秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を今一度洗濯いたし申候
桐野作人氏が桶狭間の戦いについての記述で『信長公記』天理本に軍記物『甫庵信長記』と類似した記述があることを理由に、「信憑性を疑問視されている『甫庵信長記』の信憑性の再評価が必要」としていることは、実に奇妙な論理であることは既にこのブログに記しました。
>>> 桐野作人氏の奇妙な論理:『信長公記』天理本の信憑性
桐野氏は『稲葉家譜』についても同様の奇妙な論理で「信憑性あり」と主張し、光秀謀反が怨恨であることの根拠にしています。『だれが信長を殺したのか』桐野作人著、PHP研究所、2007年の該当箇所の記述を確認してみましょう(185~191頁)。
「天正十年五月二十七日、信長の側近である堀秀政は稲葉貞通(一鉄嫡男)と那波直治に宛てて、直治の稲葉家帰参が信長の上意によって裁定されたことを下達した。その前後のいきさつをすこし長いが、『稲葉家譜』から書き下してみよう。
是の年、那波和泉直治、一鉄の家を去りて明智日向守光秀に仕う。光秀厚くこれを遇し、以て家臣となす。一鉄大いに怒りて曰く、さきに利三を招くのみならず、今また和泉を招くと云て、すなわち、光秀とこれを信長公に訴う。公、光秀に命じて和泉をして一鉄に返さしむ。而(しこう)して内蔵助をして自殺せしめんとす。時に猪子兵助、光秀がために執り成す、故に内蔵助死を免れて光秀に仕う、元の如し。然れども、信長公、光秀が法に背くを怒りて、以てこれを召し、譴責して手を自ら光秀の頭を打つもの二、三に至る、光秀がびん髪(ぱつ)少しきなる故に常に附髪(つけがみ)を用ゆ。この時これを打ち落とされ、光秀深くこれを啣(ふく)む。叛逆の原本はここに発起す。(中略)
このくだりと同工異曲の逸話は俗書である『明智軍記』にもあるほどで、光秀謀叛の怨恨説のひとつにあげられたこともある。『稲葉家譜』もまた近世の編纂物であるため、同様に信頼するに足りない俗説だと斥けられてきた。とくに信長が光秀の頭を叩いたら附髪が落ちたという一節などは、いかにも見てきたような虚説とするか、あるいはリアリティは細部に宿るとみるか、評価が分かれるところではある。
しかし、同書中の堀秀政の書状写しは信頼できると評価しながら、それに関連する叙述は信頼できないとするのはいささか矛盾する態度である。(中略)したがって、右のくだりは多少の誇張や稲葉家に都合のよい解釈があることは否定できないにしても、大筋においては事実に近いと考えてよいのではないか」
それではこの桐野氏の論理を評価してみましょう。
まず、『稲葉家譜』の信憑性を評価する上で欠かせないことは、誰がいつ書いたものかである。桐野氏は上記の文より前の記述で、利三の旧主である稲葉家の正式な家譜のようにみなして書いているが、実はそれがはっきりしていない。書いた人物が特定できていないのだ。また、成立した時期について桐野氏は「近世」という漠とした書き方をしているが、やはりはっきりしていないのである。つまり、この『稲葉家譜』(東京大学史料編纂所架蔵の謄写本)というのは同じ『稲葉家譜』でも山城淀藩、安房館山藩、豊後臼杵藩の『稲葉家譜』のように「稲葉家が編纂した」というお墨付きのない、「極めて筋の悪い書物」なのである。この書をまともに証拠採用している研究者がいないことでも研究界での評価がわかる。
そのような史料であればこそ、信憑性の評価は慎重を期さないといけないのだが、桐野氏は奇妙な論理を展開している。
