山崎の合戦について蓋然性の高い史実を捜査しています。調べてみますと、山崎の合戦の具体的な記述を残した史料は極めて少ないです。秀吉自身が書き残したものとイエズス会のフロイスがキリシタン大名の高山右近から入手したと思われる情報を書いたものと、その2つしかありません。今回はフロイスの書き残した記述を確認してみます。
>>> 「山崎の合戦」その3:秀吉の証言
フロイスはポルトガル本国にいるイエズス会総長宛てに毎年「日本年報」を書いています。1582年は年報を書いた後に本能寺の変という大事件が発生したために「日本年報追加」と呼ばれる緊急報告を本能寺の変から四ヶ月以内に書いています。
その中に山崎の合戦の記述があります。フロイス自身は当時九州にいましたので、その情報はキリシタン大名でイエズス会と緊密な関係にあった高山右近からもたらされたと考えられます。それを裏付けるのが右近の活躍を中心として書かれていることです。
右近からの情報ということは、若干右近の手前味噌があるとしても合戦に参加した当事者の情報ですから信憑性が高いことになります。また、京都にいた宣教師たちからとみられる情報も書き加えられています。
それではかなり饒舌なフロイスの記述を大胆に端折って意訳してみます。
「摂津の三人の領主は秀吉に先行して山崎という大きな村へ進んだ。中川清秀が山の手を、池田信輝が淀川沿いを、高山右近が中央の山崎村を進んだ。右近は明智軍が至近に迫ったと聞いて、後方の秀吉に応援を請うとともに、合戦を急ぐ兵を抑制していた。ところが、明智軍が山崎村の東黒門をたたくまで近づいたので、一千人に満たない手勢を率いて門を開き敵を攻撃した。高山軍は死者一人に対して明智軍は高貴なる者二百が討たれ、勇気を失った。第一回目の合戦の後、両翼の中川・池田軍が合流し、明智軍は逃げ始めた。
秀吉軍二万余が近傍まで迫っていることが明智軍の勇気を失わせたが、秀吉軍は疲労し到着することができなかった。
この勝利は正午のことで、光秀滅亡の主因となった。
光秀の兵ははなはだ急いで逃亡し、勝龍寺城も安全でないと考え、午後二時京都を通過した。全員が通過するのに2時間を要した。彼らは坂本を目指したが村々から盗賊などが出て襲ったので坂本に着けなかった者が多数いた。
明智は一部の兵と一緒に勝龍寺城に入った。その後秀吉の全軍が迫り包囲し、都に聞えたほど終夜銃を放った。攻囲軍は皆疲労困憊して朝まで起きれなかった。明智はほとんど単身で城を抜け出して坂本へ向かった。光秀は隠れていて農夫等に坂本へ連れて行くように頼んだが、彼らは槍で刺して光秀を殺した。」
今回は合戦の緒戦に焦点を当ててみます。
フロイスの記述では緒戦の開始は正午。秀吉の本隊は後方におり、秀吉軍として戦ったのはまず山崎村から出撃した高山右近軍のみ。合戦は光秀側から仕掛けてきて開戦。ということになります。
どうやら光秀は秀吉の本隊の到着前に右近らの摂津勢をたたく作戦をとったようです。しかも、大山崎の東黒門の出口で右近軍をたたくという作戦です。
ところが、この緒戦に光秀軍はもろくも大敗した、ということです。そこへ山の手の中川軍と川の手の池田軍が合流して戦った。それがきっかけとなって光秀軍の敗走が始まってしまった。
緒戦が正午だったということで思い当たる記述があります。高柳光寿氏が『明智光秀』の中で書いた「申の刻(午後四時頃)戦いが始まった」という記述です。
これは京都にいた『兼見卿記』の十三日記事から持ってきたと思われます。
「雨降、申刻に至り山崎において鉄砲の音、数刻鳴り止まず、一戦に及ぶ」
ところがフロイスの記述によれば敗走した光秀軍は京都を午後二時から四時にかけて通過しています。兼見が京都で聞いた銃声は、勝龍寺城に逃げ込んだ光秀軍に対して発砲されたものですので、午後四時には既に戦いは終了して光秀は勝龍寺城に逃げ込んでいたのです。
こうやってみると山崎の合戦は光秀軍と秀吉軍の全面激突戦ではなく、摂津軍(高山・中川・池田)と光秀軍の合戦だったととらえるべきと考えられます。光秀としては備中高松から強行軍で大返ししてきた秀吉軍が疲労して戦力低下し、かつ山崎にも到着できないでいる間に摂津勢に勝利することを狙ったのでしょう。禁制で軍隊の横展開のできない大山崎の東黒門の出口でたたく!間違いなく、この作戦だったと考えます。
そして、「本当に勝龍寺城に逃げ込んだのか?」という疑問には次のように考えます。
恐らく、次の2つの理由で光秀は勝龍寺城に逃げ込んだのではないでしょうか?
