玄琳の書いたA5続群書類従・明智系図の謎について2回に分けて推理してきました。その結果、やはり玄琳の「書き足し」部分の信憑性は低く、光秀の子の記述も出鱈目とみるのがよさそうです。
★ 明智系図の歴史捜査6:玄琳作明智系図の謎
★ 明智系図の歴史捜査7:玄琳作明智系図の謎解き
そうすると、信憑性のある系図群であるA系の頼基・頼重系には光秀の子の書かれた系図がないことになります。これ以上の捜査は不能ということです。
一縷の望みをかけてB系の頼清・頼兼系の光秀の子も確認してみましょう。B2系図纂要・明智系図、B3熊本安国寺蔵・三宅系図、B5土佐諸家系図・土岐系図に光秀の子が書かれています。
この内、B2とB5は『明智軍記』の文章記述を系図形式に書き改めたものなので、基本的に『明智軍記』と同じです。『明智軍記』には光秀の子として下記の人物名が書かれています。
明智光春妻、明智光忠妻、細川忠興妻、織田信澄妻、光慶、十次郎、乙寿丸
『明智軍記』は悪書の極み(高柳光寿著『明智光秀』)と言われている割には、この光秀の子の構成は意外にも全く出鱈目ともいえないのです。
明智光春は『明智軍記』の作った名前ですが、明智秀満(三宅弥平次)に相当します。細川忠興妻はガラシャ、織田信澄妻も存在が確認できています。光慶は光秀の嫡男として確認できています。
光慶の弟の十次郎、乙寿丸という名前は確認できていませんが、ルイス・フロイスや天王寺屋宗及の書いた史料に「光秀の男児二人」が書かれているので、光慶弟が一人いたことは確かです。ただし、「光秀の男児二人」は公式の場に出てきた子ですので、さらに幼少の子がいた可能性もあります。存在が確認できないのは明智光忠妻です。
残るB系で光秀の子が書かれているのがB3熊本安国寺蔵・三宅系図(細川家伝来明智光秀公覚書)です。そこに書かれている光秀の子が下記です。実にたくさん書かれています。
明智光俊妻、明智光忠妻、晴光(玄琳)、細川忠興妻、織田信澄妻、(養女)山岸光継妻、光慶(千代寿丸または自然丸)、光泰(吉寿丸)、乙寿丸または安古丸、松寿丸(子孫明田と号す)、秀寿丸(三宅藤兵衛)、(養女)筒井定次妻、僧不立、於鶴丸(十内、時田十太夫)、川勝丹波守妻、井戸利政妻、光保(内治麿、服部平太夫(改め蓑笠之助)、某(大石内蔵助祖父)、冬廣(若狭大掾)、原久頼妻、彦丸(志賀郡高城村住)
茶色の人物名は『明智軍記』から持ってきた人物です。明智光俊は『明智軍記』では明智光春と書かれた人物のことです。赤字・下線の人物は玄琳の作ったA5続群書類従・明智系図に書かれている光秀の子と共通しています。
二つの系図に書かれていることが一致している、特に玄琳が両方に書かれているが故に、二つの系図は信ぴょう性があると考えるのは早計です。
単にB3熊本安国寺蔵・三宅系図がA5続群書類従・明智系図を参考にして作っただけに過ぎないのです。実は、A5続群書類従・明智系図は熊本の喜多村家後裔中瀬家に伝来するものなのです。同じ熊本に伝来するB3はこれを見て作ったとみるのが妥当です。
このB3の系図は『明智軍記』とA5の両方を取り込み、そして独自の子を追記しました。追記された子の内、下線を引いた人物は当時の書物に名前の出てくる有名人が使われています。かなり無茶な配役です。年齢的にも合わない人物が書かれています。
この系図が作られたのが、記載されている大石内蔵助が有名になってからですから、元禄十五年(1702)以降であることは明らかです。その時点でこの系図の作者が入手できる、それらしい情報をかき集めて作ったと思われます。
なお、松寿丸に注記された「子孫明田と号す」という記述は寛政三年(1791)に成立したとされる『翁草』に「光秀の子孫・明田云々が京都で光秀の墓をもらいうけた」旨が書かれているのと合致しています。『翁草』の記述を見ると、当時、明田姓の光秀子孫がいることはかなり広く知られていたことのようです。
ところで、私の家系は明治時代になるまで「明田姓」でした。また、祖父の記憶では伝承されていた系図の光秀の子は「於隺丸」。B3の系図に「於鶴丸」と書かれているのと合致します。これによって、私の家系の伝承が証明された、と言うにはあまりにもこのB3系図が出鱈目で証拠採用できないのが残念です。
>>>つづく:系図を科学するへ
**************************************
『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度