一つ目は、堀秀政の書状に信憑性があるのだから、これに関連する記述も信憑性があるという論理だ。秀政の書状は「那波直治の稲葉家帰参を信長が認めた」ということだけであり、光秀が直治や利三を引き抜いたとも、一鉄が怒って信長に訴えたとも書かれているわけではない。関連する記述が書状の内容をはなはだしく拡大解釈しているだけなのである。桐野氏は『反・太閤記』などの優れた歴史小説を書いた小説家であるから、歴史小説のテクニックは十分ご存知のはずだ。歴史小説は史実に創作を加えて面白く膨らませるものだ。信憑性ある記述と創作は入り混じっている。一部に信憑性があるから、その他の記述も信憑性があるとは決して言えないことは百も承知のはずだ。
二つ目は、「同工異曲の逸話は俗書である『明智軍記』にもある」と認めていながら、それでも『稲葉家譜』の記述の信憑性を主張する論理である。家譜として書かれたものが世の中に公表されて知れ渡ることはまずない。一方、販売を目的として印刷出版された軍記物は世の中に広く知れ渡る。1700年ごろには出版されてベストセラーとなった『明智軍記』と同じことが書かれていたら、まず『明智軍記』の話を『稲葉家譜』が写したのではないかと疑い、『稲葉家譜』が1700年より以前に成立していたのかどうかを確認すべきである。その確認ができなければ「信憑性あり」と主張する根拠はないことになる。この点は桶狭間の合戦における『信長公記』天理本と『甫庵信長記』の関係とまったく同じ構図だ。
三つ目は「信長が光秀の頭を叩いたら附髪が落ちたという一節などは、いかにも見てきたような虚説とするか、あるいはリアリティは細部に宿るとみるか、評価が分かれるところではある」として、桐野氏は「リアリティあり」と判断していることだ。これは論理の問題ではなくセンスの問題かもしれないが、このリアリティはいかにも小説家が付加しがちなリアリティにしかみえない。光秀が本当に附髪をしていたのか、当時ハゲであったり、附髪を打ち落とされることを恥辱と思う文化があったのか、打ち落とす場に『稲葉家譜』を書いた人物が同席したのかなど「リアリティあり」とするにはあまりに疑問が多い。
四つ目は、『明智軍記』を引き合いに出しているが『絵本太閤記』についてはふれていないことだ。『明智軍記』には那波和泉守が稲葉家へ帰参した後に信長が利三のことを問題にして「稲葉一哲斎ガ郎党斉藤内蔵助ヲ、計略ヲ廻シ汝ガ手前ニ呼取、高知ヲ与ヘ抱置ノ由聞処ナリ。(中略)(信長)御自身握拳ヲ以テ、三ツ四ツ日向守ガ頬(ツラ)ヲ喫(くわせ)ラレケリ」と書かれている。ところが、『明智軍記』より100年後の1800年前後に成立した『絵本太閤記』には『稲葉家譜』の記述にはるかに近いことが書かれている。
「(信長は)内蔵介、和泉守両人に、切腹申附くべし」と怒り給ふ。猪子兵介此の事を気の毒に思い、さまざま信長公を宥めまいらせ、名和和泉守を稲葉へ帰参せしめ、斎藤内蔵介も共に稲葉家へ帰るべしと勧むれども、斎藤敢えて是に随わず、其の儘に光秀に仕えけり。信長公猶も御怒解け給はず、又光秀を召て、責て宣ふやうは、「法に背き禮に違ひ、内蔵介を元のごとく召仕ふ事、我を侮り蔑如にする條奇怪なり」とて、近士に命じ、竹刀を以て光秀をうち出させ給ふ。光秀恥辱かぎりなく、一向(ひたすら)信長公を恨みまいらせける」
『絵本太閤記』は『明智軍記』などの様々な軍記物の話を取り込んで、庶民向けに絵入りで書かれて大ベストセラーになり、人形浄瑠璃や歌舞伎の台本としても使われた大人のおとぎ話である。利三が切腹を命じられたことや猪子兵介が執り成した話は『稲葉家譜』と同じだ。逆に『稲葉家譜』から見ると『絵本太閤記』の内容に「附髪が落ちた」話を書き加えたものが『稲葉家譜』になっているのだ。桐野氏の論理に従えば、『稲葉家譜』と類似の記述のある『絵本太閤記』についても「信憑性を疑問視されている『絵本太閤記』の信憑性の再評価が必要」ということになる。
それでは『絵本太閤記』と『稲葉家譜』はどちらが先に成立したのであろうか?
