織田信長の本能寺での最期の場面は『信長公記』とフロイス『一五八二年日本年報追加』にそれぞれ描写がありますが、微妙に「似て非」なものです。その部分の文章をまずご紹介します。
【信長公記】
信長は初め弓を取り、二つ三つ射たところ弓の弦(つる)が切れ、その後、槍(やり)で戦ったが、肘(ひじ)に槍疵を負い、引き退いた。(桑田忠親校注・太田牛一『信長公記』より意訳)
【一五八二年日本年報追加】
信長はこの矢を抜いて薙刀(なぎなた)、すなわち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉じた。(村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』)
『一五八二年日本年報追加』が1582年の本能寺の変の4か月後には書きあげられていたのに対して、『信長公記』がはるかにのちの1600年ころに成立したといわれていることから、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』では太田牛一の素稿(後に『信長公記』に編纂されることになるもの)が本能寺の変直後に書かれ、これが京都のイエズス会に渡ってポルトガル語に翻訳されたのち、九州にいるフロイスへ届いた、と推理しました。加えて、当時のイエズス会士の日本語能力が低かったためにポルトガル語に翻訳する際に誤訳して微妙な差が生まれたと推理したのです。「やりをなぎなた、やりきずを鉄砲きず」に誤訳したとみました。(241頁「フロイスが頼った情報源」)
ところが、これを覆す新事実を見つけました。2009年11月に出版された金子拓氏著『織田信長という歴史』に書かれていました。
【金子拓氏の著書】
この本は『信長公記』の複数の自筆本と多数の写本の系統を研究・整理したものです。『信長公記』は木版印刷されて出版されたわけではなく、太田牛一の自筆本を写し取ることで写本を作って広まりました。加えて、牛一は自筆本を何冊も書いたので、その都度記載内容にいろいろ変化が生じました。たとえば、信長や家康に敬称が付いていたり、呼び捨てだったり、あるいは信長を「上様」と書いたり。こういった内容の差異を整理していくとどの自筆本からどの写本が作られたのか、という系統がわかってくるわけです。実際には自筆本の残存数が極めて少なかったり、写本をつくる際の書き換えなどもあって、かなり複雑な状況が起きています。
この本の307頁に次の記述があります。『信長公記』原文の引用部分は私が現代語風に訳しています。文中の池田家本、尊経閣本はそれぞれの系統の原本につけられた名前です。池田家本は牛一自筆ですが尊経閣本は写本です。
池田家本は「その後、御鑓(やり)にて御戦いになり、御肘に鑓疵を被り、引き退いた」とあるが、尊経閣本では「その後、御長刀(なぎなた)取らせられ候ところに、御肘に鉄砲あたり、引き退き候」となっている。
尊経閣本以外は池田本と同じ内容となっており、私が参照した桑田忠親校注の新人物往来社から出版されている『信長公記』は町田本をベースにしており、池田本と同内容となっていました。
ところが、尊経閣本はなんとフロイス『一五八二年日本年報追加』と同内容なのです!「やりをなぎなた、やりきずを鉄砲きず」と書いてあるのです。
これから推理できることは以下の通りです。
太田牛一が本能寺の変直後に書いた素稿は尊経閣本の原本だった。その原稿(あるいは写し取ったもの)が京都のイエズス会を経由してフロイスへ渡った。誤訳はなく、牛一の原稿を正しくポルトガル語に翻訳していた。
また、尊経閣本は数ある『信長公記』の中で最も原型に近いものであるといえることになります。
まだまだ『信長公記』研究は始まったばかりの状況です。私の上記の推理がひとつの参考になって研究が加速されることを期待します。
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【信長公記】
信長は初め弓を取り、二つ三つ射たところ弓の弦(つる)が切れ、その後、槍(やり)で戦ったが、肘(ひじ)に槍疵を負い、引き退いた。(桑田忠親校注・太田牛一『信長公記』より意訳)
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信長はこの矢を抜いて薙刀(なぎなた)、すなわち柄の長く鎌の如き形の武器を執って暫く戦ったが、腕に弾創を受けてその室に入り戸を閉じた。(村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』)
