気の向くままに

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相撲の番付にあやかって昔からいろんな分野の番付・・・

2015-08-03 10:00:47 | 日記

 相撲の番付にあやかって昔からいろんな分野の番付作りが盛んだ。大正12年に出版された「今古大番附(きんこだいばんづけ) 七十余類(しちじゅうよるい)」(東京番附調査会編)の「大正評判女番附」には思想家の平塚らいてうや画家の上村松園らの名が並ぶ。その中で横綱の一人に挙げられたのが広岡浅子だ。

▲幕末に京都の商家に生まれ、「女子に学問は不要」と読書を禁じられて育った浅子は17歳で大阪の豪商、加島屋に嫁ぐ。維新の激動期に家業は危機に陥るが、独学で算術や簿記を学んで立て直しに奮闘。炭鉱や銀行、生命保険など多くの事業を手がけた。

▲少女時代に勉学がかなわなかった悔しさをばねに、後年は女子教育の充実にも力を注ぐ。伊藤博文や渋沢栄一らに働きかけるなどして、日本初の女子高等教育機関である日本女子大学校の設立に貢献した。

▲浅子が夫らと共に創業した大同生命の本社(大阪市)で、浅子に関する資料を集めた特別展が開かれている。直筆の書簡類や、交流があった人々の写真などを通して、七転八起(しちてんはっき)ならぬ九転十起(きゅうてんじゅっき)を信条とした生き方が伝わってくる。

▲数枚の写真には「赤毛のアン」などの翻訳で知られる村岡花子の姿もある。浅子が学生らを集めて行った勉強合宿の記念写真だ。花子は「小我(しょうが)に固執せず、真我(しんが)を見つけなさい」という浅子の言葉に感銘を受け、翻訳家になる意を強くしたという。

▲NHK連続テレビ小説「花子とアン」で一足先に主人公のモデルとなった花子に続き、浅子はこの秋から放映される「あさが来た」のヒロインのモデルになる。幕末から明治、大正時代を駆けた女傑は現代にどんなメッセージを伝えるのだろうか。

 

2015年08月03日 02時30分毎日新聞 余録

 

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