はいまだに、企業の農業参入、市場の自由化、TPPに耐えうる大規模農業を唱え、農業所得の倍増を口にする。私たちの命を基本的に支える農産物を、金儲けのための商品としてしか見ていない。

 私は、手に触れる物がすべて金になるという願いが叶えられ、食べ物も水さえも金に変わってしまったというミダス王の神話を思い浮かべずにはいられない。

 お金はあるが、豊かな自然も、風土が育んだおいしくて安全な食べ物も失われてしまった日本を見たくはない。

 


パーリ語を習う

2015-07-21 12:44:46 | 日記・エッセイ・コラム

 『望空游草』からの転載記事です。

            

 昨年5月、パーリ語を習い始めた。

 私が住んでいる市の公民館の一室を借りてパーリ語講座を開く話が持ち上がったのは4月のことだ。

 この『望空游草』第3号の編集後記に、「『望空游草』が送られてご迷惑な方は遠慮なく言ってください」と書いたら、早速、「礼状を出さなければと気になる性分なので、送付を辞退させていただきたい」という内容のメールが届いた。

 メールの送り主は、尼僧の華蓮さんだった。華蓮さんのことは、仏教系のサイトで知った。著作が紹介されていたので、すぐ購入して読んだ。『座標軸としての仏教学』という本で、共感するところが多々あり、仏教を学んでいくうえでの指針になっている。

 華蓮さんが京都で仏教塾を開いていることを知り、京都へも出かけた。

 そのころの私は両親の介護で疲れ果てていて、少しでも息ができる場所がほしかった。出席したのは最後の2回だけだったが、ずっと考え続けていた「縁起・空・中道」がちょうどテーマに取り上げられていた。華蓮さんの語る言葉は、私に向けて発せられているかのように深く胸にしみいってきた。

 最後の回で、「空」について質問した。華蓮さんが「縁起と空」を理解できたのは具体的にどういうときだったのかということを聞きたかったのだ。

 ところが、電車に乗って車窓から見えるすべてが空なのだと思うと、言い知れぬ虚しさに襲われたという体験を話しているうちに、その時に感じた空しさがよみがえってきて、質問を続けることができなかった。

 その後、ダライ・ラマ法王の著書『実践の書』と出会った。

 空について誤って理解すると極端な虚無主義に陥ることがあると書かれた箇所があり、「修行の土台となるのは、世俗の真実〈世俗締〉と究極の真実〈勝義締〉で、二つの真実〈二締〉に対応した方便と智慧を実践するのが修行の道である」「もし虚無主義的に考えがちになったら、縁起についてじっくりと考え抜く」と、具体的に書かれていた。

 華蓮さんが仏陀の悟りについて「仏陀は悟られたのち、一度は涅槃に入ろうとされたが、この世界に戻って法を説かれた。この世界に戻ることが大事なんです」と話され、〈世俗締〉と〈勝義締〉の〈二締〉について、繰り返し説明されたことを思い出した。

 一般の仏教書は、「苦集滅道」という〈四締〉については詳しく書いているが、〈二締〉に触れているのはあまりない。華蓮さんと出会い、さらにダライ・ラマ法王の著書と出会って、私は「空」について理解を深めることができたように思う。それ以来、虚無主義に陥ることはなくなり、だんだんと「空」を受け入れられるようになった。

 仏教塾は終わり、華蓮さんとお会いできる機会はなくなったが、折に触れてメールをやりとりしていた。『望空游草』も勝手にお送りした。そして前に書いたようなメールが届いたのだ。

 私は、勝手に送付したことを詫び、「これからも自分なりに仏教の勉強を続けたい。できるなら、パーリ語で『ダンマパダ』を読めるようになりたい」という内容のメールを返信した。

 華蓮さんからすぐにメールが帰って来た。私の住んでいる同じ市に、華蓮さんの仏教講座を受講しているYさんという人がいて、パーリ語を学びたいと言っている、心当たりの知人にも呼びかけてパーリ語教室を開いてはどうか、という提案だった。なんという展開!