『一五八二年日本年報追加』が1582年の本能寺の変の4か月後には書きあげられていたのに対して、『信長公記』がはるかにのちの1600年ころに成立したといわれていることから、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』では太田牛一の素稿(後に『信長公記』に編纂されることになるもの)が本能寺の変直後に書かれ、これが京都のイエズス会に渡ってポルトガル語に翻訳されたのち、九州にいるフロイスへ届いた、と推理しました。加えて、当時のイエズス会士の日本語能力が低かったためにポルトガル語に翻訳する際に誤訳して微妙な差が生まれたと推理したのです。「やりをなぎなた、やりきずを鉄砲きず」に誤訳したとみました。(241頁「フロイスが頼った情報源」)
ところが、これを覆す新事実を見つけました。2009年11月に出版された金子拓氏著『織田信長という歴史』に書かれていました。
【金子拓氏の著書】
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クリエーター情報なし | |
勉誠出版 |
この本は『信長公記』の複数の自筆本と多数の写本の系統を研究・整理したものです。『信長公記』は木版印刷されて出版されたわけではなく、太田牛一の自筆本を写し取ることで写本を作って広まりました。加えて、牛一は自筆本を何冊も書いたので、その都度記載内容にいろいろ変化が生じました。たとえば、信長や家康に敬称が付いていたり、呼び捨てだったり、あるいは信長を「上様」と書いたり。こういった内容の差異を整理していくとどの自筆本からどの写本が作られたのか、という系統がわかってくるわけです。実際には自筆本の残存数が極めて少なかったり、写本をつくる際の書き換えなどもあって、かなり複雑な状況が起きています。
この本の307頁に次の記述があります。『信長公記』原文の引用部分は私が現代語風に訳しています。文中の池田家本、尊経閣本はそれぞれの系統の原本につけられた名前です。池田家本は牛一自筆ですが尊経閣本は写本です。
池田家本は「その後、御鑓(やり)にて御戦いになり、御肘に鑓疵を被り、引き退いた」とあるが、尊経閣本では「その後、御長刀(なぎなた)取らせられ候ところに、御肘に鉄砲あたり、引き退き候」となっている。
尊経閣本以外は池田本と同じ内容となっており、私が参照した桑田忠親校注の新人物往来社から出版されている『信長公記』は町田本をベースにしており、池田本と同内容となっていました。
ところが、尊経閣本はなんとフロイス『一五八二年日本年報追加』と同内容なのです!「やりをなぎなた、やりきずを鉄砲きず」と書いてあるのです。
これから推理できることは以下の通りです。
太田牛一が本能寺の変直後に書いた素稿は尊経閣本の原本だった。その原稿(あるいは写し取ったもの)が京都のイエズス会を経由してフロイスへ渡った。誤訳はなく、牛一の原稿を正しくポルトガル語に翻訳していた。
また、尊経閣本は数ある『信長公記』の中で最も原型に近いものであるといえることになります。
まだまだ『信長公記』研究は始まったばかりの状況です。私の上記の推理がひとつの参考になって研究が加速されることを期待します。
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尊経閣の信長記といえば、光秀は田んぼに隠れていたところを百姓たちが討ち取った、という変わった記述がある本ですね。フロイス日本史にも、田んぼで、と同じ内容とのこと。銃創の記事と合わせて、田んぼの件も併記すると確実と思います。
引用は、歴史読本8月号(2007年)別冊付録の「信長記の大研究」から。
チョットした疑問なんですが、
本城惣右衛門談では、「境内では蚊帳がつるしてある」と書かれていますが、この場合?周りの障子は開放状態で、梅雨時の蒸し暑い日と思えばいいのでしょ~か?
(この時、信長が戦闘不可となり奥の部屋に閉じこもり、火を点けて自害した事に成っています。)
私の疑問。
*秋の乾燥した季節でも無いのに一瞬で火が回るのか?
*開放状態の部屋の障子を閉めながら逃げる余裕が有るのか?
*大勢の明智兵は、誰一人、信長の後を追わず、火の回るのをただ、待っていたのか??
皆さんは、こんな事考えた事は有りませんか?