前回の謎解きで玄琳作のB5続群書類従・明智系図の「書き足し」部分の信ぴょう性が低いことがわかりました。
ところが光秀の子・光慶が生き延びて玄琳となったいう説を唱える人がいます。Wikidediaの記述をみてみましょう。
光秀の長男の十五郎光慶は、父に従い本能寺の変や山崎の戦いに参加し、坂本城で自害したとも、亀山城で亡くなったともいわれ、はっきりしていない。生き延びて、京都妙心寺の住職玄琳になったという説もある。
光慶は出家し、妙心寺の塔頭・瑞松院に住して「玄琳」を名乗った。瑞松院は、江戸初期には光秀の妻・煕子の実家である旗本妻木氏が檀那となっていた。また、玄琳の師は大心院主・三英瑞省で、光秀の三女・珠(細川ガラシャ)の夫・細川忠興が檀那となっていた。
妙心寺には「明智風呂」と呼ばれる蒸し風呂形式の浴室がある。光秀の菩提を弔うために建てられたと言われており、国の重要文化財に指定されている。
また玄琳は、「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成したと言われている。
上記の解説にあるように光慶が生き延びて玄琳になったという説があります。
しかし、それは次の二つの証拠によって否定できます。
1.連歌の参加者名簿
伝存する連歌の記録を収録した『連歌総目録』という本があります。これには催された連歌の日付、場所、連衆(参加者)、発句(最初の句)、連衆別の句数などが書かれています。光慶は光秀と同座した記録が1578年3月10日から82年5月24日までの4年2か月間に5回あります。
光秀の同座者としては1574年閏11月2日に自然丸の記録があります。自然丸が参加した連歌が光秀の居城のある近江坂本で催されたものであることから、自然丸は光秀の子とみられます。自然丸の参加した連歌には光慶の名がなく、3年半後の光慶の参加した連歌以降には自然丸の名がないことから、自然丸は光慶の幼名、つまり両者は同一人とみられます。
2.B5続群書類従・明智系図の光秀の子
玄琳が作成した「明智系図」に書かれている光秀の男児は以下の5人です。
玄琳(妙心寺塔頭)、安古丸(山崎合戦で討死)、不立(音羽川辺で横死)、十内(坂本城で自害)、自然(坂本城で死亡)、内治麻呂
このように、玄琳と自然丸は別人として書かれています。
以上の二つの証拠から「光慶=自然丸≠玄琳」となります。
この「明智系図」は玄琳自身が書いたものなので、「自然丸≠玄琳」は間違いありません。「光慶=自然丸」は伝存していない連歌の記録に光慶と自然丸が同座した記録がないとは言い切れない、という留保が付きます。
しかし、もし、二人が別人だった場合に、なぜ光慶が同座するようになってから自然丸は同座しなかったのかの説明が付きません。やはり、「光慶=自然丸」も極めて高い確度といえます。よって、「玄琳は光慶ではない」と結論付けてよいと考えます。
次回は他の系図から光秀の子の捜査を行ってみます。
>>>つづく:光秀の子の推理へ
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『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度
ところが光秀の子・光慶が生き延びて玄琳となったいう説を唱える人がいます。Wikidediaの記述をみてみましょう。
光秀の長男の十五郎光慶は、父に従い本能寺の変や山崎の戦いに参加し、坂本城で自害したとも、亀山城で亡くなったともいわれ、はっきりしていない。生き延びて、京都妙心寺の住職玄琳になったという説もある。
光慶は出家し、妙心寺の塔頭・瑞松院に住して「玄琳」を名乗った。瑞松院は、江戸初期には光秀の妻・煕子の実家である旗本妻木氏が檀那となっていた。また、玄琳の師は大心院主・三英瑞省で、光秀の三女・珠(細川ガラシャ)の夫・細川忠興が檀那となっていた。
妙心寺には「明智風呂」と呼ばれる蒸し風呂形式の浴室がある。光秀の菩提を弔うために建てられたと言われており、国の重要文化財に指定されている。
また玄琳は、「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成したと言われている。
上記の解説にあるように光慶が生き延びて玄琳になったという説があります。
しかし、それは次の二つの証拠によって否定できます。
1.連歌の参加者名簿
伝存する連歌の記録を収録した『連歌総目録』という本があります。これには催された連歌の日付、場所、連衆(参加者)、発句(最初の句)、連衆別の句数などが書かれています。光慶は光秀と同座した記録が1578年3月10日から82年5月24日までの4年2か月間に5回あります。
光秀の同座者としては1574年閏11月2日に自然丸の記録があります。自然丸が参加した連歌が光秀の居城のある近江坂本で催されたものであることから、自然丸は光秀の子とみられます。自然丸の参加した連歌には光慶の名がなく、3年半後の光慶の参加した連歌以降には自然丸の名がないことから、自然丸は光慶の幼名、つまり両者は同一人とみられます。
2.B5続群書類従・明智系図の光秀の子
玄琳が作成した「明智系図」に書かれている光秀の男児は以下の5人です。
玄琳(妙心寺塔頭)、安古丸(山崎合戦で討死)、不立(音羽川辺で横死)、十内(坂本城で自害)、自然(坂本城で死亡)、内治麻呂
このように、玄琳と自然丸は別人として書かれています。
以上の二つの証拠から「光慶=自然丸≠玄琳」となります。
この「明智系図」は玄琳自身が書いたものなので、「自然丸≠玄琳」は間違いありません。「光慶=自然丸」は伝存していない連歌の記録に光慶と自然丸が同座した記録がないとは言い切れない、という留保が付きます。
しかし、もし、二人が別人だった場合に、なぜ光慶が同座するようになってから自然丸は同座しなかったのかの説明が付きません。やはり、「光慶=自然丸」も極めて高い確度といえます。よって、「玄琳は光慶ではない」と結論付けてよいと考えます。
次回は他の系図から光秀の子の捜査を行ってみます。
>>>つづく:光秀の子の推理へ
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残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度
その他の子は正式な子でも正式の場に出せないほど幼かったか、あるいは正式の場には出せない子だったと思われます。それが側室の子、庶子、一族の子なのかはわかりませんが、何人かいたのだと思います。その子たちは坂本城にはおらず、どこかに逃れたのだと思います。
玄琳もそのような子の一人だったのでしょう。あいまいな記憶を頼りに光秀の父や子の名前、消息を系図に書き込んだのではないでしょうか。その視点から続群書類従・明智系図の記載内容を精査してみる価値があると思います。
謎に満ちた光秀の子供達の真実、気になりますね…。私なりに気づいたのですが、上記の男児のうち2人『十内(坂本城で自害)、自然(坂本城で死亡)』
というのは フロイスの『(坂本城で)明智の
二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほど…』という記述と一致しますね…