『絵本太閤記』1800年前後に成立したことがわかっているが、『稲葉家譜』の成立について桐野氏は「近世」というあいまいな書き方しかしていない。
『稲葉家譜』は東京大学史料編纂所データベースに登録されており、インターネットを通じて見ることができる。巻一から巻四十一に分かれており、さらに巻ごとに1頁ずつファイルが分割されているので、1頁ずつ開いてみないと何が書かれているかわからないという大変不便なシステムである。問題の記述の箇所が巻四の「260」ファイルから書かれていることを見つけるだけでも大変な手間である。
>>> 東京大学史料編纂所データベース
この巻四が書かれた年は文中に書かれている最後の年よりも後と推定できる。巻四に書かれている年で最後のものは「天和元年」と確認できたので、少なくとも1681年以後に巻四が書かれたことは確実である。しかし、巻四十一まで書いて『稲葉家譜』として完成した年が問題である。その年に巻一からのすべてが書かれた可能性があるからだ。巻四の問題の記述中の「自殺」「譴責」という言葉はいかにも近代の用語に思え、相当時代が下ると推測される。巻四十一からさかのぼって書かれている年を探してみたところ巻四十の「010」ファイルに天保十二年と書かれていた。1841年である。この年以降に書かれたのであれば、『稲葉家譜』の作者は『絵本太閤記』を当然読むことができる。
つまり、『絵本太閤記』の作者が『稲葉家譜』を読んだ蓋然性よりも『稲葉家譜』の作者が『絵本太閤記』を読んだ蓋然性の方がはるかに高いのである。したがって、『稲葉家譜』の記述には信憑性がないと結論付けることができる。
このように『稲葉家譜』の信憑性確認の作業を進めていく中で、実はある重大なことに気が付きました。それは『稲葉家譜』に信憑性ありする桐野氏の唱える説は「桐野氏のオリジナルではなかった」という事実です。
信長研究者必携の文書集である奥野高廣著『織田信長文書の研究 補遺』吉川弘文館の251~252頁に『稲葉家譜』の問題部分の文章が記載され、その解説として桐野氏の主張とまったく同じ趣旨の文が書かれているのです。
「なお東京大学史料編纂所架蔵の謄写本『稲葉家譜』は、通貞から幾通の天保年間までを収めた四十一冊。一巻の末尾に家老那波久五郎衆親と那波源四郎親保の連名があり、第二に家老那波源四郎親保の名が見える。編集者らしいが、この人たちの来歴が未詳のため『稲葉家譜』の成立について、判然としないのは残念である。しかし正しいと思われる古文書(注:堀秀政の書状を指す)を引用しているので、この『稲葉家譜』は信用に価する(拙稿「茶事二題」『日本歴史』四〇四号参照)」
この文書集が出版されたのは1998年。桐野氏の『だれが信長を殺したのか』が出版されたのが2007年。桐野氏の本には参考文献としてこの文書集の名が書かれています(286頁)。「同書中の堀秀政の書状写しは信頼できると評価しながら、それに関連する叙述は信頼できないとするのはいささか矛盾する態度である」と書いた187頁前後には「奥野廣高氏が文書集で主張したように」といった記述は見当たりませんが、それでも、桐野氏が参考文献にあげた文書集に書かれている奥野氏の説を読んでいた蓋然性は高いといえるでしょう。このブログのタイトルも「桐野作人氏の奇妙な論理」ではなく、「奥野廣高氏の奇妙な論理」に書き換える必要があるのかもしれません。
こうして調べてみるといかに馬鹿げた話かがよくご理解いただけたと思いますが、このような話を信じ込んでしまっている人は結構多いようです。amazonカスタマーレビューに、その典型的なレビューコメントが書かれているのでご覧ください。「違ってますよ!」と親切に教えていただけると幸いです。
>>> 信じ込んでいる人のamazonカスタマーレビュー
【他にもある、奇妙な論理】
>>> 兼見卿記:金子拓准教授の強引な論理
もっと「奇妙な論理」の実例を知りたい方におすすめの本『「本能寺の変」は変だ!』
簿記検定史受験対策講座を開設している公認会計士柴山政行氏の「おすすめ本」動画です。『「本能寺の変」は変だ』明智憲三郎著。ご覧ください。5分間で大変わかりやすく解説されています。 >>> YouTube動画へ
>>> 公認会計士柴山政行氏のブログのページへ
>>> 「本能寺の変」は変だ!ハゲだから謀反って変だ!
>>> 『「本能寺の変」は変だ!』読者書評
>>> 歴史学は未来学(『「本能寺の変」は変だ!』はじめに)
>>> 本能寺の変、その「うんちく」間違ってます!
>>> 『「本能寺の変」は変だ!』目次
織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
>>> シン・ノブナガ
『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』明智憲三郎著・河出書房新社の書評をいくつかいただきましたので、ご紹介します。
ビジネスモデル・プロヂューサー河辺よしろう氏
明智憲三郎先生の新著がやっと手元に届きました❗️
今回は謎だった明智光秀の前半生を完全解明!って事で期待が高まります!