★ 明智系図の歴史捜査6:玄琳作明智系図の謎
★ 明智系図の歴史捜査7:玄琳作明智系図の謎解き
そうすると、信憑性のある系図群であるA系の頼基・頼重系には光秀の子の書かれた系図がないことになります。これ以上の捜査は不能ということです。
一縷の望みをかけてB系の頼清・頼兼系の光秀の子も確認してみましょう。B2系図纂要・明智系図、B3熊本安国寺蔵・三宅系図、B5土佐諸家系図・土岐系図に光秀の子が書かれています。
この内、B2とB5は『明智軍記』の文章記述を系図形式に書き改めたものなので、基本的に『明智軍記』と同じです。『明智軍記』には光秀の子として下記の人物名が書かれています。
明智光春妻、明智光忠妻、細川忠興妻、織田信澄妻、光慶、十次郎、乙寿丸
『明智軍記』は悪書の極み(高柳光寿著『明智光秀』)と言われている割には、この光秀の子の構成は意外にも全く出鱈目ともいえないのです。
明智光春は『明智軍記』の作った名前ですが、明智秀満(三宅弥平次)に相当します。細川忠興妻はガラシャ、織田信澄妻も存在が確認できています。光慶は光秀の嫡男として確認できています。
光慶の弟の十次郎、乙寿丸という名前は確認できていませんが、ルイス・フロイスや天王寺屋宗及の書いた史料に「光秀の男児二人」が書かれているので、光慶弟が一人いたことは確かです。ただし、「光秀の男児二人」は公式の場に出てきた子ですので、さらに幼少の子がいた可能性もあります。存在が確認できないのは明智光忠妻です。
残るB系で光秀の子が書かれているのがB3熊本安国寺蔵・三宅系図(細川家伝来明智光秀公覚書)です。そこに書かれている光秀の子が下記です。実にたくさん書かれています。
明智光俊妻、明智光忠妻、晴光(玄琳)、細川忠興妻、織田信澄妻、(養女)山岸光継妻、光慶(千代寿丸または自然丸)、光泰(吉寿丸)、乙寿丸または安古丸、松寿丸(子孫明田と号す)、秀寿丸(三宅藤兵衛)、(養女)筒井定次妻、僧不立、於鶴丸(十内、時田十太夫)、川勝丹波守妻、井戸利政妻、光保(内治麿、服部平太夫(改め蓑笠之助)、某(大石内蔵助祖父)、冬廣(若狭大掾)、原久頼妻、彦丸(志賀郡高城村住)
茶色の人物名は『明智軍記』から持ってきた人物です。明智光俊は『明智軍記』では明智光春と書かれた人物のことです。赤字・下線の人物は玄琳の作ったA5続群書類従・明智系図に書かれている光秀の子と共通しています。
二つの系図に書かれていることが一致している、特に玄琳が両方に書かれているが故に、二つの系図は信ぴょう性があると考えるのは早計です。
単にB3熊本安国寺蔵・三宅系図がA5続群書類従・明智系図を参考にして作っただけに過ぎないのです。実は、A5続群書類従・明智系図は熊本の喜多村家後裔中瀬家に伝来するものなのです。同じ熊本に伝来するB3はこれを見て作ったとみるのが妥当です。
このB3の系図は『明智軍記』とA5の両方を取り込み、そして独自の子を追記しました。追記された子の内、下線を引いた人物は当時の書物に名前の出てくる有名人が使われています。かなり無茶な配役です。年齢的にも合わない人物が書かれています。
この系図が作られたのが、記載されている大石内蔵助が有名になってからですから、元禄十五年(1702)以降であることは明らかです。その時点でこの系図の作者が入手できる、それらしい情報をかき集めて作ったと思われます。
なお、松寿丸に注記された「子孫明田と号す」という記述は寛政三年(1791)に成立したとされる『翁草』に「光秀の子孫・明田云々が京都で光秀の墓をもらいうけた」旨が書かれているのと合致しています。『翁草』の記述を見ると、当時、明田姓の光秀子孫がいることはかなり広く知られていたことのようです。
ところで、私の家系は明治時代になるまで「明田姓」でした。また、祖父の記憶では伝承されていた系図の光秀の子は「於隺丸」。B3の系図に「於鶴丸」と書かれているのと合致します。これによって、私の家系の伝承が証明された、と言うにはあまりにもこのB3系図が出鱈目で証拠採用できないのが残念です。
>>>つづく:系図を科学するへ
**************************************
『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
![]() | 本能寺の変 四二七年目の真実明智 憲三郎プレジデント社このアイテムの詳細を見る |
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度