1.本来、負け戦になった場合、大将が真っ先に戦場から撤退して捲土重来を期すはずと考えますが、緒戦の敗戦から光秀軍の敗走が始まってしまい、退路を敗走する光秀の兵が塞ぐ形となり、迅速な撤退ができなくなっていた。
2.眼前に見える敵は摂津勢のみで秀吉本隊の来襲はまだだった。勝龍寺城で当面の摂津勢の攻勢を防ぎ、次の手立てを考えることにした。(ところが、そこへ秀吉本隊の大軍が到着してしまった)
さて、どうでしょうか?まだ十分に蓋然性を高められたわけではありませんので、いろいろご意見をいただければ幸いです。
>>> 「山崎の合戦」その1:捜査開始宣言
>>> 「山崎の合戦」その2:天王山争奪戦
>>> 「山崎の合戦」その3:秀吉の証言
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名門・土岐明智氏の行く末に危機感を抱いていた光秀。信長の四国征伐がさらに彼を追いこんでゆく。ところが、絶望する光秀の前に、天才・信長自身が張りめぐらした策謀が、千載一遇のチャンスを与えた! なぜ光秀は信長を討ったのか。背後に隠された驚くべき状況と、すべてを操る男の存在とは!? 新事実をもとに日本史最大のクーデターの真実に迫る、壮大な歴史捜査ドキュメント!
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
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明智憲三郎著の第4作『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
「秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を、今一度洗濯いたし申し候」。40万部突破の『本能寺の変 431年目の真実』の著者、明智憲三郎がさらなる歴史捜査を通じて、より解り易く「本能寺の変」の真実を解説した歴史ドキュメント! 「ハゲだから謀反って変だ! 」「歴史の流れ無視って変だ! 」「信長の油断って変だ! 」等々、まだある驚愕の真実に迫る!
本能寺の変研究の欠陥を暴き、「本当の歴史」を知る面白さを説く!
「若い方々や歴史に興味のない方々に歴史を好きになってもらいたいと思って書きました」 明智憲三郎
>>> サンテレビ「カツヤマサヒコSHOW」対談YouTube動画はこちら
【明智憲三郎著作一覧】
2016年5月発売予定
『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
>>> 文芸社のページ
2015年7月発売
『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎
>>> 幻冬舎のページ
2013年12月発売
『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫
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2009年3月発売
『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
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明智憲三郎著の第4作『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
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2016年5月発売予定
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2015年7月発売
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おそらく、右近軍と明智軍の中の旧幕府軍隊が戦ったようですが、1:1で右近軍と明智軍が戦って、そこまで大敗するとは思えないですね。
右近軍をおとりに中川軍、池田軍で挟撃するような形がうまく機能し、その結果混乱した部隊が敗走し出したんではないか?と思います。
その結果、勝竜寺城で一旦立て直して反撃しようとしている隙に、秀吉軍本隊か他の援軍に相当するもの(細川の一部部隊や四国征伐軍)がやってきてしまったんではないか?と感じました。
合戦の時間が相当早まっているうえに、時間の記録が克明になされていることにも驚きました。 高山右近、ましてフロイスに時間を捏造する動機は無いと思われます。 これは「惟任退治記」が合戦の開始時刻を申の刻としていることを、秀吉軍が戦闘に参加し勝利するためのアリバイ作りと考えることが合理的だと思います。
「山崎の合戦」については、これからも皆様とともに楽しみながら推論を重ねて行きたいと思います。 それにしても、この戦いが実際は明智軍 VS 摂津軍で、開始直後に勝敗が決まってしまったとすれば、これもまた通説とは異なる、しかし説得力のある仮説と言えるでしょう。
さて本題です、チョットした疑問です。
1)吉田兼和の日記て?12日で別本が終了しているのですよね?13日分は、書き直し中だったとしたら、惟任退治記に合わせて書き直す事も可能ではないでしょ~か?