理系的な明智憲三郎先生の歴史調査の大ファンです。先生の著書はすべてコレクションしてあります(笑)
先生は商業的な動機で執筆されていないので、命をかけた著書はほんとうに素晴らしい歴史本ばかりです。
売れるからと言う理由だけで出版をしたがる輩とは一線を画します❗️
amazonカスタマーレビュー
私のイメージでは,本能寺の変のときの光秀の年齢は,45歳ぐらいでした。
この本を読んでびっくりしました。
読者が裏取りができるように資料も列挙されています。歴史好きが増えそうですね。
土岐氏末裔
アマゾンで予約注文していてのが、本日配達されました。先ずは、小生のいつもの癖で、「エピローグ」と「おわりに」を読みました。読み進むうちに、なにか、著者の気持ちが響いてきて、熱くこみ上げてくるものがあって、感動しました。
私のルーツ、大垣市とか、で今のうちにいろいろと調べてみようと、先ずは大垣市図書館を訪ねようと、意を固くしました。私の周囲で知る人が、殆んど居なくなりましたので。 まさしく私の、「歴史捜査」でしょう。
明日からは、この本、じっくりと最初から、読もうと思ってます。
読者のブログ
明智光秀の末裔の著者が、光秀の「前半生」と出自を系譜などの史料から解明しようという一冊。
引用した系図に丸数字を付けて、それを用いて、以降説明するので
結果、簡潔になり、わかりやすい。
本の前半で「前半生」を解明していくが、
前半3分の1ぐらいの頁で、そこまでに結論づけた「前半生年表」があり
把握がしやすい。
この本はそのほか「連署状の年号解明一覧表」など
図や表が多いので解説を読むのに理解しやすい。
読者のFACEBOOK投稿
明応の政変、頼典の義絶、頼武・頼純への奉公、美濃と越前の幾多の往復、幕府奉公衆、幕府と信長のブリッジ、幕府から信長へと、ずずずぃ〜っと繋がる繋がる!すげー!
プロローグにあるとおり、生涯編から入って系譜編で逐一深めたり固めたりする読み方がおすすめ。
amazon読者書評「ここにいたか!!光秀!」
大変よく読み込んでくださった読者からのコメントです。
明智憲三郎氏の歴史捜査はこれまで、本能寺の変の真相に迫り、信長脳を解き明かしてきましたが、今回はついに、氏の研究の本丸であろう明智光秀の生涯を照らし出します。(中略)
本能寺の変についても、新たに紹介された史料によって明智説はさらに蓋然性を増し、足蹴事件についてはさらに一歩踏み込んだ推理が展開されます。従来の陰謀諸説や怨恨説、偶発説は、本書および光秀プロジェクトHPで公表された「明智光秀全史料年表」を参照しながら、一つ一つ信憑性の検証をしていけばよいでしょう。いわれのない誹謗中傷や不毛な議論、根拠の薄弱な説は今後淘汰されていくものと信じています。
さて、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」はどんな作品になるでしょう。本書で解明された光秀の足跡がどの程度考慮され、脚本でどのように肉付けされ、感情が吹き込まれ、戦国武将たちがキャラ立ちして躍動するのか。そして、光秀、信長、秀吉、家康、各々の策謀が重層的に同時進行し、めまぐるしく事態が変転していく本能寺の変の全貌を、映像でどのように魅せてくれるのか。番組放送まで本書をくりかえし読んで、また全史料年表にゆっくり目を通して、なぜ順慶は裏切ったのだろう、信忠はなぜ信長の命令を無視してまで京都に戻ったのだろう、などあれこれ想像しながら、明智光秀のドラマ化を楽しみに待ちたいと思います。
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【2018年5月25日記載】No19
amazon『織田信長 435年目の真実』カスラマーレビューより
父信秀から受け継いだ孫子の兵法により信長脳が形成されたことを論証しようとする著者の新見解が述べられた大変スリリングな本である。歴史の謎を解く醍醐味を本書で味読することができる。桶狭間の合戦で信長は「兵力に勝る敵を分断して死地に追い込め」という孫子の兵法に基づき、今川軍を挑発して自分の城を攻撃させるように仕向けて、残された義元軍の主力を桶狭間に閉じ込め、信長は少ない軍勢で総攻撃をかけ、義元の首を取ることができたと主張する。その手際は実に見事であり、信長の勝利は偶然でも幸運でもなく、必然であると言う。あまりにこの説明が見事なので、著者に説得されてしまうのだが、果たして本当にそうだったのか?話は出来すぎているのではないか?そのような疑問も沸き起こる。理論通りにいかないのが歴史ではないか?偶然的・幸運的な要素もあったのではないか?本当に10倍の兵力を持つ敵軍に孫子の兵法のみで立ち向かえるのか?まずは本書を手に取って著者の語りを聞いて欲しい。お勧めの歴史本だ。
