徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

書の国宝 墨跡 @五島美術館(その2)

2006-07-12 | 
書の国宝 墨跡
五島美術館
2006年6月17日から7月23日

大慧派(大慧宗杲(1089-1163)を祖とする)
  • 重文 東陽徳輝(とうようてひ)墨跡 与笑隠大訴尺牘 1329頃 五島美術館;旧松平不昧所蔵、水仙を空刷りした蝋箋。
  • 重文 楚石梵 与椿庭海寿送別偈;五島美術館;入元僧の椿庭海寿に与えた送別偈 

    破庵派(破庵祖先(1136-1211)を祖とする)
    無準師範(ぶしゅんしばん)(1177~1249)は、中国、南宋の禅僧。明州の清涼山、育王山などを歴住し、五山第一位の径山(キンザン)萬寿寺の住持にのぼった。来朝僧の無学祖元や画僧牧谿(モッケイ)は無準師範の門弟で、 中国のみならず日本でも広く尊敬を集めた高僧である。(「承天閣美術館」の無準師範頂相の説明から。)
  • 国宝 無準師範墨蹟 与聖一国師尺牘(板渡墨蹟) 東京国立博物館蔵;(画像は東博へのSRCリンク)

    東福寺開山の聖一国師(円爾弁円)が,その師無準師範(1177-1249)のもとを辞して帰国した翌年の淳祐2年2月,無準の住する径山万寿寺が炎上の厄にあった。博多に承天寺を創建しその住持となっていた円爾は径山炎上の報をうけると,当時日宋貿易に従事していた豪商謝国明の協力を得て,復興資材として板千枚を寄進した。謹直な趣を示す本幅はそれに対する無準師範の礼状で,その因縁から「板渡しの墨蹟」と呼ばれ世に珍重されている。松平不昧公旧蔵品
  • 重文 無準師範墨蹟 「帰雲」MOA美術館蔵:古田織部、細川三斎、徳川家、団家旧蔵
  • 重文 無準師範墨蹟 禅院牌字「巡堂」 常盤山文庫;牌字とは告知板用の文字。無準師範から円爾に送られたとされる。普門院伝来、益田鈍翁旧蔵
  • 無準師範墨蹟 「茶入」 五島美術館;普門院伝来。牌字。

  • 重文 剱門妙深墨跡 与聖一国師尺牘 常盤山文庫:円爾あて尺牘。
  • 重文 希叟紹雲墨跡 達磨祖師賛 五島美術館;希叟紹雲は、無準師範の法嗣。

  • 国宝 馮子振墨蹟 易元吉画跋 常盤山文庫蔵;馮子振は元代の文人。元時代,北宋の画人易元吉の描いた草虫図鑑に題した賛詞と思われる。利休が絶賛した。とのこと。

    中峰明本:元代の臨済宗の僧。浙江省銭塘の人。俗姓孫氏、号は中峰。天目山の高峰原妙に就いてその法を嗣ぐ。終生官寺に住まず、自ら「幻住」と称して遊歴と隠遁の生活を送る。その間多くの雲衲を接化し、江南の古仏と呼ばれた。仁宗皇帝より仏慈円照広慧禅師号を賜わる。至治3年(1323)寂、61才。智覚禅師・普応国師と謚号される。(思文閣美術人名辞典)
  • 重文 中峰明本墨蹟 与救侍者警策 常盤山文庫蔵;笹の葉を思わせるような独特な抑揚と肥痩を持つと評される。警策とは、修験者を励ます文。

  • 虎関師錬墨跡 花屋号 三井記念美術館;
     虎関師錬は、一山一寧の下に参じる。南禅寺十五世。黄山谷(黄庭堅)の影響を受ける。本書は師錬の傑作。数人の人物像と草花図の蝋箋を縦に利用。「花」の大書につづき、縦二行に偈を表す。中央に花屋号の題。虎関朱文印。
    本展覧会でも一押しの美的センスのある作品。美しいです。

