民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「昔話の呼称と伝承形式」 その1 佐藤義則

2014年05月17日 00時43分55秒 | 民話(語り)について
 「全国昔話資料集成」 1 羽前小国昔話集  佐藤 義則(昭和9年生) 岩崎美術社  1974年

 「昔話の呼称と伝承形式」 その1  (編者ノート 佐藤義則 より)

 小国郷における「昔話の呼称」は、「むがすコ」「トントむがすコ」である。
単に「むがす」と云えば、昔の世間話や伝説をさして「昔話」ではなくなるのである。

 「昔話の伝承形式」について、語りはじめの句は、
「昔」「昔昔」「昔昔、ざっと昔」「昔、あったけド」「昔、あったずォン」「さる昔、あったけド」
「さる昔、あったずォ」「トント昔」「昔昔、トント昔」「トント昔、あったけド」など、
大同小異であるが、「トント昔、有った事だったが、無え事だったが、知しゃねげんとも」となると、
次の句を考えねばならない。
「トント昔のまた昔、あったごんだが、なえごんだったが、トントわがり申さねげんとも、
トント昔ァあった事えして、聞かねばなんねェ、え」

 これは語りはじめの句であるが、「トント昔、あったけド」と語りだす一話の前置きとは異なり、
語りの場の雰囲気をととのえる約束ごとなのである。
語り手が「聞かねばなんねェ、え」と念をおし、聞き手が「ん」と答えるのを待って語りだすのである。

 聞き手の相槌は「問い口(ぐず)」ともいい、「オゥ」「オゥオッ」と一ト句切りごとに
間をおかず受け答えせねばならない。
夜に幼児と寝ながらの語りなどでは、どこまで聞いているかの確認にもなるものである。

 語りおさめの句は、
「ドンビン、カラリン」
「ドンピン、カラリ、ネッケド」(新庄周辺や庄内地方)
「トンピン、カラリン」「ドンビン、サァンスケ(サンスケ)」
「ドンビン、サンスケ、ホーラの貝」
「ドンビン、サンスケ、ホーラの貝ァ、ポーポーど鳴ったドサ」
「ドンビン、サンスケ、赤むぐれッ」
「ドンビン、サンスケ、酒田の猿の尻(ケツ)、真っ赤(か)っ赤(か)」(「さ」音の言葉遊び)
「ドンビン、サンスケ、猿眼(まなぐ)、猿な眼さ毛コ生えで、ケンケン毛抜きで抜えだれば、
メッメッ片目(めッこ)えなったドサ」(村山地方)
「終わりキンチャグ、猫のフンドス」(村山地方)
「ドンベ、カラッコ、ナエケド」
「ドンビン、カエンコ、スッカエコ」
「ドンビン、スカンコ、猿の尻(けッつ)さ、牛蒡(ごんぼ)焼えで打(ぶッ)つげろ」(尾花沢市)
「ドン、パラリ、プー」
「ドーンと、おはれェ」(岩手県 どっとはらえと同系)
「トンピン、カラリン、さんしょの実」(北隣接の秋田県雄勝町)
「ヨーズコ、ポーンとさげた」(東隣接の宮城県鳴子町)


「編者ノート」 高橋 勝利

2014年05月15日 00時22分37秒 | 民話(語り)について
 「全国昔話資料集成」 18巻 下野昔話集 (栃木)

 編者 加藤嘉一(かいち)・高橋勝利 岩崎美術社 1975年

 「編者ノート」 高橋 勝利 P-180

 <地名と伝説>

 私が生まれ、そして育ったのは飯(いい)村という珍奇な名の山村である。
私の家の東南側に焼森(やけもり)山と呼ばれる300メートル台の山がでんと座っていて、
朝日も月の出もその山の上に出るので、夜の明けるのがそれだけ遅くなる勘定であった。
私は毎日その山を見ながら成長したのである。

 中略

 宇都宮を起点として、飯村・小貫(おぬき)を経て仏の山(ほとけのやま)峠を越して、
笠間・水戸につらなる道を水戸北街道と呼ぶのは、水戸の徳川氏の日光参詣のためであるらしい。
この道は坂東19番の益子・西明寺から、20番常陸の佐伯寺(笠間)を結ぶ巡礼道路で、
仏山(ほとけのやま)峠も巡礼坂の一つであったのであろう。

 仏の山の朝日堂の伝説は、仏の山の四郎左衛門が
巡礼姿に身をやつした娘オセンを殺したので、発心して仏門に入り、
上がり下りの巡礼のために朝日・夕日の両堂を建立したと言う和讃の筋が本流らしいが、
磯系図には磯四郎左衛門義輝が吊天井を引き落とすと、光明輝き観世音菩薩の姿と出現したのを見て、
悪心変じて菩提心を起こし仏門に入り、上がり下りの旅人のために両堂を建立したとあり、
オセン娘は見えぬのである。