 それから、華蓮さん、Yさん、私と3人で会い、公民館の部屋を借りる手続きをし、ほかにIさん、Aさんも加わることになって、五月からパーリ語教室が始まった。

 公民館に届け出るにはグループ名がいるので、「サークルれんげ」に決まった。講師は華蓮さん、生徒は仏縁で華蓮さんと出会った30代~70代の女性4人である。

 パーリ語とは、古代の西インドの俗語(プラークリット)。紀元前3世紀ごろにスリランカなどに伝えられた南伝仏教(上座仏教)の聖典でのみ使われている言葉で、パーリ語を母語として使う者は現在はいない。

 本来、仏陀の教えは口伝で伝えられ、文字で記録されるようになったのは紀元前1世紀になってからだ。そのため、パーリ語固有の文字は存在せず、スリランカではシンハラ文字、タイではタイ文字というふうに、仏教が伝えられた地域の文字で表記されている。欧米、日本ではアルファベットで表記している。

 ちなみに、サンスクリット(梵語)は古代インドの文法学者が作ったことばで、俗語であるプラークリットに対して、サンスクリットとは洗練された言葉という意味。文字もあり、現在もインドの公用語の一つとして使われている。

 紀元前後に生まれた大乗仏教の経典(たとえば「般若心経」)はサンスクリットで表記されている。サンスクリットで書かれた経典が漢訳され、日本にもたらされた。法隆寺には世界最古の「般若心経」のサンスクリット写本が保存されている。

 華蓮さんは、パーリ語で書かれた原始経典の研究者である。

 私たちにパーリ語を学んでほしいという理由は、ご自分がパーリ語聖典を読んだ経験からである。今までいろいろな研究者によって翻訳されたものと、自分が原典に当たって読むのとでは、語学力もさることながら、その人の言語的センスや人生経験、宗教的な経験などによって違ってくる。仏陀が説いた教えを、自分なりでいいから、原典を読んで理解してほしいと言われた。

 私が初めてパーリ語に触れたのは、ある仏教講座でのこと。カタカナで書かれたパーリ語の「三帰依文」を講座の始めにみんなで唱えるのだ。

 独学でいろいろな仏教書を読んでいくうちに、「ダンマパダ」(Dhammapada)を、翻訳ではなく、仏陀が話されたであろう言葉で読みたいと思うようになった。

 「ダンマパダ」は、もっとも早くに成立した仏教テクストで、仏陀の言葉が偈の形でまとめられている。「ダンマ」は法すなわち仏陀が説かれた真理、「パダ」は句、言葉を意味する。岩波文庫から、古くは『法句経』、新しくは『真理の言葉』として出ている。

 仏陀が法を説かれた言葉は、中インドの方言、マガダ語だったらしい。マガダ語とパーリ語とは、まったく同じではないが、類似しているそうだ。スリランカに口伝で伝わった仏陀の教えが、文字で記録されるようになり、聖典(パーリ)の言葉であったことから、パーリ語と呼ばれるようになったとのこと。

 憧れのパーリ語を学べることになって、意欲満々。華蓮さん手作りの教科書をもらった時も、水野弘元先生の『パーリ語辞典』を購入したときも、小学校へ入学する子どもが新しい教科書を手にしたときのように、新鮮な喜びがあった。

 学ぶ喜びは今も変わらない。ただし、華蓮さんの教え方は、基本的な文法をざっと学んだあとは実践あるのみ。辞書を引いて、ひたすら経典を読む。

 パーリ語の音は、基本的には母音と子音の組み合わせ、単語の最後は母音で終わる。だから、ローマ字のように読みやすい。しかし、文字の上下に点や横棒や波型の記号がついたりすると、発音の仕方が違ってくる。

パーリ語はインド・ヨーロッパ語。名詞は男性、女性、中性があり、単数、複数がある。それに従って動詞も語尾変化する。動詞の過去、現在、未来形も西洋語とは少し概念が違う。語順も西洋語のようには明確に決まっていない。

 もっとも悩ましいのは、名詞・形容詞・代名詞・数詞は、性・数・格によって語尾変化し、これを曲用語というのだが、その語尾変化たるや、複雑きわまりない。

 おまけに、辞書には語基という基本形でしか記載されていないから、語尾変化の一覧表である「曲用表」を探して、語基は何か、男性名詞か、女性名詞か、中性名詞か、単数か、複数か、接頭語がついている単語か、複合語なのか、あらゆる可能性を想像して、辞書を引くのである。

 名詞だけで二十六種類の曲用がある。こんなふうだから、辞書を引く作業は、さながら暗号解読作業だ。一つの単語を引くのに、暗号表ならぬ曲用表や、教科書を何度もひっくり返して、やっと辞書に載っている単語の基本形にたどりつく。

 ところが、仏典は、本来口伝だったから、覚えやすいように偈(韻文)の形をとっているため、言葉が繰り返されたり、語順が入れ替わったりする。

 この単語は主語なのか、補語なのか、目的語であれば、どの動詞に対応する目的語なのか、ありとあらゆるケースを考えて、ようやく一つの文章を訳するに至る。「パーリ語ってすごい脳活になる」というのが生徒みんなの感想。