2)天候は?本当に朝から夕刻まで雨だったのか?
3)日和見順慶←誰もが、悪書と言った筒井家記しか載っていない話を、徳川幕府は山崎合戦図に何故?描かせたのか?(12月末に雑誌で特集号が有るようです。)
4)丹波衆は、本当に合戦に参戦したのか?
羽柴派と明智派に分裂したのではないか?又は中立化したのではないか?
家康が、小早川秀秋陣地に鉄砲射撃した様に、秀吉も鉄砲を合図に寝返りをさせてのではないか?(川勝秀氏が山崎の合戦後に、秀吉の兜を頂いたと言う品が先日の毎日新聞に載ってましたので・・・チョット気になりました。)
正午には勝敗が決まっていたというフロイス証言はとても新鮮でした。
兼見卿記は現地で見ていたわけではないので、勝龍寺城での攻撃を合戦の開始と思い込んでも致し方ないように思います。
黒門を叩いて戦闘が開始されたというのは、山崎合戦図屏風でも描かれていますので、充分定説化していると思います。
しかし、山の手中川、川の手池田、中央の中川、3方ルートが確立している以上、充分横展開していますので「大山崎の東黒門の出口でたたく」作戦は成立していないと思います。
現地で見て感じるのですが、黒門から山の麓のルートはすぐわずかな距離で、西国街道の隘路で迎え撃つ兵を絞ったとしても、すぐ側面からの中川隊が迫ってきて混戦になることは容易に想像出来ます。そしてわずかな時間で川の手池田隊も参戦することになるでしょう。
光秀が黒門出口でたたく作戦を取ったとしたら、中川隊池田隊の存在が見えていなかったとしか考えにくいように思いますがそれもあり得ない事ですね。
寧ろ敵軍が完全に揃う前に戦闘を開始する、その象徴が黒門への攻撃だったのではないでしょうか。
ボトルネック作戦は通用しないことは、光秀にもわかっていたと思います。
秀吉軍が到着する前に合戦の勝敗が決まっていた可能性もあると思いますが、高山右近が西黒門を閉じていたという説もありますね。
どちらにせよ前日に、間近の摂津富田に羽柴軍がいるわけですから、疲れて到着が遅れたというよりは、先陣摂津衆が到着した段階で光秀が早めに動いたと思います。
定説の配陣図でも、羽柴秀吉、織田信孝は最後列にいますので、直接戦闘に参加する立場ではないですね。
つまり、フロイス証言は正午に勝敗がついた部分以外は、概ねこれまで方々で発表されてきた事のある説のように思います。
右近証言(もしくは右近擁護)を重く見れば「摂津衆のみの活躍で」と言う事になりますし、秀吉の立場からすれば、「我々の準備の勝利。そして我々が出るまでもなく勝利した」と言う事になりますので、フロイス証言で何かが大きく覆るような事ではないように感じました。
つい2週間くらい前にも山崎に行ってきまして、光秀本陣(御坊塚)から勝龍寺城の距離感を体感してきましたが、やはり目と鼻の先くらいですので、「勝龍寺城に篭った」というよりは、「御坊塚よりはまだマシの勝龍寺に一旦本陣を移した」という感じだったのかなと私は考えています。
羽柴軍(摂津衆)に円明寺川を越えられ、明智軍は混乱する中、一時退避としてすぐ傍の勝龍寺に移動したのなら、理解出来るように思います。明智先生が書かれている2の部分と概ね同じです。
しかし、こう見ると山崎合戦にはさしたる謎というものは存在しないのかなとも感じます。
見えてくるのは明智軍の混乱と敗走、逃亡という姿になってしまいますね。
問1:吉田兼和の日記て?12日で別本が終了しているのですよね?13日分は、書き直し中だったとしたら、惟任退治記に合わせて書き直す事も可能ではないでしょ~か?
