民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「本屋さんで待ちあわせ」 その22 三浦 しをん  

2018年01月03日 00時06分10秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その22 三浦 しをん  大和書房 2012年

 希望が生まれてくるところ その1
 ――『花宵道中』宮木あや子・著(新潮社/新潮文庫) P-162

 情景を眺めるのではなく、情景のなかに生きるとは、こういうことか。『花宵道中』を読んで、そう思った。
 映像を喚起する描写は、比較的容易にできる。しかし、物語のなかに自分も立っているかのように、読者に感じさせる文章はなかなか書けない。『花宵道中』は、その至難の業を軽々となしとげた小説だ。においや肌触りを、読者はまざまざと体感するだろう。

 舞台は、江戸吉原の女郎屋「山田屋」だ。五篇からなる連作形式で、山田屋で生きる遊女たちと、そこを訪れる男たちの姿が描きだされる。
 読者のなかで、江戸時代の遊郭に行ったことがあるものはいない。もちろん、作者だってないはずだ。にもかかわらず、私は『花宵道中』を読んで、山田屋の廊下の冷たい板を足裏で感じた。美しいぎやまんの器に入った冷やし飴を飲んだ。そっと襖を開けて、暗い部屋で客をとる姉さんの女郎の白い肌を見た。読書のあいだじゅう、行ったことのない江戸吉原に、私はたしかに生きていた。

「作者だってないはずだ」と書いたのは、もしかすると作者の宮木あや子さんは、ひそかにタイムマシンでも持っていて、吉原の大門を自由に出入りすることができるのかも、と思ったからだ。そんな夢想をしてしまうほど、空気と質感が生々しく読者を取り巻く。

「本屋さんで待ちあわせ」 その21 三浦 しをん  

2018年01月01日 00時23分42秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その21 三浦 しをん  大和書房 2012年

 読まずにわかる『東海道四谷怪談』 その6
 第三夜 ワルが際立つ名台詞(めいぜりふ) その2 P-134

 劇中で『塩治家』といえば「赤穂藩の浅野家」、「高野氏」といえば「高野家筆頭吉良上野介」のことだ、という「お約束」がる。そこで観客は、「そうか、伊右衛門は赤穂藩の浪人なのだな」と了解する。史実では見事に主君の仇を討ったわけだが、さて、我らが伊右衛門はどうだろうか。

 伊右衛門は悪人エピソードに事欠かない男なのだが、有名なのは、「首が飛んでも動いてみせるわ」と言い放つシーンだろう。この直前にも、伊右衛門は背後から女に忍び寄り、川に蹴落として殺害している。「おまえはいったい、何人殺すつもりだ!」と観客が驚きあきれた瞬間に、悪びれたふうもなく「首が飛んでも動いてみせるわ」!ぶるぶる、すごいワルだ。

 しかしこの台詞、実は初演当時の台本には書かれていない。上演を重ねるなかで、「伊右衛門の極悪非道ぶりを、もっと際立たせる台詞はないものか」と、役者さんたちが考案していった台詞なのだろ。

 『四谷怪談』の上演を通して、多くのひとが、人間の心にひそむ「悪」とはなんなのかを考えつづけたからこそ、伊右衛門は暗黒の名台詞を発するようになったのだ。


「本屋さんで待ちあわせ」 その20 三浦 しをん  

2017年12月30日 23時23分08秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その20 三浦 しをん  大和書房 2012年

 読まずにわかる『東海道四谷怪談』 その5
 第三夜 ワルが際立つ名台詞(めいぜりふ) その1 P-134

 『東海道四谷怪談』の主人公・民谷伊右衛門は浪人だ。伊右衛門が仕えていた塩谷(えんや)家の殿さまは、殿中で高野(こうや)氏に切りかかった咎で切腹、お家は取り潰しになった。そのため、伊右衛門は職を失ってしまったのである。世間では、塩谷家の浪人たちが主君の遺恨を晴らすため、高野家に討ち入りする準備を進めている、ともっぱらの噂だ。

 観客はここで、「ははぁん」と思う。「この劇は、『忠臣蔵』の設定を借りて進行する話なのだな」と。
 江戸時代には、実際の事件や実在の人物を、劇でそのまま取り上げることが許されていなかった。逆に言うと、人物や団体の名称をちょっと変えれば、なにを上演しても基本的にはお目こぼしされた。このへんが、江戸時代人のおおらかというかいいかげんなところである。


「本屋さんで待ちあわせ」 その19 三浦 しをん  

2017年12月28日 00時35分19秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その19 三浦 しをん  大和書房 2012年

 読まずにわかる『東海道四谷怪談』 その4
 第二夜 伊右衛門 悪の魅力 その2 P-133

 鶴屋南北が『四谷怪談』を書いたころ、『忠臣蔵』はおおかたのひとにとって、「古くて、リアルじゃない」話になってしまっていた。いまどき、大真面目に主君の仇討ちをする頓狂なやつなんていないぜ、というわけだ。
 では、鶴屋南北はどうやって、新しい時代にふさわしい劇を作ったか。『四谷怪談』の主人公・民谷伊右衛門(たみやいえもん)を、ニヒルで血も涙もなく、ちょっとモテるからといってすぐいい気になり、主君の仇討ちなどそっちのけだが、金と出世のためなら何人殺そうと屁とも思わないような人物として設定したのである。

 伊右衛門は、はっきり言って最低最悪の性格だ。できればお近づきになりたくない。しかし、彼の欲望と破滅の軌跡は、抗しがたい悪の魅力を放ってもいる。

「本屋さんで待ちあわせ」 その18 三浦 しをん

2017年12月26日 00時12分33秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「本屋さんで待ちあわせ」 その18 三浦 しをん  大和書房 2012年

 読まずにわかる『東海道四谷怪談』 その3
 第二夜 伊右衛門 悪の魅力 その1 P-132

 『仮名手本忠臣蔵』を少し知っておくと、『東海道四谷怪談』をより楽しめる。
 『忠臣蔵』は、「赤穂浪士が吉良邸に討ち入りし、主君・浅野内匠頭の敵を取る」という、史実に基づいたストーリーだ。いま読むと、「忠義一本槍な生き方(=武士社会)への多大なる疑念がこめられている」と解釈することも可能な物語なのだが、まあ、古臭く大時代な話だと感じる人もいるだろう。

 なんで、自分の生活や命を犠牲にしてまで、バカ殿のために仇を討たねばならんのだ、と。『四谷怪談』は『忠臣蔵』のパロディー、「忠臣にはなれなかった(なりたいなんて毛一筋も思わなかった)人々の話である。『四谷怪談』の作者・鶴屋南北は明らかに、「主君のために命をかけて仇討ちするなんて、古い。時代遅れだ」と考えていたと見受けられる。

 それも当然だろう。『仮名手本忠臣蔵』の初演は、寛延元年(1748年)。『東海道四谷怪談』よりも、77年もまえにできた作品なのだ。いま(2009年)から77年まえといったら、1932年(昭和7年)だ。昭和7年の感覚で、たとえば「髪の毛を茶色く染めるなんてとんでもない!」と言ったところで、現在の若者は当然聞く耳を持たない。習慣や常識や価値観は、わずか数十年で大きく変動する。