4ヶ月半にわたり、練りに練った2泊3日+車中泊1の「秋の茶の湯旅」プラン。
もっとも、どんなに計画を立てたところで予定外のことがあるもんで。
それも想定のうちに入れて計画に立てているんだけど、
それでも“想定外”のことは起こりうる。
今回も、、、でも、今回はラッキーな“想定外”。
2泊のうち、1泊目は祇園の隣の宮川町に宿泊、2泊目は西陣に宿をとった。
いずれも朝は6時起き、身支度をしてから周辺の散歩に出た。
宮川町では祇園から高台寺、建仁寺、あじき路地のあたりを歩いた。
「小路」と「ろーじ」、「図子」を探究するお散歩。
西陣では北へ歩いて大徳寺境内を歩いた。
昼間の時間帯に塔頭を拝観する時間が取れなかったので
特別公開の時期でもないしねー。と、高をくくっていた。
お気に入りの高桐院へ同行者を案内しようとして、ふと立て看板が目に入った。
『孤篷庵 特別公開 9月18日(金)~10月4日(日)』
立ち止まって、看板を凝視して顔色が変わった私を見て、
同行者が「今日までだねー」。
しばし考えて、「すみません。今日の午前中の予定を変更してもいいですか」
で、見学することにした。
だってね、孤篷庵って、めったに公開しないんだよー。
私の把握する限りでは
1999年10月2日~11月28日
2000年4月29日~5月7日
2003年?
2011年10月23日~11月初旬。 ←当時の新聞記事に「8年ぶり」と記載あり。
2014年9月28日~10月9日
大徳寺内の特別公開は「冬の旅」など一斉キャンペーンを除くと
どうも公開のタイミングはまちまちみたい。
まぁ、私が孤篷庵の存在や茶室「忘筌」に関心を持つようになったのは
今から7年前、2008年に茶道文化検定の勉強を始めたのがキッカケなんだけどサ
たしか、2011年は「日程が合わない」と悔しがったのを覚えている。
去年も10月は都合がつかなかった。(てか、特別公開そのものを把握していなかったと思う)
今回に至っては、寺院の特別拝観サイトのチェックすらしなかった。
ほんと、忘れた頃になんとやら、、、とはよく言ったもので。
それにこういう機会に反応できるようになったのも、茶道文化検定を受検した効果なんでしょうねぇ。
かくて、宿をチェックアウトした私たちは引き上げの荷物を持ってえっちらおっちら千本通を北上。
ゆるーい登り坂も重い荷物を持った身にはこたえた。
まるで露地へ誘うような敷石の道の角を曲がり、孤篷庵の敷地の塀に沿って東へ。
グーンと下がる坂道がいい感じ。
そして、孤篷庵の門前へ。たしか、9:40くらいだったかと思う。
開門は9:30だから、わりと早い時間帯の到着だったにもかかわらず、
もう人がどんどん中に入っていく~。
拝観料と引き換えに受け取った番号札は「28」。
「よかったわ~。30人ごとに区切って入っていただいてるんですぅ~」と、ボランティアガイドさん。
つまり、あと少し遅れたら順番待ちで時間をロスする羽目になったということで
立て看板の発見といい、「早起きは三文の得」ですなぁ。
大きなカバンとリュックサックは預けて、縁側へ。
まずは、手前のお部屋から。
中は撮影禁止のため、記憶に頼って書いていくと~
まず南に向いた縁側。
手前に低い生垣があって、その向こうに赤土が広がり、
さらに生垣が2列。高低さがついていて、片方が水平線、だったかな。
枯山水の場合、白い石が敷き詰められているのが定番だけど、あえて赤土。
これは孤篷庵を開いた小堀遠州がこの地の赤い土を見て、「このままでよい」と仰った、とか。