【明智憲三郎著作一覧】
2016年5月発売
『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
>>> 文芸社のページ
2015年7月発売
『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎
>>> 幻冬舎のページ
2013年12月発売
『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫
>>> 文芸社のページ
2009年3月発売
『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
(この記事は2015年7月31日投稿の記事に加筆修正したものです)
桐野作人氏が桶狭間の戦いについての記述で『信長公記』天理本に軍記物『甫庵信長記』と類似した記述があることを理由に、「信憑性を疑問視されている『甫庵信長記』の信憑性の再評価が必要」としていることは、実に奇妙な論理であることは既にこのブログに記しました。
>>> 桐野作人氏の奇妙な論理:『信長公記』天理本の信憑性
桐野氏は『稲葉家譜』についても同様の奇妙な論理で「信憑性あり」と主張し、光秀謀反が怨恨であることの根拠にしています。『だれが信長を殺したのか』桐野作人著、PHP研究所、2007年の該当箇所の記述を確認してみましょう(185~191頁)。
だれが信長を殺したのか (PHP新書) | |
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「天正十年五月二十七日、信長の側近である堀秀政は稲葉貞通(一鉄嫡男)と那波直治に宛てて、直治の稲葉家帰参が信長の上意によって裁定されたことを下達した。その前後のいきさつをすこし長いが、『稲葉家譜』から書き下してみよう。
是の年、那波和泉直治、一鉄の家を去りて明智日向守光秀に仕う。光秀厚くこれを遇し、以て家臣となす。一鉄大いに怒りて曰く、さきに利三を招くのみならず、今また和泉を招くと云て、すなわち、光秀とこれを信長公に訴う。公、光秀に命じて和泉をして一鉄に返さしむ。而(しこう)して内蔵助をして自殺せしめんとす。時に猪子兵助、光秀がために執り成す、故に内蔵助死を免れて光秀に仕う、元の如し。然れども、信長公、光秀が法に背くを怒りて、以てこれを召し、譴責して手を自ら光秀の頭を打つもの二、三に至る、光秀がびん髪(ぱつ)少しきなる故に常に附髪(つけがみ)を用ゆ。この時これを打ち落とされ、光秀深くこれを啣(ふく)む。叛逆の原本はここに発起す。(中略)
このくだりと同工異曲の逸話は俗書である『明智軍記』にもあるほどで、光秀謀叛の怨恨説のひとつにあげられたこともある。『稲葉家譜』もまた近世の編纂物であるため、同様に信頼するに足りない俗説だと斥けられてきた。とくに信長が光秀の頭を叩いたら附髪が落ちたという一節などは、いかにも見てきたような虚説とするか、あるいはリアリティは細部に宿るとみるか、評価が分かれるところではある。
しかし、同書中の堀秀政の書状写しは信頼できると評価しながら、それに関連する叙述は信頼できないとするのはいささか矛盾する態度である。(中略)したがって、右のくだりは多少の誇張や稲葉家に都合のよい解釈があることは否定できないにしても、大筋においては事実に近いと考えてよいのではないか」
それではこの桐野氏の論理を評価してみましょう。
まず、『稲葉家譜』の信憑性を評価する上で欠かせないことは、誰がいつ書いたものかである。桐野氏は上記の文より前の記述で、利三の旧主である稲葉家の正式な家譜のようにみなして書いているが、実はそれがはっきりしていない。書いた人物が特定できていないのだ。また、成立した時期について桐野氏は「近世」という漠とした書き方をしているが、やはりはっきりしていないのである。つまり、この『稲葉家譜』(東京大学史料編纂所架蔵の謄写本)というのは同じ『稲葉家譜』でも山城淀藩、安房館山藩、豊後臼杵藩の『稲葉家譜』のように「稲葉家が編纂した」というお墨付きのない、「極めて筋の悪い書物」なのである。この書をまともに証拠採用している研究者がいないことでも研究界での評価がわかる。
