民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「徒然草 REMIX」 その1 酒井 順子

2016年02月28日 00時20分12秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

「はじめに」 その1 P-11

 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

「徒然草」は、この有名な書き出しで始まります。退屈な毎日を暮らしている時に、心に浮かんでくるどうでもいいようなことを何となく書きつけてみれば、「あやしうこそものぐるほし」いんだなぁ・・・、といった意味のこの一文。しかし「つれづれ」とか「よしなし事」とか「そこはかとなく」といった言葉を眺めていると、作者の兼好法師は、一体どの程度本気で、この一文を書いたのであろうかと、思えてくるのです。

 兼好は、もちろん嘘を書いたわけではないでしょう。
「充実した毎日を過ごす中で次々と浮かんでくる私の考えを、もらさず書いてみました。これを少しでも多くの皆さんに広く知っていただき、有意義な人生を送るための一助となれば幸いです」
 などと、昨今の生き方指南の書のようなことを、根っからの都会人である兼好が書くわけもなければ、思うはずもない。徒然草に書いてあるのは「よしなし事」、すなわち無益でつまらないことでは全くなく、我々の人生にとって重要なことばかりなのだけれど、作者自身が本気でそれらをよしなし事だと信じようとしているところに、徒然草の意義はあります。

 冒頭の一文における、兼好にとっての唯一の真実の言葉。それは、「あやしうこそものぐるほしけれ」でしょう。この部分は、「変に気違いじみたことである」などと現代語訳されている場合もありますが、私の感覚ですと、
「何をしているんだかなぁ、俺」
 といった気分ではないかと思うのです。

 (中略)

 兼好は、人間の嫌なところが先天的によくわかってしまう人でした。しかし世の中には、兼好が気付いてしまう人間の嫌なところには全く気付かない人もいるということも、兼好にはわかる。と言うより、どうやらそんなことにいちいち気付いているのは、自分だけらしい・・・という孤独感を、兼好は子供の頃から味わっていたのです。その孤独感とはすなわち、霊感少女が「天井のすみっこにいる女の人が見えるのは、どうやら私だけらしい」と気付いてしまった時の孤独感のようなもの。

 その孤独感を解消するために書きはじめたのが、後の世に徒然草と言われるようになる随筆群だったのではないかと、私は思います。親兄弟でも、親しい女性でも、同僚でも友人でも決して癒されることのない孤独は、「自分だけが気付いてしまっていること」を紙に向かって書いている時だけ、忘れることができたのではないか。

「徒然草」 第155段 世に従はむ人

2016年02月10日 00時26分52秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 無常迅速ということ――世に従はむ人 第155段 (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 世の中の動きにうまく合わせようとするなら、何といっても時機を見逃さないことだ。事の順序が悪いと他人も耳を貸さないし、気持ちがかみ合わないので、やることがうまくいかない。何事にもふさわしい時機というものがあることを、心得ておく必要がある。ただし、発病や出産や死亡だけは時機を予測できず、事の順序が悪いからといって中止になるものでもない。

 この世は、万物が生じ、存続し、変化し、やがて滅びる、という四つの現象が絶えず移り変わるが、この真の大事はまるであふれんばかりの激流のようだ。一瞬もやむことはなく、この大事は実現・直進して行く。だから、仏道でも俗世でも必ずやりとげたいことがある場合は、時機をとやかく言う暇(いとま)はない。あれこれと準備時間を取ったり、途中で休んだりすることは禁物である。



「徒然草」 第137段 花は盛りに(その2)

2016年02月08日 00時11分50秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 初めと終わりの美学――花は盛りに 第137段(その2) (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 何事においても、最盛そのものではなく、最盛に向かう始めと最盛を過ぎた終わりとが味わい深いものなのだ。男女の恋愛においても、ただただ相思相愛で結ばれる仲だけが最高といえるだろうか。そんな仲だけではなく、相手と結ばれずに終わった辛さに悩んだり、相手の変心から婚約が破棄されたことを嘆き、長い夜を独り寝で明し、遠い雲の下にいる相手に思いをはせ、荒れ果てた住まいを相手と過ごした当時をしのんだりする態度こそ恋の真味を知るものといえよう。一点の曇りもなく輝きわたる満月を遥かに遠い天空のかなたに眺めるのよりも、明け方近くになって、待ちに待ってようやく出てきた月が、心が揺さぶるような青みがかった樹間から漏れるその月の光や、時折時雨を降らせる一群の雲に隠れている月のようすなどは最高に心に深くしみるものだ。また、椎柴や白樫などの、濡れたように艶のある木の葉の上に反射して、きらきら輝く月の光は体の奥までしみこむように感じられて、今ここに、この月の風情をわかる友がいたらなあと、友のいる都が恋しくなってくる。


「徒然草」 第137段 花は盛りに(その1) 

2016年02月06日 00時03分03秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 初めと終わりの美学――花は盛りに 第137段(その1) (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。物事の最盛だけを鑑賞することがすべてではないのだ。

 たとえば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思いこがれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外のようすを目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり、優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。

 今にも花開きそうな蕾の桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。作歌の事情を記した詞書も、「花見に出かけたところ、もうすでに花が散ってしまっていて見られなかった」とか、「用事があって花見に出かけず、花を見なかった」などと書いてあるのは、「実際に花を見て」と書くのに、劣っているだろうか。そんなことはない。

 確かに、桜が散るのや、月が西に沈むのを名残惜しむ美意識の伝統はよくわかる。けれども、まるで美というものに無関心な人間に限って、「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたから、もう見る価値はない」と、短絡的に決めつけるようだ。

「徒然草」 第93段 牛を売る者

2016年02月04日 01時14分11秒 | 古典
 「徒然草」 吉田兼好 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 角川ソフィア文庫 2002年

 生と死は隠れたコンビ――牛を売る者 第93段 (「清貧の思想」中野孝次の中で紹介)

 「牛を売る者がいた。買う者は、明日代金を払って牛を引き取ろうと言う。ところがその夜、牛が死んでしまう。とすれば当然、買う者は代金を払わずにすんで得をし、売る者はそのぶん損をしたことになる」と語る者がいた。

 この話をそばで聞いていた男が、「確かに牛の持ち主は損をしたことになるが、一方で大きな得をしている。その理由はこうだ。命あるものが、迫り来る自分の死に気づかないのは、この牛がいい見本だ。人間もまた同じ。何の予感もなく牛は死に、何の予感もなく持ち主は生きながらえた。この牛の死によって、持ち主は、一日の命はどんな大金よりも貴重であり、ところが、牛の代金なんぞガチョウの羽よりも軽いことを悟ったのだ。だから、どんな大金より重い一日の命を得て、軽い牛の代金を失った持ち主が、損をしたといえるはずがない」と言った。

 すると、その場の人々は皆、この男をばかにして、「そんな理屈があてはまるのは、なにもこの牛の持ち主だけに限るわけではない。今こうして生きている者は皆、得をしていることになるじゃないか」と言い立てた。