答1:確かに別本には記述がなく、書き直した正本の記述です。十四日に津田越前入道が来て光秀からもらった銀子の件で兼見を問い詰めています。恐らく、これがあって急いで日記を書き直したのではないでしょうか。『惟任退治記』は本能寺の変から四ヶ月後に書かれていますので、とてもそこまでゆっくり待って書き直したとは思えません。また、フロイスも「都に聞えるほど銃を撃った」と書いていますので、兼見の証言には不審な点はないと思います。
問2:天候は?本当に朝から夕刻まで雨だったのか?
答2:兼見は「雨降」と書いています。三河の松平家忠も「雨降」と書いています。一日中、雨が降っていたと見てよいでしょう。
問3:山崎合戦にはさしたる謎というものは存在しないのか
答3:何故光秀軍が1000人程度の高山右近軍に緒戦で大敗したのか?という疑問を持ちます。よほど人数が少なかったのか。士気が落ちていたのか。あるいは、何か別の理由があったのか。
繰り返しになりますが、フロイスの言う「高貴なる者200が討たれ」という記述です。 高貴なる者=騎士=武士 として雑兵や足軽と明確に峻別しています。 馬に乗って軍勢を指揮していた武士が鉄砲の犠牲になった(ヨーロッパではほとんど100年前にそういう事態が生じていたのですが)ということをフロイスは言っているのだと想像します。 マイケル・ハワードは「ヨーロッパ史における戦争」の中で、「戦場における火力は防御側の優位をもたらした」と言っています。 つまり当時の銃は、それを撃ちながら前進するにははなはだ不都合な反面、攻めかかってくる敵に浴びせるカウンターとしては極めて有効だと言うことです。 これが東黒門を少し出たあたりで生じた戦闘でも生じたのではないでしょうか? 勝敗は紙一重の差で、しかし結果は一方的だった、山崎の戦の緒戦に関するフロイスの証言を僕はそんな風に解釈しています。
さらに付け加えると、この「緒戦」は双方の、あるいはどちらかの総大将(つまり秀吉と光秀ですが)の作戦の一環というより、現地指揮官によるいささか偶発的な衝突から始まってしまったような印象を受けました。 全体としての光秀軍は、物理的にも精神的にも十分な陣容を整える前に戦闘が始まり、それが緒戦の敗退によるダメージを増幅する結果となったのではないでしょうか。
ですので山の手にも川の手にも対面する形で、明智軍も兵を置いていたと思われます。
つまり、円明寺川を挟んでの両軍対峙の形ですね。
明智軍も兵を分散させていたのであれば、高山軍に負けたこともあり得たのではないでしょうか。
しかし、地形的に言えることは、中央の明智軍は完全な平場に対して、高山軍は東黒門が城門の役割を果たせていた可能性があると思います。
フロイス2さんがご指摘されている通り、防御壁があれば火力は絶大です。黒門の規模はわかりませんが、当時の山崎の町の能力を考えると堺に匹敵するかそれ以上に守りの強い門と壁を備えていた可能性があり、雨をしのげた形で一斉放火出来たとも考えられます。
実は、私が感じる謎に通じるのですが、秀吉軍は天王山と山崎の隘路を押さえており、圧倒的に有利な地形条件を持っていたという点です。