生垣を越えた向こう側は林になっていて、そこそこ背の高い木々が植わっていて景色を見通すことはできないけれど、
これも家々が立ち並ぶようになった最近になってからのことらしい。
昔は遠景が見合わせ、東南の船岡山を海に浮かぶ舟に見立てた借景が楽しめたらしい。
2列の生垣の左手(つまり東側)には編笠門。
露地なんですねぇ。
さらに奥に進むと縁台から庭を流れる趣向になっていた。
近江八景の庭。
舟に乗った気分で庭を眺められる工夫。
そして、その先が書院茶室「忘筌」。
上から半分下りてきた障子、灯篭、手水鉢~
おぉ~。これかぁ。。。という感じ。
突然のことで、ちゃんと予習して見学できなかったのが残念だったけど、
ボランティアガイドさんの解説が詳しくて、よかった。
そもそも、建てられてから150年後に焼失したことや
遠州候が詳しい図面を遺していたことで、焼失を惜しんだ松平不昧公が忠実に(?)再建されたことなど
初めて知った。
そして、特別公開でもあまり公開されることのない、奥の直入軒と山雲床も見学できた。
(遠州候のプライベートルームだったところ)
床の間の壁面が「狩野探幽による~」という解説に「ん?」
ガイドさんに質問。
「焼失したのに、なぜ探幽の壁画があるんですかぁ」。
すると、「これは貼り付け壁なんです」
つまり、床の間の壁に壁画のように貼り付けてある、と。
そして引っ剥がせるのだ、と。
よって、火災の時に引っ剥がして巻いて、担いで逃げた、ということ。
だから無事で、再興後に再び貼り付けられたということで。
いやはや、昔の人の知恵って、すばらしい。
というわけで、堪能して満足。
ちなみに、今後しばらく公開の予定はないとのこと。
来てよかった~
外に出ると、結構な行列が。
皆さん、情報に敏感ですねぇ。
千本通から坂を下ってきた道をさらに下り、今宮神社の参道へ。
今宮神社の鳥居がわりと近い。
あぶり餅、また食べたい~ でも、もう時間がない。
後ろ髪を引かれる思いで南へ。北大路へと向かった。
で、206系統のバスで京都駅へ直行。
正午前に京都を発つ高速バスの昼間便で帰ってきたのであった。
※順番が後ろからになってスミマセン。
もっとも、どんなに計画を立てたところで予定外のことがあるもんで。
それも想定のうちに入れて計画に立てているんだけど、
それでも“想定外”のことは起こりうる。
今回も、、、でも、今回はラッキーな“想定外”。
2泊のうち、1泊目は祇園の隣の宮川町に宿泊、2泊目は西陣に宿をとった。
いずれも朝は6時起き、身支度をしてから周辺の散歩に出た。
宮川町では祇園から高台寺、建仁寺、あじき路地のあたりを歩いた。
「小路」と「ろーじ」、「図子」を探究するお散歩。
西陣では北へ歩いて大徳寺境内を歩いた。
昼間の時間帯に塔頭を拝観する時間が取れなかったので
特別公開の時期でもないしねー。と、高をくくっていた。
お気に入りの高桐院へ同行者を案内しようとして、ふと立て看板が目に入った。
『孤篷庵 特別公開 9月18日(金)~10月4日(日)』
立ち止まって、看板を凝視して顔色が変わった私を見て、
同行者が「今日までだねー」。
しばし考えて、「すみません。今日の午前中の予定を変更してもいいですか」
で、見学することにした。
だってね、孤篷庵って、めったに公開しないんだよー。
私の把握する限りでは
1999年10月2日~11月28日
2000年4月29日~5月7日
2003年?
