標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

「日本人横綱」という言葉の違和感。マスコミがこだわり過ぎだと思う。

2019-01-17 20:43:20 | 日記
稀勢の里が引退することとなった。
初場所の前、マスコミもファンも稀勢の里が横綱としての正念場を迎えるのではないかという危惧感が、勝敗の期待感より勝っていたように思う。そして、場所が始まり初日に負けると、もう後がないという報道が勢いついていた。二敗すると引退ではないか。歴代の連敗記録に並ぶとか、コメンテイターも論評する。

こうした報道の中、15日に三敗し、翌日引退会見となった。NHKも民放もこぞって、「日本人横綱」がいなくなったと報道した。この日本人横綱という言葉自体は、客観的な呼称であるが、「稀勢の里」に関する報道では、違和感を感じる。
女人禁制と同じような“差別感”を覚える。

大相撲が、外国人を受け入れるようになったときから、“日本人”と“外国人”と差別的な使用はするべきでないと思う。大相撲で取り組みを行う前に、番付、所属部屋と出身地をアナウンスする。決して“外国人”とは言わない。国名をアナウンスする。これでよいのではないか。
「外国人横綱」と際立たせているのは、マスコミなのではないか?

相撲は国技という。国技ということを守りつつ相撲協会は他国出身の力士を受け入れた。国技であることを捨てたわけではない。他国の人が力士になるのには、日本が育てた相撲文化は守られている。外国出身の力士には、競技としての技だけでなく、言葉や礼儀をはじめ髷、回しを、和装などいわゆる日本文化を学び身につける。こうして人としての出身国による差別はせず、日本の伝統は引き継ぐということに意義がある。

国籍は出身国のままでもよいし、日本の国籍を取得してもよい。
(他国出身の力士は各部屋一人に限るなどの縛りもあるので、手放しに自由な受け入れ態勢とはいえないが)

本題からそれるが、昨年の国会で、人権にあまり配慮の無い外国人労働者の受け入れに係る入管法の改正が成立した。相撲力士の受け入れのように、他国出身の労働者の受け入れも自由であったらと思う。
コメント
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