「むかし卓袱台(ちゃぶだい)があったころ」 久世 光彦 著 ちくま文庫 2006年
「願わくは畳の上で」 P-10
前略
ふと思うと、日本の家屋や調度は低い視点からの<見た目>を考えて作られているような気がする。死者の視点とまでは言わないが、臥せっている者の視点である。日本間の真ん中に立っていると、なんとも落ち着きが悪い覚えは誰にだってあるだろう。とにかく坐りたくなる。坐ってみると障子窓の高さも、陽の差し具合も、障子に映る八ツ手の葉の影も、なかなかいい。ところが、もう一つ視点を低くしてみると、つまり臥せってみると、もっといい。たとえば、雪見障子というのは、間違いなく日本間に寝ている者のために作られたとしか私には思えない。坐っていて庭に降る雪を眺めるには、上半身を屈め、首を曲げて覗かなくてはならないが、床に臥せって枕の上から見るとちょうどいい高さに風花(かざばな)が舞い散るのである。
中略
家で死ぬということは、長いことその部屋に臥せって、自分の死を待っているということである。もし私がそうするなら、私はきっとあの病気の日とおなじ怖れに取り囲まれて、長い時間を過ごすのではなかろうか。日本の家は、そういうことを考えさせるために作られているのだ。低い視点から見る日本の家の視界には、生きてきた日々について静かに考えさせるものが、あちこちに佇んでいる。枕の上で朝を迎え、高くなっていく陽を静かに目で追い、畳に落日の海を見て、やがてやってくる怖い夜を待つ。漱石も鴎外も一葉も、みんなそういう一日を何日も繰り返し、痩せ衰えながら、また何日も繰り返し、その果てに死んでいったのだと思う。私の病の日々が、怖かったけれど、いま思うと懐かしくも幸せだったように、畳の上に臥せって迎える死は幸せである。(病院の)白い天井や壁を眺めて、私たちの心はいったい何を思うことができよう。怨みも、悔いも、愛さえも、白い壁にはね返って、また我が身に戻ってくるだけである。だから、畳の上で死にたいと思う。切実にそう思う。ただ闇雲に走ってきたような人生ではあったけど、せめて最後のときに、そんな夕暮れをいくつか持つことができたなら、私は私が愛したものが何だったのか、はじめて知るかもしれない。ほんの瞬く間のことではあったが、それでもそれは温かな時間だったことが、わかるかもしれない。そしてもしかしたら、生まれてきたことと、こうして死んでいくこととは、つまりはおなじことだったことに気づいて、死んでいく者には似合わない、小さな笑いを浮かべることだってできるかもしれないのだ。
だから私は、畳の上で死にたい。
「願わくは畳の上で」 P-10
前略
ふと思うと、日本の家屋や調度は低い視点からの<見た目>を考えて作られているような気がする。死者の視点とまでは言わないが、臥せっている者の視点である。日本間の真ん中に立っていると、なんとも落ち着きが悪い覚えは誰にだってあるだろう。とにかく坐りたくなる。坐ってみると障子窓の高さも、陽の差し具合も、障子に映る八ツ手の葉の影も、なかなかいい。ところが、もう一つ視点を低くしてみると、つまり臥せってみると、もっといい。たとえば、雪見障子というのは、間違いなく日本間に寝ている者のために作られたとしか私には思えない。坐っていて庭に降る雪を眺めるには、上半身を屈め、首を曲げて覗かなくてはならないが、床に臥せって枕の上から見るとちょうどいい高さに風花(かざばな)が舞い散るのである。
中略
家で死ぬということは、長いことその部屋に臥せって、自分の死を待っているということである。もし私がそうするなら、私はきっとあの病気の日とおなじ怖れに取り囲まれて、長い時間を過ごすのではなかろうか。日本の家は、そういうことを考えさせるために作られているのだ。低い視点から見る日本の家の視界には、生きてきた日々について静かに考えさせるものが、あちこちに佇んでいる。枕の上で朝を迎え、高くなっていく陽を静かに目で追い、畳に落日の海を見て、やがてやってくる怖い夜を待つ。漱石も鴎外も一葉も、みんなそういう一日を何日も繰り返し、痩せ衰えながら、また何日も繰り返し、その果てに死んでいったのだと思う。私の病の日々が、怖かったけれど、いま思うと懐かしくも幸せだったように、畳の上に臥せって迎える死は幸せである。(病院の)白い天井や壁を眺めて、私たちの心はいったい何を思うことができよう。怨みも、悔いも、愛さえも、白い壁にはね返って、また我が身に戻ってくるだけである。だから、畳の上で死にたいと思う。切実にそう思う。ただ闇雲に走ってきたような人生ではあったけど、せめて最後のときに、そんな夕暮れをいくつか持つことができたなら、私は私が愛したものが何だったのか、はじめて知るかもしれない。ほんの瞬く間のことではあったが、それでもそれは温かな時間だったことが、わかるかもしれない。そしてもしかしたら、生まれてきたことと、こうして死んでいくこととは、つまりはおなじことだったことに気づいて、死んでいく者には似合わない、小さな笑いを浮かべることだってできるかもしれないのだ。
だから私は、畳の上で死にたい。