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本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:賢者は歴史に学ぶ

2011年04月07日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 愚者は経験に学び
 賢者は歴史に学ぶ


 最近目にした言葉ですが、調べてみるとドイツの鉄血宰相といわれたビスマルクの言葉のようです。愚者は自分の経験にしか学ばないが、賢者は他人の経験である歴史に学ぶという意味のようです。

 でも、その「歴史」というのが自分の都合のよい勝手な解釈であって、本当の歴史ではないとしたら、どうなんでしょうか。現実には、こういった例が多いのではないでしょうか。自分の経験に合うように歴史を解釈して、歴史に学んだ気になっている。

 先祖光秀に対しても世の中にはいろいろな教訓めいたお話があります。「真面目すぎたから信長に堪えられなかったのだ。もっと柔軟に生きねばならない」、「ライバルの秀吉のように信長に可愛がられる性格でないとダメだ」、「後先考えずに暴挙を行えば三日天下に終わる」、「根回しも行わず独走するから親しい友人にも見放される」などなど。
 でも、それって本当の歴史ですか?
 そうではない!ということを拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』で証明したと思うのですが、ご賛同いただけませんでしょうか。
 拙著への「奇説」というご批判にも真摯に丁寧にご説明させていただきました。是非、以下のページをお読みいただいて、どちらが奇説なのかご評価いただきたいと思います。
    ★ 「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!


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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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4 コメント

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歴史とは何か (フロイス・2)
2011-04-09 13:35:03
明智さんがやっていられることを要約すれば、「確度の高い情報に基づく蓋然性の緻密な検証からの真実の発掘」ではないかと思います。 歴史研究家がこの態度を共通項とすれば、不毛な結論のぶつけ合いを克服し、有益な議論が展開されるはずなのですが…。

ところで「歴史とは何か」は、先日このブログで紹介された Brandon Schindewolfさんの論文のテーマでもあります。 彼の論文は読みましたが、本能寺・明智光秀研究の入り口としてはなかなかのものという観を持ちました。 後日、明智さんの研究と関連の強そうな部分をこの場で紹介させていただきたいと思っています。 同時に彼は、「東アジア 言語・文学学部」の学生で、歴史学部(OSUには歴史学部も存在します)の所属ではありません。 従って、史実の解明そのものよりも、史実がどう扱われてきたかという切り口からこのテーマを紹介しています。 史実がどう記録され、改竄され、利用され、語り継がれ、商品化されてきたか、その流れ・展開もまた歴史であろう、というスタンスです。 歴史を今も生きている動的なものと捉える姿勢は、アメリカではよく見られます。 その事を彼は極めて効果的に、「16世紀の本能寺から、21世紀のPlaystation2 やテレビに至る、明智光秀の旅路」と述べています。 光秀はこの旅路で御子孫にもめぐり合った、そしてその事がオハイオのアメリカ人から紹介されている。 大河とはこういうことかも知れませんね。
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戦国無双が出てきた理由 (明智憲三郎)
2011-04-09 18:17:21
 フロイス・2様の解説でようやく理解できました。ありがとうございます。
 私も拙い英語力で斜め読みしたのですが、何故、歴史の卒論にゲームが出てくるのか理解できませんでした。それで真面目に読む気がそがれたのですが、「16世紀の本能寺から、21世紀のPlaystation2 やテレビに至る、明智光秀の旅路」と書かれていたのですね!
 フロイス・2様のコメントの最後の3行にぐっときています。Brandon君も自分の論文が日本のブログでこんな形で話題になっているとは気付いていないでしょうね。
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Toki wa ima 関連箇所 (フロイス・2)
2011-04-21 16:24:18
先日来 ここで取り上げられている Brandon C. Schindewolf, ”Toki wa ima"から、明智さんの本との関連が特に強いと感じた箇所をいくつかご紹介します。 繰り返しになりますが、この論文は「明智光秀・本能寺の変の謎」の紹介であり、その謎の解明を試みたものではありません。 そのせいもあって、広範な資料にあたるというよりは、ある意味代表的な文献を深読みするというアプローチが見られます。 明智さんが紹介されている数多くの一次資料は、従って、この論文に啓発されて本能寺の謎に興味を持った方々にとっての情報の宝庫かもしれません。 本能寺の変、明智光秀に関しては、それぞれ「日本史の分水嶺的事件」であり「日本史上最大の謎のひとつ」、そして光秀は「もっとも謎に満ちた戦国武将」という位置づけです。 文献の扱いについても極めて客観的かつ公正で、例えば「惟任謀反記」は秀吉の手によって編纂されたことを考慮すべき、というような指摘もあります。

明智さんの本との関連では、僕個人としては以下の3点に興味を持ちました。

1.愛宕連歌に関して
歌が詠まれたとされる日付を含めて、「天が下しる」の通説が紹介されています。 とは言え、連歌というものの紹介をはじめ、この古い日本の詩の読み解きを明快に英語で表現している筆力は相当なものです。 ただ愛宕連歌の解明は、「時は今」、「水上まさる」、「花落ちる」、「国々は」の4点セットで行うべきところを、最後の1句が抜けた3点セットになっています。 面白いと思ったのは、「五月かな」の5月は、宇治の橋合戦や承久の変など、過去400年間に生じた歴史的な戦いがあった月であり、それらと自らの行動をかぶらせているのではという指摘(これは幾人かの学者が指摘しているそうです)です。 そうだとすれば連歌が詠まれた本当の日付がいっそう重要になりますね。 それが詠まれた時に雨が降っていなければならない、という条件とともに。 ここは「歴史捜査」の白眉とも言うべきところで、面白いリンクになると思います。