そのような史料であればこそ、信憑性の評価は慎重を期さないといけないのだが、桐野氏は奇妙な論理を展開している。
一つ目は、堀秀政の書状に信憑性があるのだから、これに関連する記述も信憑性があるという論理だ。秀政の書状は「那波直治の稲葉家帰参を信長が認めた」ということだけであり、光秀が直治や利三を引き抜いたとも、一鉄が怒って信長に訴えたとも書かれているわけではない。関連する記述が書状の内容をはなはだしく拡大解釈しているだけなのである。桐野氏は『反・太閤記』などの優れた歴史小説を書いた小説家であるから、歴史小説のテクニックは十分ご存知のはずだ。歴史小説は史実に創作を加えて面白く膨らませるものだ。信憑性ある記述と創作は入り混じっている。一部に信憑性があるから、その他の記述も信憑性があるとは決して言えないことは百も承知のはずだ。
二つ目は、「同工異曲の逸話は俗書である『明智軍記』にもある」と認めていながら、それでも『稲葉家譜』の記述の信憑性を主張する論理である。家譜として書かれたものが世の中に公表されて知れ渡ることはまずない。一方、販売を目的として印刷出版された軍記物は世の中に広く知れ渡る。1700年ごろには出版されてベストセラーとなった『明智軍記』と同じことが書かれていたら、まず『明智軍記』の話を『稲葉家譜』が写したのではないかと疑い、『稲葉家譜』が1700年より以前に成立していたのかどうかを確認すべきである。その確認ができなければ「信憑性あり」と主張する根拠はないことになる。この点は桶狭間の合戦における『信長公記』天理本と『甫庵信長記』の関係とまったく同じ構図だ。
三つ目は「信長が光秀の頭を叩いたら附髪が落ちたという一節などは、いかにも見てきたような虚説とするか、あるいはリアリティは細部に宿るとみるか、評価が分かれるところではある」として、桐野氏は「リアリティあり」と判断していることだ。これは論理の問題ではなくセンスの問題かもしれないが、このリアリティはいかにも小説家が付加しがちなリアリティにしかみえない。光秀が本当に附髪をしていたのか、当時ハゲであったり、附髪を打ち落とされることを恥辱と思う文化があったのか、打ち落とす場に『稲葉家譜』を書いた人物が同席したのかなど「リアリティあり」とするにはあまりに疑問が多い。
四つ目は、『明智軍記』を引き合いに出しているが『絵本太閤記』についてはふれていないことだ。『明智軍記』には那波和泉守が稲葉家へ帰参した後に信長が利三のことを問題にして「稲葉一哲斎ガ郎党斉藤内蔵助ヲ、計略ヲ廻シ汝ガ手前ニ呼取、高知ヲ与ヘ抱置ノ由聞処ナリ。(中略)(信長)御自身握拳ヲ以テ、三ツ四ツ日向守ガ頬(ツラ)ヲ喫(くわせ)ラレケリ」と書かれている。ところが、『明智軍記』より100年後の1800年前後に成立した『絵本太閤記』には『稲葉家譜』の記述にはるかに近いことが書かれている。
「(信長は)内蔵介、和泉守両人に、切腹申附くべし」と怒り給ふ。猪子兵介此の事を気の毒に思い、さまざま信長公を宥めまいらせ、名和和泉守を稲葉へ帰参せしめ、斎藤内蔵介も共に稲葉家へ帰るべしと勧むれども、斎藤敢えて是に随わず、其の儘に光秀に仕えけり。信長公猶も御怒解け給はず、又光秀を召て、責て宣ふやうは、「法に背き禮に違ひ、内蔵介を元のごとく召仕ふ事、我を侮り蔑如にする條奇怪なり」とて、近士に命じ、竹刀を以て光秀をうち出させ給ふ。光秀恥辱かぎりなく、一向(ひたすら)信長公を恨みまいらせける」
『絵本太閤記』は『明智軍記』などの様々な軍記物の話を取り込んで、庶民向けに絵入りで書かれて大ベストセラーになり、人形浄瑠璃や歌舞伎の台本としても使われた大人のおとぎ話である。利三が切腹を命じられたことや猪子兵介が執り成した話は『稲葉家譜』と同じだ。逆に『稲葉家譜』から見ると『絵本太閤記』の内容に「附髪が落ちた」話を書き加えたものが『稲葉家譜』になっているのだ。桐野氏の論理に従えば、『稲葉家譜』と類似の記述のある『絵本太閤記』についても「信憑性を疑問視されている『絵本太閤記』の信憑性の再評価が必要」ということになる。
それでは『絵本太閤記』と『稲葉家譜』はどちらが先に成立したのであろうか?