2011年10月23日~11月初旬。 ←当時の新聞記事に「8年ぶり」と記載あり。
2014年9月28日~10月9日
大徳寺内の特別公開は「冬の旅」など一斉キャンペーンを除くと
どうも公開のタイミングはまちまちみたい。
まぁ、私が孤篷庵の存在や茶室「忘筌」に関心を持つようになったのは
今から7年前、2008年に茶道文化検定の勉強を始めたのがキッカケなんだけどサ
たしか、2011年は「日程が合わない」と悔しがったのを覚えている。
去年も10月は都合がつかなかった。(てか、特別公開そのものを把握していなかったと思う)
今回に至っては、寺院の特別拝観サイトのチェックすらしなかった。
ほんと、忘れた頃になんとやら、、、とはよく言ったもので。
それにこういう機会に反応できるようになったのも、茶道文化検定を受検した効果なんでしょうねぇ。
かくて、宿をチェックアウトした私たちは引き上げの荷物を持ってえっちらおっちら千本通を北上。
ゆるーい登り坂も重い荷物を持った身にはこたえた。
まるで露地へ誘うような敷石の道の角を曲がり、孤篷庵の敷地の塀に沿って東へ。
グーンと下がる坂道がいい感じ。
そして、孤篷庵の門前へ。たしか、9:40くらいだったかと思う。
開門は9:30だから、わりと早い時間帯の到着だったにもかかわらず、
もう人がどんどん中に入っていく~。
拝観料と引き換えに受け取った番号札は「28」。
「よかったわ~。30人ごとに区切って入っていただいてるんですぅ~」と、ボランティアガイドさん。
つまり、あと少し遅れたら順番待ちで時間をロスする羽目になったということで
立て看板の発見といい、「早起きは三文の得」ですなぁ。
大きなカバンとリュックサックは預けて、縁側へ。
まずは、手前のお部屋から。
中は撮影禁止のため、記憶に頼って書いていくと~
まず南に向いた縁側。
手前に低い生垣があって、その向こうに赤土が広がり、
さらに生垣が2列。高低さがついていて、片方が水平線、だったかな。
枯山水の場合、白い石が敷き詰められているのが定番だけど、あえて赤土。
これは孤篷庵を開いた小堀遠州がこの地の赤い土を見て、「このままでよい」と仰った、とか。
生垣を越えた向こう側は林になっていて、そこそこ背の高い木々が植わっていて景色を見通すことはできないけれど、
これも家々が立ち並ぶようになった最近になってからのことらしい。
昔は遠景が見合わせ、東南の船岡山を海に浮かぶ舟に見立てた借景が楽しめたらしい。
2列の生垣の左手(つまり東側)には編笠門。
露地なんですねぇ。
さらに奥に進むと縁台から庭を流れる趣向になっていた。
近江八景の庭。
舟に乗った気分で庭を眺められる工夫。
そして、その先が書院茶室「忘筌」。
上から半分下りてきた障子、灯篭、手水鉢~
おぉ~。これかぁ。。。という感じ。
突然のことで、ちゃんと予習して見学できなかったのが残念だったけど、
ボランティアガイドさんの解説が詳しくて、よかった。
そもそも、建てられてから150年後に焼失したことや
遠州候が詳しい図面を遺していたことで、焼失を惜しんだ松平不昧公が忠実に(?)再建されたことなど
初めて知った。
そして、特別公開でもあまり公開されることのない、奥の直入軒と山雲床も見学できた。
(遠州候のプライベートルームだったところ)
床の間の壁面が「狩野探幽による~」という解説に「ん?」
ガイドさんに質問。
「焼失したのに、なぜ探幽の壁画があるんですかぁ」。
すると、「これは貼り付け壁なんです」
つまり、床の間の壁に壁画のように貼り付けてある、と。
そして引っ剥がせるのだ、と。
よって、火災の時に引っ剥がして巻いて、担いで逃げた、ということ。
だから無事で、再興後に再び貼り付けられたということで。
いやはや、昔の人の知恵って、すばらしい。
というわけで、堪能して満足。
ちなみに、今後しばらく公開の予定はないとのこと。
来てよかった~
外に出ると、結構な行列が。
皆さん、情報に敏感ですねぇ。
千本通から坂を下ってきた道をさらに下り、今宮神社の参道へ。
今宮神社の鳥居がわりと近い。
あぶり餅、また食べたい~ でも、もう時間がない。
後ろ髪を引かれる思いで南へ。北大路へと向かった。
で、206系統のバスで京都駅へ直行。
正午前に京都を発つ高速バスの昼間便で帰ってきたのであった。
※順番が後ろからになってスミマセン。
前泊まったとこです。
前回は着いた途端にバタンキューだったので。