明智軍にあるのは、勝龍寺城のみであとは何の守りもありません。
ですので、兵数だけでなく、地理的条件で既に羽柴軍の勝利が確定しています。
例え明智軍が獅子奮迅の働きで羽柴軍を押し、奇跡的に兵数をカバー出来たとしても、狭い隘路と天王山を備えた羽柴本陣に明智軍が到達することは不可能です。しかし、光秀側は対面した兵のどこかが敗れるとすぐ決壊し、本陣を突かれるという非常に脆い配置になっています。つまり全てにおいてこれは負け戦が決まっていた合戦であると言えます。
そこで感じるのは、「何故光秀はこの場所で合戦したのか」という点です。坂本や安土は遠い選択肢だったとしても、京に秀吉を入れないためであったとしたら、下鳥羽から山崎の間で、この勝龍寺城が最善の策だった、という点にはなはだ疑問を持ちます。
山崎の町は禁制があるから、戦場を数百メートルずらしました。などという判断はあり得ないと思います。
ですので、光秀が本陣を構えた場所が「勝龍寺城近辺である」という点に深い意味を感じてしまいます。
ここに光秀が本陣を置き、勝利の可能性を上げる唯一の理由として考えられるのはもはや「勝龍寺城に援軍が来る」ことのみです。
残された証言等を見ても、山崎合戦は確かに一見大きな謎など無いように感じます。
しかし、要所で「疲労し」や「暗闇」等と不自然な表現が、不整合を緩和する潤滑油の役割をもたらしているような気がしてなりません。
あと、私が地元民だからかもしれないですが、
兼見卿記の「十日 光秀、摂津を攻める。」この一文も非常に気になります。
光秀は摂津のどこまで来ていたのか。西国街道の山崎を越えるとそこは摂津。そしてまず現れる主要な町は高山右近の高槻城になります。この時に右近と交戦したのか、それともこの時点では右近は明智軍の進軍をスルーさせたのか。
そして、私の地元尼崎に「明智軍と羽柴軍の交戦があった」との伝説があります。
これは軍記物の創作なのかもしれませんが、光秀が尼崎で「待つ討ちの陣」を敷いていたとされ、その場所が松内町という町名で残っていたりします。
(私のブログでその点触れていますので宜しければ見てみてください。http://ameblo.jp/tokinoasiato/entry-10549273533.html)
もしも10日に攻めた摂津が尼崎だったとしたら、山崎合戦の先陣、高山右近(高槻城)、中川清秀(茨木城)、池田恒興親子(伊丹城・尼崎城)は10日の明智軍の侵攻に対してスルーしていたことになります。
この、摂津衆と明智軍の間の、山崎合戦に至るまでの関係性がどのようなものだったのかも私にとっては大きな謎です。
そして、光秀が最期に選択した勝龍寺城は元々は盟友とされた細川藤孝の城。
残された史料が少ない中では真実の解明はとても難しいのかもしれませんが、この山崎合戦には様々な調略や攻防、裏切りがうごめいているように感じます。
(すいません。同様の文を間違えて「その2」にコメントしてしまいました。「その4」へのコメントですので、再度こちらに書かせていただきました)
不知火さんの地元には、山崎の合戦にまつわる伝説が有るのですね!
