今月の5日が父の50回忌の日でしたので、この月のうちに少しでも父の思い出を書いておこうと思います。
昨年母が亡くなり、どうしても母の思い出が強く前に出て、早くに亡くなった父のことが置き去りになってしまっているので、申し訳ないと心の中で詫びています。
私は、幼少の頃生まれた時からずっと病弱で、小学校へ行くようになっても、一人で学校まで行く体力も気力も無かったので、しかも田舎でしたので、家から学校までは、今住んでいる所では想像も付かないほどの距離がありました。
今の住居は、私の小学校より近い距離に3つの小学校があります。ここなら当時の私でも自分で行くことが出来たのではと思います。
当時の田舎では集団登校などありませんでしたし、体の弱かった私は、毎朝父が自転車で出勤する時、乗せてもらって学校へ行っていました。1,2年の時はずっと送ってもらいました。
帰りは母がリヤカーで迎えに来てくれて、それに乗せてもらって帰りました。3年生になった頃から自分で通学出来るようになりました。
父に自転車で送ってもらうために、自転車の後ろにカゴが積んであって、そのかごの中に私は乗っていました。ある時、家で飼っていた鶏と一緒にそのかごの中に乗せてもらって学校へ行きました。
その鶏が、どうして私と一緒に乗っていたのか解りません。この鶏を父は誰かにあげるつもりだったのか、それとも売りに持って行ったのか解りません。そして、よく道中逃げ出すこともなく、私と一緒にカゴに乗っていたのかも解りません。
そして私が学校で降ろされた後、その鶏がおとなしく行くべき所まで行ったかどうかも解りません。
この鶏と一緒にカゴに乗って行った日に、学校で話題になり、皆に笑われたことだけは覚えています。
ある寒い冬の朝、いつものように自転車に乗せてもらって学校へ行きましたが、その日は寒さのため道が凍っていました。学校の所に橋が有り、その橋を渡れば学校の校庭になるのですが、その橋も凍っていて自転車がすべって横転し、私は投げ出され、欄干の無いその橋の端で、まさにまさに川へおちると言う所で、校舎から見ていた先生が飛んで来て下さり、父も私も無事でした。
普通の家庭ではお母さんの方が教育ママゴンですが、我が家では母は[勉強しなさい」とか「宿題したか?」等とは殆ど言いませんでした。それに比べ、父はいつも「勉強で要るものは何でも買うたげるし、勉強しなさい」「今日テスト出来たか?」等とよく言っていた。
授業参観や懇談会に来たのも父でした。わざわざ仕事中に来なくてもいいのにと思いました。お父さんが授業参観などに来る家庭は、今でこそ父親参観日と言うのもあったりして、お父さんも授業を見に来たり、懇談に参加されますが、当時はお父さんが来るなんてめったにありませんでしたから、私はとてもイヤでした。
勉強道具ではありませんが、ペンギンの絵の付いたアルミのお弁当箱を父が買ってくれた記憶があります。普段は給食がありましたので、遠足や運動会の時くらいしか使う機会はありませんでしたが、そのお弁当箱が気に入っていました。
母が、時々そのお弁当箱にゼリーや卵豆腐を作っていた記憶もあります。5年ほど前に実家に行った時、忘れていたそのお弁当箱を見つけ、これ帰るとき父の思い出にもって帰ろうと思ったのですが、いざ帰る時、すっかり持って帰るのを忘れました。
次に実家へ行った時には、母が倒れて入院しておりましたので、妹の鬼○子が、母の家にある不要と思えるものをかってに処分しました。軽トラック2台で取りに来てもらい、17万円払ったそうです。勿論母のお金で。
その時に不要の物として扱われたらしく、いくら探してもそのお弁当箱は見つかりませんでした。とても残念です。
昨年母が亡くなり、どうしても母の思い出が強く前に出て、早くに亡くなった父のことが置き去りになってしまっているので、申し訳ないと心の中で詫びています。
私は、幼少の頃生まれた時からずっと病弱で、小学校へ行くようになっても、一人で学校まで行く体力も気力も無かったので、しかも田舎でしたので、家から学校までは、今住んでいる所では想像も付かないほどの距離がありました。
今の住居は、私の小学校より近い距離に3つの小学校があります。ここなら当時の私でも自分で行くことが出来たのではと思います。
当時の田舎では集団登校などありませんでしたし、体の弱かった私は、毎朝父が自転車で出勤する時、乗せてもらって学校へ行っていました。1,2年の時はずっと送ってもらいました。
帰りは母がリヤカーで迎えに来てくれて、それに乗せてもらって帰りました。3年生になった頃から自分で通学出来るようになりました。
父に自転車で送ってもらうために、自転車の後ろにカゴが積んであって、そのかごの中に私は乗っていました。ある時、家で飼っていた鶏と一緒にそのかごの中に乗せてもらって学校へ行きました。
その鶏が、どうして私と一緒に乗っていたのか解りません。この鶏を父は誰かにあげるつもりだったのか、それとも売りに持って行ったのか解りません。そして、よく道中逃げ出すこともなく、私と一緒にカゴに乗っていたのかも解りません。
そして私が学校で降ろされた後、その鶏がおとなしく行くべき所まで行ったかどうかも解りません。
この鶏と一緒にカゴに乗って行った日に、学校で話題になり、皆に笑われたことだけは覚えています。
ある寒い冬の朝、いつものように自転車に乗せてもらって学校へ行きましたが、その日は寒さのため道が凍っていました。学校の所に橋が有り、その橋を渡れば学校の校庭になるのですが、その橋も凍っていて自転車がすべって横転し、私は投げ出され、欄干の無いその橋の端で、まさにまさに川へおちると言う所で、校舎から見ていた先生が飛んで来て下さり、父も私も無事でした。
普通の家庭ではお母さんの方が教育ママゴンですが、我が家では母は[勉強しなさい」とか「宿題したか?」等とは殆ど言いませんでした。それに比べ、父はいつも「勉強で要るものは何でも買うたげるし、勉強しなさい」「今日テスト出来たか?」等とよく言っていた。
授業参観や懇談会に来たのも父でした。わざわざ仕事中に来なくてもいいのにと思いました。お父さんが授業参観などに来る家庭は、今でこそ父親参観日と言うのもあったりして、お父さんも授業を見に来たり、懇談に参加されますが、当時はお父さんが来るなんてめったにありませんでしたから、私はとてもイヤでした。
勉強道具ではありませんが、ペンギンの絵の付いたアルミのお弁当箱を父が買ってくれた記憶があります。普段は給食がありましたので、遠足や運動会の時くらいしか使う機会はありませんでしたが、そのお弁当箱が気に入っていました。
母が、時々そのお弁当箱にゼリーや卵豆腐を作っていた記憶もあります。5年ほど前に実家に行った時、忘れていたそのお弁当箱を見つけ、これ帰るとき父の思い出にもって帰ろうと思ったのですが、いざ帰る時、すっかり持って帰るのを忘れました。
次に実家へ行った時には、母が倒れて入院しておりましたので、妹の鬼○子が、母の家にある不要と思えるものをかってに処分しました。軽トラック2台で取りに来てもらい、17万円払ったそうです。勿論母のお金で。
その時に不要の物として扱われたらしく、いくら探してもそのお弁当箱は見つかりませんでした。とても残念です。