この5月連休は自宅でゆっくり。やはり大震災の影響が精神的にあるようで家族皆の意見が一致しました。そうはいっても気晴らしにと、昨日は鎌倉小町通りまで行ってきました。鎌倉へはJR横須賀線で20分。今日のお目当ては左阿彌(さあみ)での雲水料理。
結婚して鎌倉に近い土地に移り住んで三十数年。実は一昨日が結婚記念日でした。三十歳代にはよく家族で鎌倉に通ったのですが、四十・五十歳代は仕事に没頭してしまって疎遠になり、ようやく五十歳後半になってボチボチ復帰してきました。
この頃のお気に入りは若宮大路を渡って本覚寺を通り抜けて少し行った妙本寺。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/49/44/3e861f8bd3313bfdb66b94db5cc3d0e0_s.jpg)
(結構来訪者の多い本覚寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1e/cc/df32cc88095d349b814b5dc32db7b7b7_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/38/36/be0050ffa2d841d185b79bd6d7195b4b_s.jpg)
(ほとんど人のいない妙本寺)
何故お気に入りかというと、鎌倉はどこへ行っても凄い人出ですが、ここは駅から近いにもかかわらず、いつ行ってもほとんど人がおらず、ゆっくりとした気分が味わえるからです。何故こんなに人が来ないかと不思議なのですが、比企一族の菩提寺だからかな?と思います。比企一族は二代将軍源頼家の時代に北条氏に一族が攻め滅ぼされています。そんな悲劇の場なので敬遠されているのでしょうか。それとも鎌倉市観光協会が宣伝していないからでしょうか。私は滅亡した先祖への思い入れがあるせいか、鎌倉というとどうしても源三代(頼朝・頼家・実朝)の悲劇や北条高時一族の悲惨な滅亡の印象が強く、「滅びの歴史」に思いを馳せてしまいます。
北条高時というと縁のある宝戒寺の萩が有名です。清楚な白い萩が何か滅びや鎮魂を感じさせます。
武家の時代、源平から戦国時代までは極めて過酷な時代でした。栄華を極めた氏族でさえ一瞬にして一族郎党滅亡です。そのような時代を生きた武将の思いはいかがなものであったか。現代の本能寺の変研究者の視点には当時の武将の緊張感や責任観とはかけ離れたものがあるように思います。光秀謀反の理由も随分軽いですね。信長にいじめられたから?飴玉が欲しいように天下が欲しかったから?発作的に?朝廷や誰かに唆されたから?一族郎党滅亡の危機に迫られていたという認識が全くありません。平氏、北条氏、大内氏、朝倉氏、浅井氏、松永久秀一族、荒木村重一族、武田氏、柴田勝家一族、織田信孝一族、羽柴秀次一族など悲惨な最期を遂げた一族は枚挙にいとまがありません。それが武家の時代だったのです。
さて、昨日は小町通をぶらついて煎餅屋であれこれ買い物をしたり、昔よく通った横丁のおいしい炉辺焼きのお店「田楽」の店構えを確かめたりした後、左阿彌でゆっくり昼食を味わいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/31/5a/e883a06f9b9a91d66a1a5f1085afe1e1_s.jpg)
(いろいろな種類のお煎餅を売っていました)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/66/1b/922dcc0d921f7ace3229b90cd9192d11_s.jpg)
(40年前に凛として「田楽」を仕切っていた女将さんがまだがんばっているようです)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/36/f2/0c199962c970593ce9426a5e9896fd50_s.jpg)
(小町通りの中ほどにある左阿彌は気付かずに通り過ぎてしまいそうな佇まい)
雪見障子越しに切り取られた小町通りの往来や卓上の藤の花の色と香。
雲水料理と過ぎ行く時間を楽しむ。
普段のせっかちな私にはそぐわない落ち着いた時空にしばし浸っておりました。
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結婚して鎌倉に近い土地に移り住んで三十数年。実は一昨日が結婚記念日でした。三十歳代にはよく家族で鎌倉に通ったのですが、四十・五十歳代は仕事に没頭してしまって疎遠になり、ようやく五十歳後半になってボチボチ復帰してきました。
この頃のお気に入りは若宮大路を渡って本覚寺を通り抜けて少し行った妙本寺。
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(結構来訪者の多い本覚寺)
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(ほとんど人のいない妙本寺)
何故お気に入りかというと、鎌倉はどこへ行っても凄い人出ですが、ここは駅から近いにもかかわらず、いつ行ってもほとんど人がおらず、ゆっくりとした気分が味わえるからです。何故こんなに人が来ないかと不思議なのですが、比企一族の菩提寺だからかな?と思います。比企一族は二代将軍源頼家の時代に北条氏に一族が攻め滅ぼされています。そんな悲劇の場なので敬遠されているのでしょうか。それとも鎌倉市観光協会が宣伝していないからでしょうか。私は滅亡した先祖への思い入れがあるせいか、鎌倉というとどうしても源三代(頼朝・頼家・実朝)の悲劇や北条高時一族の悲惨な滅亡の印象が強く、「滅びの歴史」に思いを馳せてしまいます。
北条高時というと縁のある宝戒寺の萩が有名です。清楚な白い萩が何か滅びや鎮魂を感じさせます。
武家の時代、源平から戦国時代までは極めて過酷な時代でした。栄華を極めた氏族でさえ一瞬にして一族郎党滅亡です。そのような時代を生きた武将の思いはいかがなものであったか。現代の本能寺の変研究者の視点には当時の武将の緊張感や責任観とはかけ離れたものがあるように思います。光秀謀反の理由も随分軽いですね。信長にいじめられたから?飴玉が欲しいように天下が欲しかったから?発作的に?朝廷や誰かに唆されたから?一族郎党滅亡の危機に迫られていたという認識が全くありません。平氏、北条氏、大内氏、朝倉氏、浅井氏、松永久秀一族、荒木村重一族、武田氏、柴田勝家一族、織田信孝一族、羽柴秀次一族など悲惨な最期を遂げた一族は枚挙にいとまがありません。それが武家の時代だったのです。
さて、昨日は小町通をぶらついて煎餅屋であれこれ買い物をしたり、昔よく通った横丁のおいしい炉辺焼きのお店「田楽」の店構えを確かめたりした後、左阿彌でゆっくり昼食を味わいました。
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(いろいろな種類のお煎餅を売っていました)
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(40年前に凛として「田楽」を仕切っていた女将さんがまだがんばっているようです)
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(小町通りの中ほどにある左阿彌は気付かずに通り過ぎてしまいそうな佇まい)
雪見障子越しに切り取られた小町通りの往来や卓上の藤の花の色と香。
雲水料理と過ぎ行く時間を楽しむ。
普段のせっかちな私にはそぐわない落ち着いた時空にしばし浸っておりました。
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