本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

明智光秀の首塚の歴史捜査

2012年08月09日 | 歴史捜査レポート
 明智光秀の首塚は京都亀岡市谷性寺(こくしょうじ)京都東山三条白川筋(写真)との二か所にあります。首が二つあるわけではないので、そのいわれが前々から気になっていました。
 先日、谷性寺にお参りした際にいただいたお寺のパンフレットには次のようにいわれが書かれています。
 『天正十年(一五八二)光秀公、秀吉の軍と山崎の戦いで敗れ、坂本城に向かう途中山科小栗栖に於いて土民に襲わる。
 溝尾庄兵衛、公の介錯をなし首を鞍覆に包んで近臣に托し、生前公の尊崇のあつかった当寺不動明王のそばに手厚く葬るように命じて坂本にはしる。幕末の志士「栄」なる人、公の怨念を鎮めんがため安政二年(一八五五)七月「光秀公首塚」の碑を建て供養す


 この文によれば前半に書かれている光秀の首が後半の首塚に埋葬されたわけではないようです。首塚は幕末の志士が鎮魂のために建てた供養塔であって、光秀の首を埋葬した文字通りの首塚ではないといえます。

 一方、京都東山三条白川筋の光秀首塚は近所の和菓子屋「餅寅」さんが代々管理しています。
 ★ 餅寅さんの挑戦(京町屋の宿と光秀饅頭)

 8年前に訪問して頂いたパンフレットには次のように書かれています。
 この地は昔の刑場・粟田口(あわたぐち)。『兼見卿記』『言経卿記』は、首塚が築かれ明智方の者の首三千ほどが埋められたことを伝え、神沢貞幹『翁草(おきなぐさ)』は江戸時代の明和八年(一七七一)春頃、能楽師の明田理右エ門が明智の子孫として首塚のあった家をもらいうけたと伝えている

 この記述を点検してみましょう。粟田口は刑場ではなく、「京の七口」といわれる街道の出入り口のひとつで、光秀と斉藤利三の死骸が磔にされて曝された場所です。
 『兼見卿記』の天正十年六月二十三日の記事に「光秀と利三の首塚を粟田口の東に築いた」と書かれています。
 『言経卿記』の天正十年七月二日の記事には「粟田口に去る(空白)日に、光秀と利三の死骸が磔に懸けられ、その他に首三千余が曝された。同所に首塚が築かれた」と書かれています。
 両書の記述を総合してみると、首塚は三千人分を一か所に築かれたのではなく、光秀と利三の首塚は独立して築かれたように読めます。
 『翁草』には「明和八年春頃、粟田口の東にある光秀の墓のある屋敷を光秀子孫の能役者 笛 明田理右衛門が譲り受けた」ことが書かれています。首塚と墓の違いがありますが、「粟田口の東」という記述は共通しており、『兼見卿記』に書かれている首塚と同じものと考えられます。
 神沢貞幹は博識の人らしく、室町末期から江戸中期までの二百年の様々な事項を『翁草』前後編各百巻にまとめています。その多くは他書からの引用や伝聞のようで、書かれていることに史実としての信憑性はあまりありません。
 ただし、前編は明和九年(一七七二)に完成させ、後編もその後に完成させたようなので、明和八年の明田理右衛門の記事は同時代の出来事であり、信憑性は高いといえます。また、京都町奉行所与力を勤めたことがあるとのことなので、このような情報の入手もしやすかったと思われます。
 
 以上、述べてきたところをまとめると、「京都東山三条白川筋の光秀首塚は光秀の首が埋葬されたものとして本物」といえます。もちろん、粟田口で磔にされた光秀の首が本物であったという前提での話ですが。
 さて、『翁草』のこの記事には私のルーツを探る重要な情報が書かれています。
 「能役者 笛 明田理右衛門」です。
 私の高祖父(祖父の祖父)は津軽藩士で「能の笛の名手 明田鉄太郎」と伝えられています。
 二人はつながっているのではないでしょうか?
【2015年11月1日追記】 実はつながりました!!!
 >>> ルーツを辿る:先祖明智光秀への道

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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9 コメント