「水上まさる」の歌に関しても面白い指摘があり、しかもこれは著者のオリジナルであるようです。 「水上」を「水源」=「みなもと」=「源」、まさる=勝る、と詠んで、「源氏の末裔である土岐氏は、平家の末裔の織田に勝る」というものです。 この解釈は、僕にとっては新鮮でしたが、あるいは通説の一部なのかもしれません。 鋭い指摘ではあると思います。 しかしさすがの彼も、「花落ちる」の句から謀反の意図はうかがえないと言っています。 そして「国々は」が欠けていることは前述の通り、この4点セットの読み解きに関しても明智さんの解答は価値あるものとなるでしょう。

2.信長公記について
あるいはこれも僕が知らないだけかもしれないのですが、著者を含む複数のアメリカ人研究者が、太田牛一の「信長公記」における本能寺の記述が、あまりに淡々としていることに不自然なものを感じているようです。 牛一がドラマティックな描写が出来ることは、例えば荒木村重の謀反に関する記述などに明白であり、それだけに「まるで天気のことを書いているような」、そっけない記述で本能寺と光秀が扱われていること、原因や動機に関する記述がないことが不思議だという評価です。 信長にとってのネガティブな話については必要最小限の表現をしたのだろうか?と、いささか苦しい解釈をしていますが納得しているようではありません。 明智さんなら、牛一があえて筆を押さえた(押さえなければならなかった)事情を説明できると思います。 むしろ牛一の記述に不自然に異なった性格が見られるとすれば、それ自体が明智説の状況証拠になるかもしれません。

3.フロイスの記述に関して
牛一とは対照的に、踏み込んだ記述があることが指摘されています。 具体的には、光秀の性格描写、足蹴事件、本能寺の変そのものの描写などです。 信長と親しかったからだろうと推察していますが、弥助の存在は顧みられていません。 おそらく著者はご存じないのだろうと思いますし、それもある意味当然かもしれません。 これは明智説以外の本能寺研究の、おそらく全てがそうなのでしょうが、弥助というキーマンが、事実を誰に、どう伝えたかの考証を欠いているからです。 この人物の紹介も明智さんの功績の1つだと思っていますが、アメリカ人好みのキャラでもあるので、多くの研究者に是非注目していただきたいと感じています。

以上が、僕個人が面白いと感じた関連箇所ですが、これとは別に、いろいろ評価すべきところの多い論文であると感じました。 特にそれが、いわゆる「卒論」であることを考えれば、30年ほど前に書いた自分のそれと較べて恐れ入るばかりです。

Nice work, and congratulations, Brandon!
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解読・解説ありがとうございます (明智憲三郎)
2011-04-21 21:32:58
 丁寧に論文の内容を解説していただきありがとうございます。Brandon C. Schindewolfさんも「本場」日本でこのように自分の論文を読んでくれていると知ったら喜ぶことでしょう。
 フロイス・2様の提示してくださった3点について私の考えを簡単に説明させていただきます。
1.愛宕百韻について
 内容をみると恐らく下記の研究資料を参考にしていると思います。私は武将の「経営的な合理性」が戦国を生き残る支配的な論理だったと思っていますので、こういった「因縁」に根拠を求める説には正直なところ気が乗りません。
 津田勇『愛宕百韻に隠された光秀の暗号』(『ドイツ第三帝国の終焉』歴史群像シリーズ18 学習研究社 1995年4月)
2.信長公記について
 確かに荒木村重一族の処刑の記事には牛一の感情が籠っていました。恐らく処刑の現場に立ち会っていたのでしょう。これに比して本能寺の変の記述は確かに「冷静」です。牛一の『信長公記』の記述は基本的に冷静なのですが、確かに主君の非業の死を語るには冷静過ぎるかもしれません。この指摘は新しい視点のようです。
 にわかに答を出さずに暖めておくべき謎のような気がします。私は光秀のことをひとつも非難めいた記述をしていない牛一の姿勢と同じと受け止めていて、何も不思議に感じていなかったのですが、そもそもそれはなぜか?という疑問をフロイス・2様の解説で持ちました。何故、牛一は信長も光秀も等価、等距離にみていたのでしょうか?本能寺の変の後、牛一が秀吉に仕えたことが影響しているのか、それともそもそも牛一はそういう視点で信長・光秀をみていたのか。面白い謎です。
3.フロイスの記述について
 フロイスが本能寺の変の4ヵ月後にイエズス会総長に書き送った『日本年報』の記述とそれから十数年たって書かれた『日本史』の記述の違いを分析する作業が歴史研究界で抜けているのです。私が拙著で行った分析が歴史研究上、初めてなのかもしれません。インフォメーションがインテリジェンスに変わるにはコロンブスの卵のようなことが必要だとあらためて感じました。Brandon C. Schindewolfさんが参照した日本の研究書には残念ながら彌介についてのインテリジェンスは書かれていなかったということです。
 彌介の再発見者である私の思いとしては、是非、歴史研究界に彌介に注目してもらいたいと思います。
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