 房州勝浦のオセンコロガシ、三浦半島突端のオセンガハナ、和歌山県の毒魚の方言の
「オセンコロシ」等、殺される娘の名のオセンについては、柳田先生に聞いたことがある。
先生からは奥州のミコにオセン・オマンがあるから、
オセンミコの関与であろうかとの返書を頂いている。

 中略

 加藤嘉一君の家はその木幡にあった。
またの名を芳賀富士と呼ばれる形の好い大平山の山麓の村である。
大平山はダイダラ坊が藤蔓で背負って来た山だと言われている。
ダイダラ坊は耳緒山(三妙山)を耳に挟み、小摑(こつかみ)山をつかんで来たが、
藤蔓が切れて大平山がここに落ちたので、耳緒山も小摑山も捨てて行ってしまった。
その時の足跡が芹沼だとのことである。

 中略

 <地勢と特産物>

 昭和29年に逆川(さかがわ)村、茂木町、須藤村、中川村が合併され、現在の茂木町になった。

 中略

 戦後の高度経済成長の余波を受けることも少なかったから、目立つほどの工場もなく、
町の様相も戦前と大きな変化は見られない。
旧茂木村の一部を除けば、純農村と言ってよく、
今もなお茅や藁葺き屋根の農家がそこここに見られる。
交通の便がよくないためもあって、はなばなしい脚光を浴びることが少なく、
栃木県にあっても最も旧態をとどめる村落が存在する。

 後略

 <採集の思い出>

 加藤嘉一君の家のある木幡と私の生家の飯村は4キロほどの距離である。
私は飯村にある逆川尋常高等小学校に行き、加藤君は木幡尋常小学校に行ったから、
小学校時代のつき合いはなかった。
加藤君の祖父は私の遠縁の家から加藤家に養子に行ったのであり、
また私の父が局長であった逆川郵便局の事務員をいていたとのことで、
私の家と親類つき合いをしていたから、私の中学時代には獅子舞を見に招かれて行ったりしていた。

 加藤君と親しく交際するようになったのは、加藤君が茂木町の小学校の教員になっていた時であり、
私が病身の父の代理に郵便局や逆川村の仕事を手伝っていた頃である。
私は仏教美術の研究をしていたのであるが、
父が病身なので生家の面倒を見なければならなくなって引き籠もっていたのである。

 加藤君は文学青年で、その頃童話集の「ひとつ星」を自費出版していた。
野口雨情や江口渙などを茂木町に招いて話を聞く会を主催したりしたので、
私も参加して一緒に旅館に泊まって歓談したことを覚えている。

 中略

 昭和4年の6月に私の「栗山の話」が出来、12月には加藤君と二人で「芳賀郡童謡集」を出版した。
 昭和何年であったか覚えていないが、
加藤君夫妻は満州国の日本人小学校の教師を志願して渡満したのである。
 きびしい風土になじめなかったのであろうか、加藤君の死を風のたよりに聞いたのは、
まだ日支事変のきびしくならないうちであったと思う。

 岩手県の佐々木喜善さんが私に「聴耳草子」を送ってくれたのは、
柳田先生から私のことを聞いたからだとの手紙がつけてあった。
柳田先生は私にも「遠野物語」のような昔話を採集させたかったのである。
私も「遠野物語」や「聴耳草子」の美しい昔話に魅せられていたから、
栃木県の昔話を採集する努力を重ねていたのである。
明治時代に県の命令で作った村々の郷土誌に伝説と昔話の項目があるので、
芳賀郡内の小学校を廻って見せてもらったが、昔話は載せていないのである。

 その頃、芳賀郡教育会芳賀郡誌を作る計画があり、私はその編集委員に委嘱されていたので、
各小学校の先生方に昔話の採集を依頼したのであるが、その結果は零に近かった。
たまに採集したものを寄せられたが、芳賀郡オリジナルではなく、
何かの本で読んだものを聞いて来たようなもので私をがっかりさせた。

 栃木県の昔話はどこそこの話は、何かと土地と人が結びつかぬと興味をひかなかったのかと思う。
ホトトギスは腹をさいて殺した妹を思って、のどがさけるほど鳴くんだとか、
雨蛙は親不孝で親の死に際の頼みだけは聞いて川の辺に墓を作ったので、
雨が降るたびに鳴くんだという程度の昔話は私の子供の時から聞いているが、
昔話集としてまとめられるものではなかったのである。


 私の母の実家は茂木町なので小さい頃よく連れられて行った。
茂木町は愛着のある町なのです。
 加藤嘉一さんのような人がいたおかげで茂木町に伝えられた民話が残っている。

