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「旧かなづかひで書く日本語」 萩野 貞樹

2015年06月12日 00時38分36秒 | 日本語について
 「旧かなづかひで書く日本語」 萩野 貞樹(はぎのさだき)昭和14年生まれ 幻冬舎新書 2007年

 「山月記」の醜い模造品

 原作を改変して出版されては参つてしまふといふことを、私は本書のあちこちで言つてゐますが、ここでは主に、新かなへの改変は非文化的であり、まことに失礼であるといふ点と、文章が現実に意味不明となつて、せつかくの書物が屑物化するといふ点について少々レポートいたします。
 明治書院版高校国語教科書に、中島敦「山月記」が出てゐました。まことに文句の選択です。文字通り名作と称すべき作品で、独特の緊張感に溢れたあの文章は、多くの若者に是非玩味させたいものです。
 その中にかういふ一節がある。

 叢の中からは、暫く返辭が無かった。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。

 これが教科書では次のやうになつてゐます。

 草むらの中からは、しばらくかった。忍び泣きかと思れるかすかなが時々れるばかりである。

 改変部分を太字(赤字)にしてみました。改変・改竄(かいざん)はこの例では漢字の字種、漢字の字体、仮名遣、小書き、の四項目にわたつてゐる。改変教科書版の49文字うち16字は原文には存在しないものです。
 皆さん、少し驚きませんか。こんな短い文章の中で、ほぼ三割の文字が入れ換へられてゐるのです。似たやうなもんぢゃないか、といふのとは少しレベルの違ふ話ですからそのつもりで。
 ほぼ三割といつたら短歌なら10字、俳句なら5字6字ですよ。そんなに入れ換へたらそれはもう原作とは全く別物です。しかも注意してもらひたいのは、中島敦「山月記」は純然たる文藝作品だといふことです。和歌俳句と同様のものです。もちろん作者は一字一句に神経を集中して書いてゐます。
 その文章を三割も変へてしまふ。原作者に対するこの上ない無礼といふものでせう。教科書の文字列は、当然「山月記」なんかではない。ただただ醜い模造品であり偽装文にすぎません。
 少なくとも場所が教育の場であるならば、これほど露骨な偽造文書を、ホンモノであるかに偽つて若者に売りつけ、しかも授業料を徴収したりするのは、非教育であるのみならず、刑法にも該当しようかといふ犯罪です。
 ところが文部科学省および教育界は、「それがよいことだ」とするわけです。かうして60年以上にわたり、若者に贋物を与へて贋物に慣れ親しませてきました。
「それは悪いことである」といふのが本書著者の考へ方です。読者の皆さんはいかがですか?