『絵本太閤記』1800年前後に成立したことがわかっているが、『稲葉家譜』の成立について桐野氏は「近世」というあいまいな書き方しかしていない。
『稲葉家譜』は東京大学史料編纂所データベースに登録されており、インターネットを通じて見ることができる。巻一から巻四十一に分かれており、さらに巻ごとに1頁ずつファイルが分割されているので、1頁ずつ開いてみないと何が書かれているかわからないという大変不便なシステムである。問題の記述の箇所が巻四の「260」ファイルから書かれていることを見つけるだけでも大変な手間である。
>>> 東京大学史料編纂所データベース
この巻四が書かれた年は文中に書かれている最後の年よりも後と推定できる。巻四に書かれている年で最後のものは「天和元年」と確認できたので、少なくとも1681年以後に巻四が書かれたことは確実である。しかし、巻四十一まで書いて『稲葉家譜』として完成した年が問題である。その年に巻一からのすべてが書かれた可能性があるからだ。巻四の問題の記述中の「自殺」「譴責」という言葉はいかにも近代の用語に思え、相当時代が下ると推測される。巻四十一からさかのぼって書かれている年を探してみたところ巻四十の「010」ファイルに天保十二年と書かれていた。1841年である。この年以降に書かれたのであれば、『稲葉家譜』の作者は『絵本太閤記』を当然読むことができる。
つまり、『絵本太閤記』の作者が『稲葉家譜』を読んだ蓋然性よりも『稲葉家譜』の作者が『絵本太閤記』を読んだ蓋然性の方がはるかに高いのである。したがって、『稲葉家譜』の記述には信憑性がないと結論付けることができる。
このように『稲葉家譜』の信憑性確認の作業を進めていく中で、実はある重大なことに気が付きました。それは『稲葉家譜』に信憑性ありする桐野氏の唱える説は「桐野氏のオリジナルではなかった」という事実です。
信長研究者必携の文書集である奥野高廣著『織田信長文書の研究 補遺』吉川弘文館の251~252頁に『稲葉家譜』の問題部分の文章が記載され、その解説として桐野氏の主張とまったく同じ趣旨の文が書かれているのです。
「なお東京大学史料編纂所架蔵の謄写本『稲葉家譜』は、通貞から幾通の天保年間までを収めた四十一冊。一巻の末尾に家老那波久五郎衆親と那波源四郎親保の連名があり、第二に家老那波源四郎親保の名が見える。編集者らしいが、この人たちの来歴が未詳のため『稲葉家譜』の成立について、判然としないのは残念である。しかし正しいと思われる古文書(注:堀秀政の書状を指す)を引用しているので、この『稲葉家譜』は信用に価する(拙稿「茶事二題」『日本歴史』四〇四号参照)」
この文書集が出版されたのは1998年。桐野氏の『だれが信長を殺したのか』が出版されたのが2007年。桐野氏の本には参考文献としてこの文書集の名が書かれています(286頁)。「同書中の堀秀政の書状写しは信頼できると評価しながら、それに関連する叙述は信頼できないとするのはいささか矛盾する態度である」と書いた187頁前後には「奥野廣高氏が文書集で主張したように」といった記述は見当たりませんが、それでも、桐野氏が参考文献にあげた文書集に書かれている奥野氏の説を読んでいた蓋然性は高いといえるでしょう。このブログのタイトルも「桐野作人氏の奇妙な論理」ではなく、「奥野廣高氏の奇妙な論理」に書き換える必要があるのかもしれません。
こうして調べてみるといかに馬鹿げた話かがよくご理解いただけたと思いますが、このような話を信じ込んでしまっている人は結構多いようです。amazonカスタマーレビューに、その典型的なレビューコメントが書かれているのでご覧ください。「違ってますよ!」と親切に教えていただけると幸いです。
>>> 信じ込んでいる人のamazonカスタマーレビュー
【他にもある、奇妙な論理】
>>> 兼見卿記:金子拓准教授の強引な論理
もっと「奇妙な論理」の実例を知りたい方におすすめの本『「本能寺の変」は変だ!』
簿記検定史受験対策講座を開設している公認会計士柴山政行氏の「おすすめ本」動画です。『「本能寺の変」は変だ』明智憲三郎著。ご覧ください。5分間で大変わかりやすく解説されています。 >>> YouTube動画へ
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織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
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『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』明智憲三郎著・河出書房新社の書評をいくつかいただきましたので、ご紹介します。
ビジネスモデル・プロヂューサー河辺よしろう氏
明智憲三郎先生の新著がやっと手元に届きました❗️
今回は謎だった明智光秀の前半生を完全解明!って事で期待が高まります!
理系的な明智憲三郎先生の歴史調査の大ファンです。先生の著書はすべてコレクションしてあります(笑)
先生は商業的な動機で執筆されていないので、命をかけた著書はほんとうに素晴らしい歴史本ばかりです。
売れるからと言う理由だけで出版をしたがる輩とは一線を画します❗️
amazonカスタマーレビュー
私のイメージでは,本能寺の変のときの光秀の年齢は,45歳ぐらいでした。
この本を読んでびっくりしました。
読者が裏取りができるように資料も列挙されています。歴史好きが増えそうですね。
土岐氏末裔
アマゾンで予約注文していてのが、本日配達されました。先ずは、小生のいつもの癖で、「エピローグ」と「おわりに」を読みました。読み進むうちに、なにか、著者の気持ちが響いてきて、熱くこみ上げてくるものがあって、感動しました。
私のルーツ、大垣市とか、で今のうちにいろいろと調べてみようと、先ずは大垣市図書館を訪ねようと、意を固くしました。私の周囲で知る人が、殆んど居なくなりましたので。 まさしく私の、「歴史捜査」でしょう。
明日からは、この本、じっくりと最初から、読もうと思ってます。
読者のブログ
明智光秀の末裔の著者が、光秀の「前半生」と出自を系譜などの史料から解明しようという一冊。
引用した系図に丸数字を付けて、それを用いて、以降説明するので
結果、簡潔になり、わかりやすい。
本の前半で「前半生」を解明していくが、
前半3分の1ぐらいの頁で、そこまでに結論づけた「前半生年表」があり
把握がしやすい。
この本はそのほか「連署状の年号解明一覧表」など
図や表が多いので解説を読むのに理解しやすい。
読者のFACEBOOK投稿
明応の政変、頼典の義絶、頼武・頼純への奉公、美濃と越前の幾多の往復、幕府奉公衆、幕府と信長のブリッジ、幕府から信長へと、ずずずぃ〜っと繋がる繋がる!すげー!