私の地元(京都・樫原)には、本能寺の変当日の朝に、光秀目撃された伝説が残ります。
よく阪急電車で山崎付近の車窓を眺めていますが、地形的に見て、水無瀬側の盆地に布陣した方が戦いやすい(関ヶ原の様な地形)のでは?と何時も考えています。
対岸の石清水八幡宮て地図で見るよりも近くに感じるので、仮に洞ヶ峠に光秀が居ても対岸の様子は手に取る様に解ったのではと思います。
又、鳥羽付近(名神京都南付近)からも山崎方面の動きは遠巻きながら丸見えだから、秀吉側のの動きが解らない事は無いと思います。
水無瀬側に関して、私も似たような事を考えていました。
山崎資料館の学芸員の方に伺ったのですが、山崎の西黒門は水無瀬の辺りだったそうです。
つまり今の山崎町よりもかなり大きな町だったんですね。
私が考えていたのは、光秀は少なくとも1日半以上早くこの地にいたわけですから、水無瀬辺りに布陣して、西黒門を背にして光秀の本陣を置く配置にすれば良かったのではないかということです。
禁制を守ったとしても、東にずらすのではなく、西に戦場をずらせば光秀は山崎と天王山を背に戦うことが出来ます。
高槻から来る羽柴軍を水無瀬で迎え撃ち、もしもの退却の場合は西黒門を閉じてしまえば、羽柴軍の隘路の侵入を一定時間防ぐことが可能です。
その方が周囲を包囲しやすい御坊塚や勝龍寺よりもはるかに戦略的に思えます。
先に山崎入りしたにも関わらず、東に兵を引き、みすみす山崎を秀吉に取られてしまったことが大きな敗因の一つですね。
山崎町は光秀への協力は拒み、秀吉側に味方した…と言う事も考えられます。
しかし、水無瀬に布陣したとして、対岸男山から順慶が敵に回って側面を突いてくる可能性も光秀の憂いにあったとしたら…もはや四面楚歌ですね。
その人は、三箇頼連と言いキリシタン大名だったそうで、摂津衆でただ1人明智方になった人で合戦後、大和の筒井家に身を寄せ、小西行長の家臣にもなったそうですが、兵士は山崎の合戦には参加してないのでしょ~かね?
また、勝竜寺城を囲んだ秀吉軍は、疲労で爆睡していたので、和睦を申し出た明智方の兵士の声が聞こえなかった?為、夜明けに開城したとあり(光秀もその時刻でたのか?)その明け方て何時ごろ?と言う事で、検索した所、
1582年7月1日(旧暦6月13日)は
京都 日の出・ 4時49分
日の入り・19時13分でした。
序に、6月20日(旧暦6月2日)は
京都 日の出・ 4時44分
日の入り・19時14分でした。
「本能寺」から「山崎」まで、光秀は連日大忙しだったと思います。 広範な人々と政治的、戦略的交渉を持ち、その多くの交渉半ばで山崎に向かったのでしょう。 その背景の内に、光秀の一見不可解とも思える作戦の意図を解明する鍵があるような気がしてなりません。
光秀の陣形で、もしも勝算があるとしたら。
作戦1 丹波側に軍を配置、気を逸らす為に対岸に陣を張り、秀吉が山崎に出た頃に本陣を移動、更に丹波から摂津を抜けて来た丹波衆で背後を突く。
作戦2 光秀勢が大敗した様に見せかけて勝竜寺城へ後退。山崎から出て来た秀吉本陣目掛け、篭城したはずの筒井軍が対岸の男山から攻撃する!(山崎橋が掛かっていれば大雨でも移動可能)
両方裏切られてので、歯抜け名陣形になった?と言う考えしか浮かばなかったです・・。
1点、光秀は援軍を待っていたのではないかという推理が提示されていますが、それは拙著で答を示したつもりでおります。
光秀は徳川家康の援軍を待っていました!
