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「書かれていないのは、ほぼ女である」 宮沢 章夫

2015年10月06日 01時11分17秒 | エッセイ(模範)
 「青空の方法」 宮沢 章夫 朝日新聞夕刊に連載されていたエッセイ集 朝日新聞社 2001年 

 「書かれていないのは、ほぼ女である」 P-45

 ある雑誌で小説について語られた座談会を読んだ。参加者の一人の発言に私は奇妙な気持ちにさせられたのだった。
 「女が書けていない」
 そういえば、小説に限らず、映画にしろ演劇にしろ、しばしば批評された文章でこの言葉を目にするが、「女が書けていない」とはいったいなんだ。よくわからないのだ。
 外見的な特徴のことではないだろう。「髪が長くて、スカートを穿いていて、お化粧をしていて」などと書いたら小学生の文章である。かといって、生物学的な側面から書けばいいのかといえばそうでもなさそうで、社会的な存在としての女性を書くという話でもないだろう。
 では、「男が書けていない」はどうなんだ。
 かつて私は、「男が書けていない」と書かれた文章や発言にこれまであったことがないが、記憶にないだけだろうか、あるいは単に見過ごしているのか。そのことから私はひとつの発見をした。
 「書かれていないのは、ほぼ女である」
 だから次のような言葉は、けっして生まれないだろう。
 「犬が書けていない」
 犬にだって言い分はある。たしかに犬が出てくるが、これじゃ納得できなと犬は反発し、「犬が書けていないね」とえらそうに言うかもしれないのだ。象だってそうだ。「象が書けていない」とぶつぶつ文句を垂れ、オオアリクイもまた、「オオアリク、もっと書いてくれよ」と乱暴な口振りで抗議するかもしれないが、そこへゆくと猫は漱石に対して、「ま、おおむね、猫は書けてるな、あんたの作品はさ、例の、あの小説」と口にするので、このことから、犬や象、オオアリクイより、猫の方がやや幸福ということになるが、犬や猫のことなど、ほんとうはどうでもいい。
 どうやら、「女は、書かれなければいけない」ことになっているのである。つまり、ことさら、「書かれる」ことを強調される立場にあるのだった。
 だがよくわからない。「女を書く」とはなんだ。男の作家が、「男を書く」のがべつに問題にされないが、私にしたら、見ず知らずの山田さんについて書くものまた、容易なことではない。山田さんの知人たちが口々に言う。
 「山田が書けていない」
 それだったら、少しはわかるような気もするのである。