「聖血礼拝堂」にたどり着こうとして
私たち親子は頭の中に?マークだらけになった。
地図に載っているマルクト広場から礼拝堂までの
近道がない、のだ。
ところが娘が子供独特な柔軟さで、
道があるはずの建物の中に入っていき、
「ママ、この建物の中に道があるんだよ」
と自信ありげに言う。
そして、事実それが本当に地図上に
書かれていた
探していた道だったのだ。
中世の町並は現代のそれとは
当たり前に違うのであった!
(ブルージュは中世から時が止まったまま
ひっそりと息づいているような町)
常識を揺すぶられた心地よい驚きと
共に建物の中、回廊のような道を
娘と歩いていった。
聖血礼拝堂では、
神父さまが見守る中、
おごそかに
聖遺物に手をあて、お祈りするために
人々が列を作っていた。
「イエス・キリストを神の子と信じるものは
この聖なる血に触れてもよい」と
書かれた立て看板があった。(英語)
つまり信仰のある人だけが
聖なる血に触れてもいいよ!
ということなのだ。
私も娘も信仰があるので、
聖なる血に触れるための列に加わった。
透明な筒の中に
ミイラのような手が入っている。
その手が赤く血塗られているのだ。
どうもその赤いものが聖なる血、
というわけらしい?
聖血礼拝堂には
十字軍の遠征に加わった
フランドル伯が
コンスタンチノーブルより
持ち帰った「聖血の遺物」
が奉納されていたのだ。
毎週金曜日のみ開帳されるいる。
もちろん、私たち親子は
その聖血の遺物を目指して
金曜日にブルージュを訪れたのだ。
実際は透明な筒に手をあてたわけで、
血そのものに触れたわけではない。
それでも、信仰のある者にとっては
聖なる体験なんだよね。
ただ、プロテスタントである私たち親子にとっては
カソリックが今も大切に保存する
聖遺物を多少、複雑な思いで
見てしまうことも確かだ。
「あなたは、自分のために、
偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、
下の地にあるものでも、
地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、
ねたむ神、わたしを憎む者には、
父の咎を子に報い、
三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、
わたしの命令を守る者には、
恵みを千代にまで施すからである。」
(出エジプト20:4~6)
という
聖書の教えを心に浮かべてしまうからかなあ。
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