    無学祖元(1226 - 1286):鎌倉時代に宋から来日した。仏光派の祖、鎌倉円覚寺の開山。号は無学、字(あざな)は祖元。諡(オクリナ)は仏光禅師。円満常照国師と追諡(ツイシ)される。明州(浙江省)の人。径山(キンザン)の無準師範に師事し、その法を嗣ぐ。天童山で環渓惟一(イイツ)の教化を助けていたが、北条時宗(ホウジョウトキムネ)が使者無及徳詮・宗英(ソウエイ)を遣わして名僧を招き、これに環渓の推挙を得て応じ、1279年(弘安2)来日した。鎌倉の建長寺に住し、1282年円覚寺を開創。北条時宗をはじめ、鎌倉武士などの真剣な参禅を受け、その教化に尽力し、精神的に多大の影響を与えた。法嗣に高峰顕日・規庵祖円らを出し、一派を仏光派と称する。五山派の主流をなす夢窓疎石は高峰の法嗣である。(承天閣美術館より)
  • 国宝 無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈頌 京都・相国寺蔵;(画像はSRCリンク)


    祖元来朝の年十月、かつて中国経山無準禅師のもとで同門であった一翁院豪が訪ねて来て、祖元と問答をかわしたが、その時の実に堂々とした答えに祖元は大いに喜び、そのありさまを普く大衆に告知するために書かれたのがこの偈語で、品格においても、気力の点においてもまさに抜群の名幅である。
  • 重文 無学祖元墨蹟 重陽頌;常盤山文庫;益田鈍翁旧蔵。
      無学祖元は、1279年に来日した鎌倉の円覚寺開山した来朝僧。重陽頌はその年の重陽の節句のことを述べた頌という。すこし不安に満ちた筆致を感じる。

    高峰 顕日(1241 - 1316):鎌倉時代の臨済宗の僧。仏国派の祖で、南浦紹明とともに天下の二甘露門と称された禅僧。号は高峰。別に密道と称する。諡号(シゴウ)は仏国禅師・応供広済国師。後嵯峨天皇の皇子。東福寺で円爾弁円や建長寺で兀庵(ゴッタン)普寧に参じ、下野那須(シモツケナス)の雲巌寺を開創。無学祖元の来日を知り、建長寺で参じ法を嗣いだ。また一山一寧にも参じる。鎌倉の浄妙寺・万寿寺・浄智寺を歴住し、建長寺の住持となり、晩年は雲巌寺に帰る。参禅を請う学徒は多く、東国に禅宗を宣揚し、法嗣に太平妙準・夢窓疎石・天岸慧広らを出して門派を形成し、夢窓とその派はのちの五山派を代表する勢力となった。(承天閣美術館より)
  • 重文 無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 個人蔵;

    夢窓疎石(1275 - 1351):伊勢の人。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺(リンセンジ)を開いた。歴応二年(1339)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設した。夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄(ムキョクシゲン)、春屋妙葩(シュンオクミョウハ)、義堂周信、絶海中津(ゼッカイチュウシン)、龍湫周沢(リュウシュウシュウタク)、などの禅傑が輩出し、後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷(ゲンニュウ)、仏統、大円国師とし諡号(シゴウ)され、「七朝帝師」と称され尊崇された。(承天閣美術館より)
  • 重文 夢窓疎石墨蹟 偈頌 石川・金沢市立中村記念美術館蔵;(画像はSRCリンク)


    さりげない春の叙景と重ねながら修行上の心構えを述べた七言絶句です。「己丑貞和歳余前二日」の年紀より、貞和5年12月28日、作者が74歳のときの筆と知ることができます。穏やかな中にも骨格がしっかりとした格調高い書風です。夢窓疎石(1275~1351)は、鎌倉末~室町初期の臨済宗の僧です。足利尊氏から帰依をうけて、天竜寺を開きました。

    清拙正澄:中国元代前期の臨済宗の僧(1274~1339)鎌倉末期の嘉暦元年(1326)53歳で中国の元から来朝し、鎌倉の建長・浄智・円覚寺、京都の建仁・南禅寺の住持を歴任し、暦応2年(1339)65歳で示寂するまでの12年余り、日本禅宗の興隆に尽力した。
  • 重文 清拙正澄墨蹟 与秀山元中別称偈 福岡市美術館(松永コレクション);入元僧に与えた別称偈
  •    清拙正澄墨蹟 聖一国師墨跡跋 五島美術館
  • 国宝 清拙正澄墨蹟 遺偈(棺割墨蹟) 神奈川・常盤山文庫蔵;(画像は大阪展へのSRCリンク)
  • コメント
    • X
    • Facebookでシェアする
    • はてなブックマークに追加する
    • LINEでシェアする