拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』への批判を書いた藤本正行氏・鈴木眞哉氏の著書への反論を書いていくうちに、ご両人の唱える説が50年前の高柳光寿氏『明智光秀』の踏襲に過ぎないことを見破りました。そこで、あらてめて高柳説の批判を整理して書くに至りました。以下のページがその成果ですが、現代の本能寺の変研究の定説の正体を暴いていると思います。
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
より多くの方にこの事実を知っていただきたいと思い、amazonの高柳氏・藤本氏・鈴木氏の著書のカスタマレビューにコメントを書きました。是非、ご一読いただいて、ご賛同いただけるようでしたら「このレビューは参考になりましたか?」に「はい」をクリックしていただけると幸いです。
歴史研究界の壁はとても高くて厚いと実感しています。でも、「蟻の穴から堤も崩れる」という言葉もあります。強固に見えた「ベルリンの壁」も突如崩れました。長い年月がかかっても、この高くて厚い壁が崩れる日が来ると期待しています。皆さんのクリックの積み重ねがそういう日を招きよせるのかもしれません。
★ amazon『明智光秀』カスタマレビュー
★ amazon『信長は謀略で殺されたのか』カスタマレビュー
★ amazon『本能寺の変~信長の油断・光秀の殺意』カスタマレビュー
★ amazon『戦国「常識・非常識」大論争!』カスタマレビュー
>>>トップページ
>>>ブログのご案内
>>>本能寺の変 四二七年目の真実
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
より多くの方にこの事実を知っていただきたいと思い、amazonの高柳氏・藤本氏・鈴木氏の著書のカスタマレビューにコメントを書きました。是非、ご一読いただいて、ご賛同いただけるようでしたら「このレビューは参考になりましたか?」に「はい」をクリックしていただけると幸いです。
歴史研究界の壁はとても高くて厚いと実感しています。でも、「蟻の穴から堤も崩れる」という言葉もあります。強固に見えた「ベルリンの壁」も突如崩れました。長い年月がかかっても、この高くて厚い壁が崩れる日が来ると期待しています。皆さんのクリックの積み重ねがそういう日を招きよせるのかもしれません。
★ amazon『明智光秀』カスタマレビュー
★ amazon『信長は謀略で殺されたのか』カスタマレビュー
★ amazon『本能寺の変~信長の油断・光秀の殺意』カスタマレビュー
★ amazon『戦国「常識・非常識」大論争!』カスタマレビュー
>>>トップページ
>>>ブログのご案内
>>>本能寺の変 四二七年目の真実
![]() | 本能寺の変 四二七年目の真実明智 憲三郎プレジデント社このアイテムの詳細を見る |
結果は・・・斬られて当然でしたね。。。
昔、明智様に聞いた、西国に荷物を送る話が載っていました。
元家臣の山崎長門守や林亀之助の遺談で、大した問題でない事を記したのは記憶に残る一大事なので史実と考えられる。
この話は、某「明智光秀」のお偉い人の本にも載っていましたが、その遺談と言う証拠が無いです!「武功夜話」を斬った人の話とは思えない都合の良い解釈・・・。
私なら!この荷を送った日が5月29日(笑)なので!(推理小説風に言うと)
この日!実は本能寺に送られた!、公家衆が信長のお迎えに出た為、誰も気が付かなかった!信長の入洛が遅れたのは!この為だった!家康討ちの準備と考えられる。。。
合理主義の信長が、西国に行くのに安土城に兵を集めさせて置くのは、不自然、京へ来さすのが一番では無いか?
さらに!光秀公は留守中、城の改修工事と諸国の警戒をさせている。それは何故?それは事件の前触れを予感しているのではないか?
本能寺の変後に送られた、細川藤孝宛の手紙では、古くから偽文書とする説があるが、第三者には解らない当事者同士しか解らない内容なので偽文書でないと言う。
では何故!忠興と呼び捨てて、後から与一郎殿なのか?? 手紙に関しては信長から、評判のいい筈の光秀公らしからぬ内容です。
(丹波攻略時には、丹波衆には殿付の書文・重臣は呼び捨て書きと書き分けています。)
この文は偽文ではないかと思えてきました。