 パーリ語教室は11月で終わった。華蓮さんは言われた。「基本的なことは一応教えました。あとは皆さんで集まるのか、各々でやるのか分かりませんが、読みたい経典を、辞書を引きながら、読んでいってください。やっているうちにきっと読めるようになりますから」。

 パーリ語を学んで、発見もあった。たとえば「五戒」。漢語で書くと「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒」。日本語は「生き物を殺さない、盗みをしない、嘘をつかない、飲酒をしない」となる。

 パーリ語にも、在家者が常に唱える聖典の中に「五戒」がある。それを直訳すると「(私は)生けるものを殺すことから離れるという学処(戒め)を受持します、与えられないものを盗むことから離れる……、邪淫から離れる……、妄語から離れる……、放逸の原因である飲酒から離れる……」となる。

 本来、人間はめぐりあわせで殺人もする、盗みもする、嘘もつく、邪淫も犯す、飲酒して放逸にもなる存在である。

 そのようなことをしてしまうところから離れるという生き方が修行なのである。修行を積んでいるうちに、自己をコントロールできるようになる。

 悪行をただ禁止するのではなく、悪しきものから離れることで自己をコントロールできるようにするという考え方は、精神医学における作業療法に通じるような、人間観察が根底にあるように思う。

 パーリ語経典を読むことで、仏陀が世界や人間をどう認識されていたかを学ぶことができるのではないかと感じている。

 今年から月に一度、生徒同士で集まって、経典を読む勉強会を開く。一人で勉強するよりも、縁あって仏陀に出会った女性同士で、教科書や辞書をひっくり返しながら、いろいろな考えを交換するのは、いい刺激になると思っている。

 

 


理想を掲げて~「求める会」の産消提携運動40年~

2015-07-21 12:27:35 | 日記・エッセイ・コラム

 またまたブログを書くのがお留守になってしまった。書くべきことはたくさんあるのだが、日々の忙しさに、ついお留守になってしまった。

 友人と出しているミニコミ紙『望空游草』から、その後の記事を転載させてもらう。

         

 2014年4月から、生産者と消費者の提携運動団体「食品公害に反対し安全な食べ物を求める会」、通称「求める会」の事務局の仕事をする世話人をしている。

「求める会」に入会したのは、20数年ほど前。「求める会」が事務局を置いていた神戸学生青年センターの朝鮮語講座に通っていたのがきっかけだった。 

神戸学生青年センターは、貸教室や宿泊施設のほかに、反戦平和、人権問題、環境問題と取り組む市民運動の拠点ともなっていた。「朝鮮史セミナー」、「食品公害セミナー」(現在は食料環境セミナーと名称変更)、「キリスト教セミナー」の三つのセミナー活動をしており、「朝鮮史セミナー」に関連して生まれたのが「朝鮮語講座」、「食品公害セミナー」にかかわる人々が中心になって、1974年に設立されたのが「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」である。

 朝鮮語講座の受講生には、学生センターを拠点に韓国・朝鮮、在日朝鮮人の歴史や文化、社会問題を研究する市民グループ「むくげの会」のメンバーや、「求める会」のメンバーが多かった。

 当時、私が働いていた職場は勤務が不規則で、食生活もめちゃくちゃ、健康に悪いことを自覚していたし、深刻さを増すばかりの当時の環境問題にも無関心ではいられなかった。学生センターが野菜の配送ステーションの一つになっていて、朝鮮語講座の帰りに野菜を持って帰れたこともあって、誘われるままに入会した。けれども、仕事が忙しいことを理由に、「求める会」の運営にはまったく携わらない、ただの消費者にすぎなかった。

 「求める会」では、西は高砂から、東は尼崎まで、地域ごとにグループをつくっていて、グループのリーダーの家などが野菜の配送ステーションになっている。配送トラックが火曜コース、木曜コース、金曜コースと、三コースを回って、ステーションに野菜や他の食品を降ろしていく。会員は週一回の配送日にステーションまで取りに行くのである。

 私が最初に入れてもらったのがセンターグループだった。この時にかろうじてやったのは、当番の時、市島町有機農業研究会の生産者から送られてきた土だらけの野菜を人数分に仕分けして、かごに入れる作業と、数回、援農に行っただけである。

 その後、仕事も住所も変わって、現在所属しているのは宝塚のグループだが、ベテラン会員におんぶにだっこ、野菜もコンテナでくるようになったので仕分け作業も必要なくなり、週一回、ステーションに届いた品物を取りに行くだけの、ただの消費者であることに変わりはなかった。

