その理由は次のようだが? 明治22年からから戦後新憲法が制定されるまで施行されていた「大日本国憲法」(以下「旧憲法」)があった。それを改正するということで、「日本国憲法」(以下、「現憲法」)となり、章立てがそのまま残ったようだ。旧憲法も第1章が「天皇」だった。そして旧憲法は天皇の後に「第2章 臣民権利義務」となっていた。新憲法は第2章に「戦争の放棄」が挿入された。

続いて新憲法は第3章「国民の権利及び義務」となる。「臣民」から「国民」へと改正され、国民主権が実現することとなった。しかし、私は中学の頃から、新憲法は国民主権なのに、何故天皇が第1章なのかがどうしても理解できなかった。そして今も同じだ。
私は象徴天皇としての存在は否定しない。しかし、国民主権となったのだから、第1章に「国民の権利及び義務」を設定した方が、国民主権にふさわしいものと思うのだが?
憲法についての世論調査で、ほとんどのメディアでは、足並みをそろえたように、「憲法改正に賛成ですか、反対ですか」と問う。そして、政治家や専門家の討論会でも、「改正」に反対か賛成という論で展開する。これについても常に疑問を感じる。憲法の「改正」はその賛否という2者択一で論ずる問題だろうかと。
「改正」の賛否を問うのではなく、その内容を吟味すべきで、その手続きを経て、各条文について、改正の是非を論ずる必要があると思う。
憲法改正ありきで論が進められているが、どこか「加計学園」と共通する危うさがある。世論調査では、改正の賛否については「どちらともいえない」が最も多い。連休明けの国会でも、虚偽答弁、文書改ざん、セクハラの認識などとともに、憲法問題についても、スタート地点にリセットしてそ、れこそ真摯に虚偽の無い答弁で臨んでほしいと願う。

続いて新憲法は第3章「国民の権利及び義務」となる。「臣民」から「国民」へと改正され、国民主権が実現することとなった。しかし、私は中学の頃から、新憲法は国民主権なのに、何故天皇が第1章なのかがどうしても理解できなかった。そして今も同じだ。
私は象徴天皇としての存在は否定しない。しかし、国民主権となったのだから、第1章に「国民の権利及び義務」を設定した方が、国民主権にふさわしいものと思うのだが?
憲法についての世論調査で、ほとんどのメディアでは、足並みをそろえたように、「憲法改正に賛成ですか、反対ですか」と問う。そして、政治家や専門家の討論会でも、「改正」に反対か賛成という論で展開する。これについても常に疑問を感じる。憲法の「改正」はその賛否という2者択一で論ずる問題だろうかと。
「改正」の賛否を問うのではなく、その内容を吟味すべきで、その手続きを経て、各条文について、改正の是非を論ずる必要があると思う。
憲法改正ありきで論が進められているが、どこか「加計学園」と共通する危うさがある。世論調査では、改正の賛否については「どちらともいえない」が最も多い。連休明けの国会でも、虚偽答弁、文書改ざん、セクハラの認識などとともに、憲法問題についても、スタート地点にリセットしてそ、れこそ真摯に虚偽の無い答弁で臨んでほしいと願う。