筒井順慶も細川藤孝も光秀の6月9日の援軍要請を拒否しています。その援軍要請に答えたのは家康です。10日に三河を出陣していれば十分間に合ったはずです。
何故10日に出陣できなかったかといった経緯は拙著をご参照ください。
等高線で書かれた地図と違って鳥瞰図にはこんな効果があったのかと「はた」と気付いたことがあります。ひとつはやはり山崎が中国地方から京都に入るために必然通らねばならない場所であり、かつかなり狭隘な土地であること。そしてこれは今まで見落としていたことですが、小栗栖が山崎方面から光秀居城の坂本へ向かうには必然通らねばならず、かつ比叡山に連なる山並みと今は無き巨椋池(おぐらいけ)に挟まれた極めて狭隘な土地であったこと。
山崎で敗れた光秀軍は絶対にここを通って撤退するしかない場所です。ここへ伏兵を置けば、光秀軍を全滅させることができます。そして現実に山崎から坂本城にたどりついた兵は極めて少なかったとフロイスが書いています。
光秀は全軍を坂本城に帰して再起を図りたかった。家康の援軍が来るはずであり、それと合流すれば挽回可能とみていた。だから、勝龍寺城におとりの軍勢を立て籠もらせて、そこで時間稼ぎをしている間に坂本城にたどり着こうとした。現に、秀吉軍は勝龍寺城を一晩取り囲んで留まった。しかし、撤退した光秀の軍勢はこの地の地理を熟知した細川藤孝軍の伏兵によって小栗栖周辺でことごとく討ち取られた。このような推理が成り立ちます。
藤孝の嫡男忠興の功績を書いた『細川忠興軍功記』には「光秀は山崎の合戦で討死」と書かれています。敗残兵とはいえ百姓の落ち武者狩りで光秀軍が全滅状態になったというよりも蓋然性が高いように思います。まだ裏付けは不十分ですが。
この認識の下でフロイスの証言を読み返してみると、それなりに整合したストーリーが見えてくるような気がします。 明智さんが最新のコメントで指摘されていることとかなりかぶりますが、まず明智軍の意外なほどの脆さ、これは緒戦で高山右近に手痛い一撃を食らった上に、秀吉の大軍がいつ現れてもおかしくない状況で、ダメージが少ないうちの坂本城への撤退が開始されたと考えられないでしょうか。 この撤退作戦はある意味折込済みで、それが天王山へ実質的な兵力を配置しなかった(天王山上の兵は撤収が困難)理由かもしれません。 「はなはだ急いで逃亡し」、という記述をどう解釈するかにもよりますが、少なくとも秀吉の本隊と手合わせする前に撤退が始まったように思えます。
その退却軍が京都を通過するのに2時間かかった、と言う事は相当な人数です。 Wikipediaによれば山崎の戦での光秀軍13,000の損害は3,000、この数字を参考にすれば、少なくとも5,000以上の兵士は坂本に向かって行ったと思われます。 PM4時の時点で、兵力は(少なくとも数の上では)温存されていたようです。 敗走には違いありませんが、合戦で勝利することよりも、援軍目当ての篭城作戦への切り替えがかなり早い時点でなされたことの効果といえるかもしれません。 その裏づけかもしれない貴重な情報をk.ののさんが提供されています。 その日の日没は19時13分、退却軍の最後尾が京都を抜けたのが午後4時とすると、彼らの大半は明るさがあるうちに坂本城に到着を見込めるはずです。 一見ボロ負け、総崩れとも思える敗走の裏には兵力温存のための時間を考慮した作戦変更があったのかもしれません。(そして、そのさらに裏には「援軍」の存在が)。
しかし彼らのほとんどは坂本にたどり着けなかった…、不思議な話です。 敗軍とは言え、5000を超える武装した兵士が、日没まで3時間以上ある狭い平地を移動しているのです。 百姓が攻撃をかけるなど自殺行為です。 藤考の軍隊の関与を考えざるを得ません。 明智軍の一部は、藤考軍を友軍とさえ思った、少なくとも敵軍とは認識していなかった可能性はあるでしょう。 それはある程度、光秀も同様だった、藤考に対する淡い期待感から小栗栖の通過は安全と踏んでいたのかもしれません。 そのために、あえて自らが囮になる陽動作戦として勝龍寺城に立てこもった、あるいは軍隊が退却する際に一番危険かつ重要な殿を自ら果たそうとしたのでしょうか。 そしてとにかく小栗栖までは逃げ延びた、しかしそこは彼の計画にあった小栗巣ではなかった、そういうストーリーかもしれませんね。
現代人の見る京都周辺の地図には見えないもの。それが巨椋池(おぐらいけ)です。これがいかに大きく地形を変えていたのか!またしても「歴史」に額をポン!とたたかれた思いがします。
こんなことでもそうなんです。「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」
信長や光秀の心を現代人が自分の理解できる姿に引き摺り下ろして勝手に判断するのは極めて不遜な行為ですね。あらためてそう思いました。
今なら、光秀本陣跡出土と検索したら記事と写真が見られますよ!