 両親の介護が始まって、実家での生活が中心になってからは退会を申し出たが、仲間に引き止められて、休会とすることにした。両親が亡くなって会員に復帰、世話人をしてくれと声をかけられたのを機に、今までお世話になった恩返しと罪滅ぼしに、少しでもできることがあればという気持ちで引き受けた。

 事務局の仕事は、実務部と活動部に分かれていて、実務部は、野菜などの共同購入品や加工品の受注・発注、会計、請求書発行、一般事務、電話受付、ウェブサイト管理などを担当し、有償ボランティアだ。

 活動部は、会員担当、生産者担当、学習・研究担当、加工品などを扱う事業部、広報担当で、無償ボランティアだが、どちらも交通費が支給される。

 代表と副代表は主に渉外担当だが、時間の許す限り、あらゆる現場に顔を出して、よく体が持つなあと心配になるほどである。

 単なる一消費者であったときも、購入品の申込書、請求書、ニュースなどが送られてくるし、申し込んだとおりの品物がちゃんと配送されてくるし、そのための仕事をする人がいるということは十分に分かっていたはずである。 

 しかし、事務局に顔を出して、実際の作業を目の当たりにすると、いかに大変な作業をこなしているか、いかにその大変さを理解していなかったかを今さらながら反省した。

 年度初めの総会では、資料作り、会計報告作りが大変な作業である。定年退職で時間ができたので、妻に代わって初めて総会に出席したという男性が、このような運動団体で、これほど詳細な資料を作っているのに驚嘆したと感想を述べた。

 プロは一人もおらず、パソコンも何もかも、一から始めて、施行錯誤を繰り返しながら、現在のような形に作り上げてきたのである。

 秋には収穫感謝祭という大きな行事がある。食堂で出されるおでんや、ちらし寿司、カフェで出されるケーキ、即売会で売るジャムなどの保存食や手作りのお菓子。どれも会員が安全な材料をそろえて、作ったものだ。総会でも参加者が毎年楽しみにしている昼食が用意されるが、これも会員たちの手作りだ。

 この会員たちの料理力には、私はいつも感動させられる。それに費やされる時間と労力と神経は、相当なもので、会員の平均年齢が上がっていくにつれ、今年はもっと簡単にできないものかという意見が必ず出る。

 各グループから代表者が出席して開かれる月1回の全体会では、その時々の検討事項が論議される。実務部、活動部は、それぞれの仕事に応じて活動する。年に3回、各部が集まって、会全体のことを話し合う部会が開かれる。

 一番大変だと思われるのは、月1回の受注と発注、請求書作成の仕事だ。会員は月1回配られる申込み用紙で品物を申し込む。料金は、一月分まとめて郵便局の口座から引き落とされる。

 野菜、牛肉、豚肉、卵、牛乳はあらかじめ購入する量を決めていて、変更したいときにグループのリーダーに伝える。米、調味料、お茶は毎月、必要に応じて注文する。そのほかにミカン、晩柑、リンゴ、ビワ、イチゴなどの果物や、豆類などは、季節によって注文を取る。

 事業部は会の赤字解消のために始められたもので、乾物、塩干もの、梅、お菓子、石鹸など、加工品や日用品を扱う。

 これだけの品物を間違いなく発注し、請求書を作り、引き落としの手続きをしなければならない。

 私たち広報部員は3人。月2回集まり、1日付と15日付のA4判四ページのニュースを編集、印刷し、申込書、請求書とともにグループごとに封筒に入れる。野菜の配送トラックがそれをステーションに降ろしていく。

 ニュースはこの8月1日で879号を数えた。載せる記事で決まっているのは全体会の報告や、食料環境セミナーのリポートだが、その時々の行事や世話人の声、会員の声も載せる。編集会議では、もっと魅力的で、会員が読みたくなるようなニュースを作れないかと話し合うのだが、今のところ、次の号は何を載せるか考えるだけで精いっぱいというのが正直なところだ。

 今年、「求める会」は設立40周年を迎えた。改めて会則を読み直してみる。

 「本会は食品公害という社会の不幸をなくし、すべての人が健康な食生活を営むことができるよう努力する。その為に目的を同じくする生産者と提携しお互いにこれまでの私たちの生活を反省し今後の新しい生き方をともどもに創造せんとすることを目的とする」とある。

