一昨日の大河ドラマ「江」は秀吉が待望の関白に策を弄して就任する話でした。その報告を真っ先に茶々に伝えに飛んできた秀吉に茶々が心を動かすというお話はもちろん脚本家の創作です。
それでは、関白宣下までの経緯はどこまでが史実だったでしょうか。
まず、関白に先立って征夷大将軍になろうとして足利義昭の猶子(ゆうし:名目上の子)になろうとして義昭に拒絶されたお話。これは後世の作り話で林羅山の本や『絵本太閤記』に書かれているようです。
関白になった経緯は史実通りに描かれていました。二条昭実と近衛信輔が関白の座を争った関白相論といわれる事件の調停策として、秀吉自身が近衛前久(このえ・さきひさ)の猶子となって関白に就任しました。天正十四年(1586年)のことですから本能寺の変からわずか4年での大出世といえます。
なお、足利義昭はその2年後の天正十六年(1588年)に亡命先の毛利氏のもとを離れて京都に帰還し、将軍職を辞任しました。その時点まではれっきとした征夷大将軍だったわけですし、名目上とはいえ足利幕府が存続していたことになります。
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それでは、関白宣下までの経緯はどこまでが史実だったでしょうか。
まず、関白に先立って征夷大将軍になろうとして足利義昭の猶子(ゆうし:名目上の子)になろうとして義昭に拒絶されたお話。これは後世の作り話で林羅山の本や『絵本太閤記』に書かれているようです。
関白になった経緯は史実通りに描かれていました。二条昭実と近衛信輔が関白の座を争った関白相論といわれる事件の調停策として、秀吉自身が近衛前久(このえ・さきひさ)の猶子となって関白に就任しました。天正十四年(1586年)のことですから本能寺の変からわずか4年での大出世といえます。
なお、足利義昭はその2年後の天正十六年(1588年)に亡命先の毛利氏のもとを離れて京都に帰還し、将軍職を辞任しました。その時点まではれっきとした征夷大将軍だったわけですし、名目上とはいえ足利幕府が存続していたことになります。
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