 私たちは加藤嘉一さんという人がいたことを、
そして、加藤さんが残した民話を次世代に伝えなくてはならない。









「読んであげたいおはなし」 松谷 みよ子

2014年04月22日 00時35分17秒 | 民話(語り)について
 「読んであげたいおはなし」 下巻  松谷 みよ子 著

 あとがき

 「トント昔のさる昔 有(あ)ったごんだが 無(ね)えごんだったが
トントわがり申さねども トント昔ァ 有ったごどぇして 聞かねばなんねェ え」


 羽前小国(うぜんおぐに)(山形県)ではかく申しきかせてから昔を語ったという。
村むらの語りを聞くた旅をして四十年余り経った。
異郷との出会いであった。

 昔話はそそり立つ山に似てそのふところは深く、
雄大な語りもあれば岩かげに咲く一輪の花のように可憐な語りもある。

 魅せられて筆で語りをと、書きためたもの、新たに加えたもので、百話を選んだ。
この巻には秋と冬の話を収めてある。
 
 どうか声にして語っていただきたい。
幼い人へ若い人へ、この豊醇(ほうじゅん)な世界を伝えてと、願いつつ。

 2002年1月 

「papa’s絵本」 安藤哲也

2014年03月17日 11時47分07秒 | 民話(語り)について
 「papa’s絵本」 読み聞かせにピッタリ キレない子どもを育てる 安藤哲也 著 小学館

 「おわりに」

 絵本とロックは、パパとキッズの最強のコミュニケーションツールだ。
静と動。
相反するが共通点はある。
それは「揺さぶられる」ということだ。

 「絵本は子どものもの」って思ったら大間違い。
オトナの胸にも刺さる絵本が実はたくさんあるのだ。
生き方を問われるほど強烈なメッセージを放つ絵本に出会ったとき、
ボクはビートルズやピンク・フロイドを初めて聴いたときの衝撃を思い出す。
そしてロックをかけながら、絵本から「感じたもの」を娘や息子と共有した。

 将来、FMから流れる音楽に反応し、
「この曲はパパが読んだ絵本のBGMだ!」と気づいてくれたらうれしい。
絵本を媒介として伝えたパパの「ロックな想い」とともに。

「パパたちの元気で愉快なお話し会」 田中 尚人

2014年03月03日 00時06分02秒 | 民話(語り)について
 「パパたちの元気で愉快なお話し会」 田中 尚人(パパ’s絵本プロジェクト/編集者)

 出典 「心をつなぐ読み聞かせ絵本 100」 別冊 太陽

 自分の子どもと読んで、ウケたりウケなかったりした絵本が、
ほかの子どもたちにはどのように受け取られるだろうか?
自分の家庭の絵本時間を、ほかの子どもたちとも共有できたら、
もっときっとずっと楽しくなるのでは?
父さんだからこその絵本や、父さんが読んだ方がグッとくる絵本があるのでは?
これが僕らの活動のきっかけだ。

 中略

 父親が絵本を読む、ということはまだまだ珍しいことであるらしく、実態としては、
絵本=母親が読むもの、という意識が強い。
最近では、「将来、キレない子どもにするために」「早く文字を覚えさせるために」
「感受性豊かで、もの識りな子どもにするために」という打算や強迫観念が先行して、
薬や教科書でも与えるような思い込みとなって、
ただでさえ忙しい育児ママの仕事をひとつ増やしつつあるのではないだろうか。
そんな義務感が先行した絵本時間は、苦痛以外の何ものでもなく、本嫌いになって拒絶をするか、
「聞き分けのいい子」を装ってテレビでも観るように受け流すしか子どもの選択肢はなくなってしまう。

 中略

 僕らは、「読み聞かせ」についての知識も経験もなく、
集団を相手にした時の話し方について訓練を受けたこともない。
 練習すらしていないのだからヘタなのは仕方ないが、僕らが大切にしているのは、
文字を読むことではなくて、僕ら自身の声や言葉を子どもたちに伝え、
絵本をツールにして子どもたちと言葉のキャッチボールを行うこと。
子どもたちからは毎回意表をつくような、みずみずしい反応が戻ってくる。
その反応にオトナの僕らがどれだけ同じ温度感でアドリブできるか。

 これはとてもスリルに満ちている。
同じやり方は決して通用しない。
テレビや教育現場などで「受け取るだけ」、はっきり言えば「黙って聞き流す」ことに
慣れきっている子どもたちの言葉の窓を開けるのはなかなか手が焼けるけれど、
どんな子どもだって面白いこと、楽しいことに無関心なはずはない。
子どもたちの遠慮ない突っ込み、抜けるような笑い声や手加減のないブーイング、驚き、疑問、
恐れの表情は、僕らにとって、見せかけのオトナ社会とは反対に、
確かな手応えをじかに受け取ることのできる貴重な体験となっている。

 以下 略