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もう一つ (k.のの口)
2012-08-10 09:27:02
明智さま、こんばんは。
京都には、もう一ヶ所、明智光秀の首塚がありますよ!
京都府宮津市の盛林寺です。
こちらは、粟田口で磔後にきた、首が埋葬されているそうですが、腐敗が・・・で謎ですね。
返信する
はじめまして。 (氷上丹波)
2012-08-10 10:16:59
初めて書かせていただきます。長岡京市に住んでおります。
さて、首塚の話が出ましたが、墓所の場所になりますと、
斉藤利三の墓所は、東山の金戒光明寺にあります。
この寺は、かの法然上人が最初に浄土宗を広めた地、ある
いは幕末には、新撰組発祥の地、京都守護職の本陣が有っ
た地で、旧会津藩士の墓が多くあることで有名です。
この他、「敦盛」で有名な熊谷直実の一族、山中鹿之助、
ご興味がお持ちしそうなところでは、春日の局、江の墓が
仲良く並んでいます。おまけに徳川忠長の墓も並んでいま
す。忠長の怨霊を春日の局と実母とで、抑えつけようと、
企図したのでしょうか。
光秀の墓は、ご存知の大津・西教寺、岐阜・明智町(祖母
の故郷です)、高野山・奥の院、亀岡・谷性寺などありま
すが、なんでまた数多有るのですかね?
光秀本人は、無宗教っぽいのですが、一族としての宗派
は何だったのでしょうか。
徳川幕府は宗教対策として、対キリスト教対策として始
めた寺請制度を戸籍制度としても運用したので、基本的
に他宗派への転宗を認めていなかったようなので、明智
さんもご自身の檀家寺を調べると面白い話が見つかるか
も知れません。
返信する
Unknown (明智憲三郎)
2012-08-10 17:29:37
 いろいろ情報ありがとうございます。
 首塚・胴塚・墓があちこちにあるのは、それだけ光秀を弔いたい人々がいたことの現れだと思います。ありがたいことです。本当にそこに光秀の遺骸が埋葬されているかどうかは問題ではないのでしょう。
 丹後の盛林寺はやはりガラシャさんのご縁のようです。本当に首が埋葬されたかは大いに疑問ですが。
http://sakuraoffice.com/seirinzi.html
 天台宗総本山西教寺は菩提寺ですので墓があるのは当然といえます。遺骸は埋葬されていないと思います。高野山・奥の院にはいろいろな人物の墓があり、いずれも遺骸はないとみられます。
 光秀は敬虔な仏教徒で西教寺を菩提寺としていたので天台宗です。妻・熙子の葬儀に列席したことが西教寺の過去帳に書かれており、(当時は武将が妻の葬儀に列席するしきたりがなかったので)「前代未聞のことなり」と過去帳に書かれていると西教寺の中島真瑞師が土岐会の総会でおっしゃっていました。「妻思い」という通説は本当だったようです。

 
返信する
ありがとうございます。 (氷上丹波)
2012-08-27 14:37:36
ご返信ありがとうございました。
西教寺の過去帳に光秀夫妻の記載が有ったのですね。
居城・坂本城にほど近い名刹ということで、便宜上、
滅亡した一族の冥福を祈るため、あるいは坂本の町
の復興の一助として、とばかり思っておりました。
そう言えば、無くなった部下の供養米の書状も同寺
に残っていましたね。
個人的なイメージとして、幕府の奉公衆の家柄だと
臨済宗と思い込んでいました。
土岐頼忠の過去帳が残る菩提寺の禅蔵寺は臨済宗で
すし、明智の支族であるといわれる沼田藩の最後の
藩主である土岐頼知の菩提寺は臨済宗である萬松山
東海寺ですので。
坂本の統治のために転宗したのですかね?
返信する
臨済宗と言えば (k.のの口)
2012-08-28 06:22:54
光秀公の伯父さんが、臨済宗妙心寺派の僧侶で、光秀公の末裔が住職と言う本徳寺も臨済宗でしたね。
 Webで調べたら、妻木氏の菩提寺が天台宗とか書いてあり、当時は夫婦別宗派(別姓など)が多かったと、見た記憶があますので、いったい如何なのか?私も知りたいと思っていたところですが、天台宗が有力なんでしょ~かね?
返信する
もう一つ (k.のの口)
2012-08-28 06:54:21
気になったので、Web検索してみました。

京都は周山の慈眼寺(曹洞宗)さんに、安置されている、光秀公の木像は、明治頃に、臨済宗観音山・密厳寺(廃寺)と言うお寺から来たそうです。
返信する
お久しぶりです。 (朝香)
2012-09-18 00:06:27
光秀公の首塚は今年の三月の末に、中学の卒業旅行で行かせて頂きました。
何度か迷いながらもやっとたどり着いたときには、あまりにもいろいろな感情が込み上げてしまい、思わず首塚の前で泣いてしまいました。。
近くの和菓子屋さんの「光秀饅頭」を買わせて頂きました。

また機会があればいつでも行かせて頂きたいものです。
返信する
餅寅さんと、桔梗の里 (近江商人門坂子孫)
2013-07-16 13:02:58
今年も、3輪トゥクトゥクで、6月30日曜日、三条白川の
餅寅さんへ、日本画の先生と行きました!
 明日の17水曜日は、亀岡桔梗の里に行きます!
ここの、首塚には、明治時代?の古い写真が、有りました!
 何時も京都に行く時は、伏見から光秀胴塚~蹴上の処刑場跡~とここの首塚に行く事が多いです!
ここは、気持ち悪く感じませんが、蹴上の処刑場と三条大橋の西側の豊臣秀次処刑の場所は、烏に出会う事が多くて気味悪い場所です!
返信する
歴史を感じます (明智憲三郎)
2013-07-18 22:47:17
 餅寅さんの女将さんは相変わらずお元気だったでしょうか。三百年も光秀首塚を守ってくださり、本当に頭が下がります。
 三条河原での秀次一族の処刑は凄惨を極めたので、私はとても足を運ぶ気になりません。秀次の子・側室ほか四十人近くが処刑されたのですから。彼らの埋葬された塚を畜生塚と称したのですから秀吉の怨念の深さを感じます。今でも烏なんですね。
返信する

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