この言葉は、先日も本ブログで書いたが、故日野原重明さんの言葉の2回目だ。先日、テレビ朝日(先日はTBSとしましたが訂正しました)のワイドショーで、番組スタッフが日野原さんのお宅に訪問した時に、日野原さんの遺言として次男の妻から伺った話とご本人の生前のVTRを放映していた。主題は「105歳の遺言『生きていくあなたへ』」だった。
病気で自宅療養に入り、大分体力が低下した時でも、ベッド枠に持たれながら、話しをされ「死は怖い。言葉を聞くと嫌になる」。「まだまだやることがある」と話されていた。スタッフは、日野原さんの書斎を訪た。幾重にも重なる書棚に、医学書をはじめ、ご自分の著書などの本で満たされていた。執筆をする机がある窓からは、庭が一望でき、庭を眺めるのが好きだったという。次男の妻は、「血のつながりは関係ない、一緒に食卓を囲むのが家族だ」と語っておられた日野原さんのことばに感動され、家庭や仕事でも常に、日野原さんに付き添っていたという。
日野原さんは1911年(明治44年)に生まれ、30歳で聖路加国際病院内科に勤務した。58歳の時日航機よど号ハイジャック事件の飛行機に同乗していた。4日間機内に監禁されていた。死を覚悟して、解放されたとき妻と抱き合い、「これからの命は与えられたもの。人のために生きる」としたとのこと。その後、83歳の時、地下鉄サリン事件が発生した。即座に病院の外来を中止し、被害者のために病院を提供した。また、「生活習慣病」という呼称や「人間ドック」を創始したなどの業績がある。
今年4月にインタビューに応え、延命治療は一切しませんと語っておられた。「これからの人生もまだまだ続く。旅の苦しみがあるのかもしれない。でも、苦しみが強かった分、今は感謝している」というような内容で語った。さらに「(以前は死が怖かったが)川があってきれいな花が咲いていて、いらっしゃいと言われ...僕は間もなく行くよ」。「天国に行くときにどんな景色があるのか楽しみ」、「今の心境を皆さんに話すことができる喜びを感謝している」と語り、死が怖くなくなったという。そして、7月18日に105歳の生涯を閉じられた。
残された言葉として「keep on going」(進み続けよう)とのこと。さらに、色紙に書かれた自筆の日野原さんの次のことばが書斎に掲示されていた。番組終盤の映像が印象に残っている。
「ありがとうという言葉で人生をしめくくりたいものです」
病気で自宅療養に入り、大分体力が低下した時でも、ベッド枠に持たれながら、話しをされ「死は怖い。言葉を聞くと嫌になる」。「まだまだやることがある」と話されていた。スタッフは、日野原さんの書斎を訪た。幾重にも重なる書棚に、医学書をはじめ、ご自分の著書などの本で満たされていた。執筆をする机がある窓からは、庭が一望でき、庭を眺めるのが好きだったという。次男の妻は、「血のつながりは関係ない、一緒に食卓を囲むのが家族だ」と語っておられた日野原さんのことばに感動され、家庭や仕事でも常に、日野原さんに付き添っていたという。
日野原さんは1911年(明治44年)に生まれ、30歳で聖路加国際病院内科に勤務した。58歳の時日航機よど号ハイジャック事件の飛行機に同乗していた。4日間機内に監禁されていた。死を覚悟して、解放されたとき妻と抱き合い、「これからの命は与えられたもの。人のために生きる」としたとのこと。その後、83歳の時、地下鉄サリン事件が発生した。即座に病院の外来を中止し、被害者のために病院を提供した。また、「生活習慣病」という呼称や「人間ドック」を創始したなどの業績がある。
今年4月にインタビューに応え、延命治療は一切しませんと語っておられた。「これからの人生もまだまだ続く。旅の苦しみがあるのかもしれない。でも、苦しみが強かった分、今は感謝している」というような内容で語った。さらに「(以前は死が怖かったが)川があってきれいな花が咲いていて、いらっしゃいと言われ...僕は間もなく行くよ」。「天国に行くときにどんな景色があるのか楽しみ」、「今の心境を皆さんに話すことができる喜びを感謝している」と語り、死が怖くなくなったという。そして、7月18日に105歳の生涯を閉じられた。
残された言葉として「keep on going」(進み続けよう)とのこと。さらに、色紙に書かれた自筆の日野原さんの次のことばが書斎に掲示されていた。番組終盤の映像が印象に残っている。
「ありがとうという言葉で人生をしめくくりたいものです」