15日の告別式は、11時からでしたので、9時に出ました。
前日に比べ、朝からいいお天気になり、助かりました。
10時40分に着いて、2Fの親族の席に着きました。
もうこの時点で、2Fの会場は入りきらない人の多さで、前日と同じように3Fへ多くの人が案内され、そちらで式に参加され、焼香や、献花の時には、2F会場の人たちが終わる頃に案内されて降りて来られました。
弔電も最初6名の方のを、文面と会社名や名前が紹介され、その次は、同文のため、会社名や、お名前だけ20名分が読みあげられ、このほかにも70数通頂いておりますので、全て祭壇のほうにお供えしていますと案内されました。
さすが、○○建設の社長さんやな。
参列者、供花、弔電の数が半端じゃない!
これらの多さ以外に印象に残ったのは、この○○家の長男。
32歳でこの社長の後を突然継ぐことになりました。
4人姉弟の末っ子で、上の3人はお姉さんたち、4人目に待望の男の子が生まれたのがこの長男さんです。
待ちに待った男の子で、大事に大事に育てられ、親からは、少々甘やかされて育てられたような感じがあり、3人のお姉ちゃんたちからは、手下のようにこき使われていた長男さん。
この長男さんは、大学卒業後、3年間は、自由にさせて欲しいと言う事で、ストリート・ミュージシャンをしていました。
でも約束通り、3年が過ぎたら、ちゃんと親の後を継ぐべき、親の仕事に従事していました。
お父さんの社長は、先月、から咳が続き、入院され、その時点で集中治療室へ。
間質性肺炎という事でした。
丁度一カ月の入院で、逝ってしまわれた。
60代を少し過ぎた年齢で、あっけなく命の灯が消えてしまいました。
家族も、そして本人さんも、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった事と思います。
体格のいい、病気なんか縁がなさそうに見える人でしたのに・・・
体格は、いかつい感じに見える人でしたが、性格は温厚で、誰にでも優しい人柄でした。
長男さんが、皆さんに喪主として挨拶された時、泣きながら、一生懸命人を感動させるような事を言われました。
「ある大学病院の、終末医療にたずさわっている先生が言われた言葉を思い出しました。
人にいい事をしてきた患者は最後の時、家族や多くの人に見守られて、安らかに死を迎えられ、そうでなかった人は、最後は苦しみながら、又は、孤独にさいなまれて亡くなっていくと言われました。
幸いなことに父は、12日の朝5時5分に、家族全員に見守られ、抱かれて静かに逝きました。
これからは、私はまだまだ未熟で、父の足元にも及びませんが、一歩一歩父に近づく事が出来るように頑張りますので、よろしくお願いします。
そして、いつの日か、私も父のところへ行った時、あの優しい笑顔で『良く頑張ったな』と言って貰えるようになろうと思います」
この挨拶を聞いて、まだまだ坊ちゃんだと思っていた多くの人は感動の涙を流しました。
最後のお別れの花をお棺の中に入れてあげる時、勿論家族はみんなおお泣き。
長女の息子で幼稚園の制服を着た幼い子が、「じいちゃんパパ、じいちゃんパパ」と泣きじゃくっていたのが参列者の涙をより誘いました。
社長が、このお孫さんをかわいがり、お孫さんもおじいちゃんをどんなに慕っていたかが偲ばれます。
何らかの都合で生きて別れるのさえつらい事なのに、まして死に別れほど辛いものはありませんね。
涙・涙で、身も心も洗われた感じでした。
ご家族にとっては、突然にぽっかりと空いた大きな穴を、家族みんなで支え合って、早く立ち直って頂きたいと思います。