プロローグにあるとおり、生涯編から入って系譜編で逐一深めたり固めたりする読み方がおすすめ。
amazon読者書評「ここにいたか!!光秀!」
大変よく読み込んでくださった読者からのコメントです。
明智憲三郎氏の歴史捜査はこれまで、本能寺の変の真相に迫り、信長脳を解き明かしてきましたが、今回はついに、氏の研究の本丸であろう明智光秀の生涯を照らし出します。(中略)
本能寺の変についても、新たに紹介された史料によって明智説はさらに蓋然性を増し、足蹴事件についてはさらに一歩踏み込んだ推理が展開されます。従来の陰謀諸説や怨恨説、偶発説は、本書および光秀プロジェクトHPで公表された「明智光秀全史料年表」を参照しながら、一つ一つ信憑性の検証をしていけばよいでしょう。いわれのない誹謗中傷や不毛な議論、根拠の薄弱な説は今後淘汰されていくものと信じています。
さて、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」はどんな作品になるでしょう。本書で解明された光秀の足跡がどの程度考慮され、脚本でどのように肉付けされ、感情が吹き込まれ、戦国武将たちがキャラ立ちして躍動するのか。そして、光秀、信長、秀吉、家康、各々の策謀が重層的に同時進行し、めまぐるしく事態が変転していく本能寺の変の全貌を、映像でどのように魅せてくれるのか。番組放送まで本書をくりかえし読んで、また全史料年表にゆっくり目を通して、なぜ順慶は裏切ったのだろう、信忠はなぜ信長の命令を無視してまで京都に戻ったのだろう、などあれこれ想像しながら、明智光秀のドラマ化を楽しみに待ちたいと思います。
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【2018年5月25日記載】No19
amazon『織田信長 435年目の真実』カスラマーレビューより
父信秀から受け継いだ孫子の兵法により信長脳が形成されたことを論証しようとする著者の新見解が述べられた大変スリリングな本である。歴史の謎を解く醍醐味を本書で味読することができる。桶狭間の合戦で信長は「兵力に勝る敵を分断して死地に追い込め」という孫子の兵法に基づき、今川軍を挑発して自分の城を攻撃させるように仕向けて、残された義元軍の主力を桶狭間に閉じ込め、信長は少ない軍勢で総攻撃をかけ、義元の首を取ることができたと主張する。その手際は実に見事であり、信長の勝利は偶然でも幸運でもなく、必然であると言う。あまりにこの説明が見事なので、著者に説得されてしまうのだが、果たして本当にそうだったのか?話は出来すぎているのではないか?そのような疑問も沸き起こる。理論通りにいかないのが歴史ではないか?偶然的・幸運的な要素もあったのではないか?本当に10倍の兵力を持つ敵軍に孫子の兵法のみで立ち向かえるのか?まずは本書を手に取って著者の語りを聞いて欲しい。お勧めの歴史本だ。
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【明智憲三郎著作一覧】
2016年5月発売
『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
>>> 文芸社のページ
2015年7月発売
『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎
>>> 幻冬舎のページ
2013年12月発売
『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫
>>> 文芸社のページ
2009年3月発売
『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
(この記事は2015年7月31日投稿の記事に加筆修正したものです)
「小説とは真実を書こうとしたものではない」という基本的な事実を小説家である桐野氏はもちろん十二分にご理解のはずなのですが、残念です。
という観点がかかれていないことが残念です。
史実とそのまま書き記すのと、すべてを物語で書き記す、どちらが可能性として高いか。
まったくでたらめを書いていたら、私たちがする前に、当時の人間に批判されてしまうことでしょう。
>>巻四十の「010」ファイルに天保十二年と書かれていた。1841年である。
という箇所が圧巻でした。明治にも近くなったころですね。