民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「投了」 マイ・エッセイ 9

2014年08月28日 01時30分54秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「投了」 (マイ・エッセイ)
                                                
 ついにこの時がきたか、将棋ファンの誰もが思っただろう。
 今年の四月、将棋のプロとコンピュータの将棋ソフトと、どちらが強いかを争う「電王戦」が行われた。五人と五台が五番勝負を戦う団体戦である。
 去年は人間が一勝三敗一引き分け、と負け越した。しかし「人間が甘く見ていたからだ。本腰を入れればまだコンピュータなんかに負けるわけがない」という声が強く、今年は人間にとっての正念場を迎えていた。
 結果は人間の一勝四敗、人間はまたもコンピュータに敗れた。
 そのとき使われた将棋ソフトのひとつが一般に公開されている。(どれどれ、どれくらい強いんだろう)と、そのソフトと対戦してみた。
 (いやァ、強い、強い)何番指しても勝てない。プロが勝てないのだからオレなんかが勝てるわけはない。しかしオレだって一応四段の免状を持っている。相手の強さがどれくらいかの見当はつく。それが(なんだ、この強さは)と、アキれるほど強いのだ。まったく歯が立たないのがわかって早々に挑戦するのを諦めた。
 もうだいぶ前のことになるが、当時市販されているなかで最強といわれた将棋のソフトと指したことがある。(いやァ、弱い、弱い)飛車・角の二枚を落としても負けない。あまりの弱さにあきれ、(しょせん、コンピュータなんてこんなものよ)と、ほくそ笑んでいたものだが、しっかりそのときのカタキを取られたようだ。

 今年の五月の連休に「将棋倶楽部二十四」という無料のネット将棋があることを知った。ネット将棋とはインターネットのオンラインで対局することである。人間対コンピュータではなく、あくまで人間対人間である。将棋道場に行かなくても、好きな時間に好きなだけ将棋が指せる。
 四十年ぶりに将棋を指してみて(将棋もやっぱりおもしろい)と再認識し、たちまち熱中するようになった。
 (これでオレの老後はヒマで悩まされることはないな。いい時代に生まれた)とニッコリした。
 ところがまだ二ヶ月もたっていないのに、もうネット将棋がイヤになってきている。
 将棋はずっと将棋道場で人間を相手に指してきた。ネット将棋も人間を相手にするのは同じである。しかし相手の顔が見えないという決定的な違いがある。
 これになじむことができない。将棋は相手を見ながら指すものじゃないか。「だんだんよくなる法華の太鼓」とか冗談を言いながら、相手の困った顔を見る楽しみがない。

 将棋には「投了」または「投げる」という終局がある。これはルールではなく、マナー。もう勝ち目がないと思ったら、いさぎよく「負けました」と頭を下げることだ。時間・労力の節約であり、もう終わっている勝負を続けるのは相手に失礼にあたるとされている。
 どこで投了するかは強さのバロメーターでもあり、「投了の美学」という言葉があるくらいにプロは投了に気を使う。
 ネット将棋を指していると、イヤになるほど投げない人が多い。相手が投げない限り、勝負は決着がつくまで続く。まさしく時間・労力の無駄でしかない。
 こういう人は将棋道場で指していたときはいなかった。たまにいても、そういう人は誰にも相手にされない。将棋道場には目の前の相手のほかに多くの人間もいる。
 将棋は一度初段の資格を取得すれば、ずっとそこから下がることはない「段級位制」が主流だった。
 いまは一局指すたびにその勝敗によって点数が変わる「レーティング制」を採用しているところが多くなってきている。ネット将棋もそうであり、この制度だと自分がどれくらいの順位にいるかが一目瞭然でわかる利点がある。
 この点数が上がることは将棋を指す楽しみの一つになっている。投げない人とガマンして終局までつきあうのも点数が上がる楽しみがあるからこそである。
 ところが終局まで行って、(やっと詰ませた、終わった)という瞬間に相手のシステムがダウン(落ちること)することがある。点数も上がらない。(いままでの時間はなんだったんのか)と、ガックリしてしばらく放心状態から立ち直れなくなる。ダウンの原因が故意かシステムのトラブルかはわからない。しかしそれは指していればわかることだ。

 どうしてネット将棋を指している人たちは、「王」の頭に「金」がのっかるまで指すのだろうと考えていて、思いついたことがある。
 いま将棋を指している人たちの中には、人間を相手に将棋を指したことがない人がいて、そういう人が将棋ソフトやオンラインで将棋を指すようになったのではないだろうか。そしてそういう人は将棋をコンピュータ・ゲームの一種としてとらえているのではないか。
 そこにはルールはあってもマナーはない。
 そう考えれば詰みまで指す理由もわかるような気がする。完全にやられるまではどんな手を使っても戦い続けるというのがいまのゲーム感覚なのだろう。どんなに不利な戦いを強いられていても勝負は何がおきるかわからない。相手がクリック・ミスをするかも知れないのだ。オレも何度か痛い目にあっているが、どんなに優勢な局面でもさすがにクリック・ミスしてしまえば逆転してしまうこわさが将棋にはある。
 生か死かのどちらかしかないネット将棋に「投了の美学」なんかクソくらえなのだろう。
 そんなネット将棋に身をおきながら、ふと頭をよぎる。
 「あいつの投了は見事だった」といわれるような人生の幕引きをしたいものだと。
 オレの人生もすでに終盤にさしかかっている。