 新しい会員向けの手作りパンフレットには、「求める会」の基本方針が記されている。

 良い食べ物を手に入れるためには、生産者を支えることが大切であること、そのために共同購入を基本としていること、共同購入の四原則として、①委託の関係を確認する。誰が作り、誰が食べているのかが分かるような人間関係の回復。 ②安全に対する対価を認める。安全なものを作るには、手間と時間がかかる。その費用を生産者だけでなく、消費者も負担する。③負担は平等に。それぞれの事情に合わせながら、できることを分担する。④運動の輪を広げよう。小さな利益集団に陥らないよう、一人ひとりが運動を広げる努力をする。――をあげている。

 設立40周年を記念して、いろいろな行事が行われるなかで、運動の意味を考えさせられる機会が何回かあった。

 いま、「求める会」が抱える一番の問題は会員の減少と、それに伴う赤字の増大である。その主な原因は高齢化。家族に安全な食べ物を食べさせたいと運動に参加した子育て世代は、今、平均年齢が65、6歳。夫婦二人暮らしか、一人暮らしになって、野菜や肉の消費量は減るばかりである。

 重い米や野菜をステーションに取りに行けない高齢者も増え、退会者は後を絶たない。10人、20人といたグループも、今は、1人グループのほうが多い。

 お金さえ出せば、有機農産物や安全な加工食品が玄関先に届く時代になり、何らかの負担を担わなければならない、「求める会」のような運動に、新しい会員はなかなか入ってこない。

 毎年、全体会や総会で、会員減少にどうやって歯止めをかけるか、赤字解消のための配送費値上げ、会費値上げが議題になるが、根本的な解決策は会員を増やす以外になく、かといって若い会員層をどうやって増やすか、なかなか答えが見つからない。

 個々の問題を考えていると、今は何とかなっても、近い将来、「求める会」は消滅するのではという、悲観的な気分に襲われることもある。事実、解散に追い込まれた消費者グループもある。

 40周年記念総会で、「求める会」の設立メンバーの一人であり、会の理論的リーダーでもある、神戸大名誉教授の保田茂先生が、40年を振り返る記念講演を行った。それを聞いているうち、大事なことを脇に追いやっていたために、マイナス志向になっていたことに気付いた。保田先生は言う。

 「公害問題がピークに達した1970年代に『求める会』はスタートした。当時の消費者運動は、いかに安い食品を共同購入するかが目的で、『求める会』だけが、環境の保全、食の安全、そのために生産者を支える提携を理想に掲げた。

 新聞が『価格より安全、風変わりな消費者運動』と書いたほどだ。しかし、運動が当たり前になってくると、初めに掲げた理想が希薄になってきている。市島町の有機農業の生産現場も広がっていかない。会員の顔触れは変わらず、若い人がいない。

 生産者の写真が野菜に貼ってあるから、顔の見える関係というのではないんですよ。もう一度、夢と新たな理想を掲げて、次の運動に取りかかってほしい」

 「理想を掲げる」という言葉に共感を覚えたのが、自分でも意外だった。「そうだ、運動で大事なことは、理想を掲げ、その実現に向かって歩き続けることだ。行き詰まったなら、その理想に立ち返って考える。そうすると、やるべきことは見えてくるのではないか」というようなことを、ぼんやりとではあるが、思った。

 地域ごとに会員が集まって交流したり、その時々の問題を学習する「地域集会」が先日開かれた。宝塚地域には、設立直後から、もしくは30年以上、運動に携わっている会員が多い。40周年記念行事について意見を述べ合う中で、それぞれの会への思いが語られた。

 入会のきっかけはさまざまだが、なぜ長い間続いたのか、その理由に共通していたのは「会の考え方と、自分の生き方が合っていた」「何回もやめようと思ったが、そのたびに仲間が続けられるよう助け船を出してくれた」「会がなかったら、私はどうしていただろうと思う」というような内容だった。

 これは、求める会の目的と重なる。私が何度も退会しようとして、やめなかったのも同じ理由である。

 求める会が掲げた理想、「環境の保全」「食の安全」、そのために「生産者を支える」という理想は、今もあせるどころか、まずます必要とされる状況がある。

 スタートした時の環境破壊は、まだ目に見える形を取っていたが、放射能汚染、遺伝子組み換え汚染は目に見えないばかりか、食べ物を取り巻く環境は、グローバリズムの広がりによって、誰が作り、誰が食べているか、ますます分からなくなってきている。

 40年前に「求める会」が掲げた理想をもう一度思い出し、理想実現のために、何をすべきか考え、できることからやっていく。そうすることで、希望を見いだせるのではないか。

 そして、「求める会」の活動は、他のいろいろな市民運動と同様、今形骸化しつつある、民主主義を育てるための、学習の場でもあるのでないかと思うようになった。