民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「子猫」 幸田 文

2015年06月26日 01時03分00秒 | エッセイ(模範)
 「包む」 現代日本のエッセイ  幸田 文  講談社文芸文庫 1994年

 「子猫」 P-9

 子猫を二匹もらった。うしろ姿では見わけのつかないくらいよく似た二匹で、相当いたずらをするし、しつこくもじゃれるが、何をしても猫特有のかわいい格好をしている。けれども二匹には明らかな相違があって、片方は器量好しで眼がまるく毛並みがよく、人なつこい。片方は鼻がとんがって眼がつりあがって毛が薄くて、人が手を出すと唸り声をあげて物の下へ逃げこむ。器量好しは一日中かわいがられて手から手へ渡っているし、一方は本箱の脇などにぽつんとすわって、なかまがかわいがられるのをじっと見ている。そのうち、もっと悪いことを発見した。下性(げしょう)がよくないのだ。砂の箱があてがってあっても、庭で遊んでいても、わざわざ家のなかへ来ておしっこをする。これではいよいよ誰にも愛されない。
 私も困るやつだと大ぶ嫌いかけて、ふと、なぜわざわざ家のなかへ来てするのだろうか、そこに解せないものがある、と気がついた。気をつけていると、彼はあわてて座敷のなかへ駆けこんで来て、哀しげな小声で啼きながら落ちつきなく、あちこちを捜しまわるふうにうろつき、遂にどこへでもしゃがんでしまうのだった。あわれなものがからだ中に表現されていた。私は母を捜しているのだと直感し、娘を近処の獣医師へ相談にやった。
「一体にからだの弱い猫が、ことにおなか具合の悪いときに、そういう粗相をするのだ」そうで、薬をもらって来た。「もともと弱く生まれついているんだから、手をかけてかわいがって育ててやってくださいって。先生の経験から云うと、こんなに眼がつりあがって不器量なのも、性質のたけだけしいのも、手をかけてやると治るんだっていう話なの。ねえ、うちの人もよそから来る人も、みんなあっちばかりかわいがり過ぎていたわねえ。」娘は申しわけなさそうに、そうっと云った。
 たかが猫のことだと云ってしまえばそれまでだが、平等にしようと心がけるのは、正直に云ってむずかしかった。が、猫は先生の云った通り、つりあがった眼もとが柔らかく円(まる)くなってきたし、人を信頼するようになってきている。両脚をきちんとすわって人の顔を見あげているとき、彼は障子を明けてもらいたい、水が飲みたい。こちらでも彼の望みがわかる。二匹の差はいま殆どないように育っている。その、もう先輩の先生は「よくなりましたね」と褒めてくれた。
 むかし私は不器量でとげとげしい気もちの、誰からも愛されない子だった。そして始終つまらなかった。それがこたえていたので、三十、四十の後になっても大勢子供がいれば、きっとすねっ子、ひがみっ子、不器量っ子のそばへ行って対手(あいて)になってやる気もちなのは、うそではなかった。けれども猫ではこの始末であった。子供のときからの、長い、あわれなもの弱いものに寄せる心ではあったが、それも結局は、いい加減な中途半端なものだったとしか思えない。そりゃそうな筈だ、愛されない恨みのうえに根を下ろして辛うじて――そう、ほんとに辛うじてだ――もった愛情などは、しょせん平等なおおらかな愛とは云えないのだ。だめだなあと嘆息しながら、何十年の経て来た時間を考える。