空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

いろんなことがありまして……

2011-07-25 21:11:25 | 日記・エッセイ・コラム

 この間、いろいろなことがあって、ブログどころではなかった。

 まず、腰を痛めた。自宅に帰って、ベランダの植物たちに水をやり、虫に食われ放題になっていたバジルの虫取りをやっていたら、立ち上がったとたんに腰を伸ばすことができなくなった。

 ぎっくり腰ではない。とにかく前にも後ろにも、腰を動かすことができない。一晩中我慢して、いつもかかっている鍼灸院に行くと、身体がすごく冷えていると言われた。

 思い当たることは、数日前に、実家に帰る電車の冷房が効き過ぎていたうえに、天井から強い風が吹き付ける席だったので、冷凍庫なみに寒かったことだ。その後に、バジルの虫取りで前かがみの不自然な姿勢を長時間続けたのがいけなかったのか。

 鍼灸院にしばらく通って腰痛がましになったころ、首がかゆくて鏡を見たら、じんましん様の湿疹が広がっていた。喘息に苦しめられて以来、通っている漢方医に行ったら、昨年も同じころにじんましん様の湿疹で受診していて、軟膏と煎じ薬を処方してもらった。

 鍼灸院の先生によると、夏至を過ぎると天地の気が陽から陰に転じ、身体の気の流れのバランスが崩れやすい、世間が暑くなる夏至以降こそ、身体を冷やしてはいけない、冷たいものや、冷房などで身体を冷やさないようにしなければいけないそうだ。

 体調がようやく戻りつつあった先週火曜日、デイサービスから帰ってきて相撲を見ていた母が、気分が悪いと言い出し、嘔吐、痙攣を繰り返した。救急車の中では、体温が38.9℃、血圧も180近くあった。病院に着くと、当直のベテランらしい医者が診てくれて、胆のう炎か、尿路感染が考えられるという。

 病院で測ったら、熱も血圧も正常に戻っていたが、検査と様子を見るため入院。夜間の看護師が少ないため、歩行困難で認知症がある母の安全を保証できないので、夜には家族が付き添うという条件だった。

 実家に戻り、入院の準備をした。留守を守る父親が心配だったが、義妹が来てくれていて、夕食を食べさせてくれていた。父にがんばって留守番するよう言い含めて、その夜、母のベッドの横に簡易ベッドを用意してもらい横になったが、病室は高齢者ばかりで、一晩中うめき声やいびき、大声が飛び交い、点滴の管をつけたままの母を、ポータブル・トイレに座らせるたびに介助しなければいけないので、眠るどころではない。そのうえ、天井から冷房の風が吹き付ける窓際なので、また腰痛が悪化しないか心配だった。

 病院には3晩泊まった。早朝に帰宅して父に朝食を食べさせ、病院に着替えや足りないものを持って行き、また帰宅して父に夕食を食べさせた後、また病院へ、ということを繰り返した。

 母が入院中、母のために来てくれていたヘルパーさんも来てくれなくなり、留守中の父を見守ってくれる人はいない。私の身体も、本調子ではないので、疲れはたまっていくばかり。

 とうとう、妹に電話をかけ「なんで私ばかりがしなくてはならないの。兄弟は口先だけで誰も助けてくれない」と切れまくった。

 妹はいつものわたしの発作には驚きもせず、冷静そのもので、付添婦さんを頼んだら、と言った。

 看護師さんに相談したら、家政婦会を紹介してくれて、とにかく夜間だけ付き添ってくれるよう頼んだ。私より年上の付添婦さんで、この病院での付添の経験があり、何でもよく知っていた。

 今週末、妹や、弟夫婦が交代してくれて、久しぶりに我が家に帰り、英気を養うことができた。

 次々と起こる現象に振り回されるばかりで、修行が足りないどころか、何にもわかっていなかったわが身を恥じるばかりである。


Never Let Me Go―わたしを離さないで

2011-07-05 21:16:22 | 映画

 カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を映画化したNever Let Me Goを観た。

 原作が文学作品の場合、原作の方がいいとか、映画の方がいいとか比較されがちだ。

 たとえば、タルコフスキーの「ソラリス」は、わたしは、断然、映画の方がいいと思っている。

 しかし、今回の場合、小説は小説として読み、映画は映画として観た方がいいと思う。

 カズオ・イシグロ自身がエグゼクティブ・プロデューサーとして映画製作に参加しているし、マーク・ロマネク監督はカズオ・イシグロの愛読者で、作者を敬愛しているので、ほぼ原作に沿った内容になっている。

 ただ、小説の題名にもなっていて、ストーリーの重要な伏線となっているNever let Me Goのカセットテープの扱いが、映画では全然違う。

 このテープを巡る話は、主人公の3人の若者の関係を微妙に変化させていく重要なディテールになっていて、小説の中でもわたしの好きな部分なので、少し肩透かしを食った感じがした。

 けれども、語り手で主人公のキャシーを演じたキャリー・マリガンがあまりにもすばらしく、彼女の静かな存在感がこの映画を成り立たせていると言っても過言ではないだろう。

 キャシーの幼なじみ、ルース役のキーラ・ナイトレイ、トミー役のアンドリュー・ガーフィールドともども、臓器提供のために育てられたクローンというあり得ない状況で生きて行かなければいけない若者を、本当によく演じていた。

 小説では読者の想像に委ねられる風景や登場人物を、映画では実際の風景として映し出し、人間として肉付けし、演じなければいけない。

 原作はリアリズム小説ではない。カズオ・イシグロの作品の特徴である、語り手の記憶が、いくつもの重層的な物語を物語るという、複雑な構造になっている。

 映画化するにあたって、難しい点がたくさんあったと思う。そういう意味で、この映画は、監督も、カメラも、演技者も、よくやったなあと思う。

 ただし、わたしは原作を読んでいるので納得できたが、原作を読んでいない観客は、この映画をどのように観るだろうか。

 映画の最後に、ルースもトミーも、臓器提供を2回、3回と繰り返して終了して(死んで)しまい、自分も提供の通知を受けたキャシーが、「提供者の私たちと提供を受ける人間の間に違いがあるだろうか。どちらも、いつかは終了が来る」と言う場面がある。

 作者も、「臓器提供のクローンという状況は特別なものではない。すべての人間にあてはまる物語なのだ」と語っている。

 そのことを、キャシーのセリフで語らせたと思うのだが、このセリフが原作にあったかどうか忘れてしまったけれども、映画として、ちょっと直接的表現すぎるなあ。キャシーやルースやトミーの生きた軌跡が十分に、作者の意図を伝えていると思うのだが。

 しかし、静寂さに満ちた風景の中に、3人の若者の人生を美しく描いた、いい映画である。