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リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

君が代強制問題は終わっていなかった――妥協点は?

2019-05-05 | 政治
東京や大阪で教職員に君が代の起立斉唱を求め、従わない者は処罰するということが相次いだ時期があった。弾圧の効果で問題が表面化することはなくなったと思っていたが、問題はまだ終わっていないことを知った(朝日新聞2019-5-5)。
2017年、大阪府立高の教員が定年を前に再任用を希望したところ、校長から「起立斉唱を含む上司の職務命令に従いますか。『はい』か『いいえ』で答えてほしい」という踏み絵を求められ、答えなかったところ再任用されなかったというのだ。このような踏み絵を課されたのは再任用希望者全員ではない。教員は過去に2回不起立で処分を受けていたため狙い撃ちにされたようだ。教員が府の教育委員会に問いただすと、「再度の可能性がうかがえる」からという。だが、体罰などの処分者には確認していないのはなぜかという問いには「再度の可能性が薄い」という。そして薄い、濃いの根拠を問いただすと、教委は答えられなかった。このような形で君が代の起立斉唱の「強制」は今でも続く問題なのだ。
2011年、2012年に大阪府、大阪市では君が代の起立斉唱を義務付ける条例、さらに不起立・不斉唱で3回処分を受けたら原則くびになる条例ができた。憲法が「思想・良心の自由」を保障しているとの批判に対し、知事・市長として制定を主導した橋下徹氏は「思想良心ではなく組織マネジメントの問題」、「組織は全て上意下達の指揮命令で成り立つ」と切り捨てた。だが歌わない人だって、必ずしも思想信条に基づいて戦っているのではなく、親の戦争体験、被爆二世、在日朝鮮人や被差別の子供との交流などさまざまな理由で「歌えない」という人も多いという。
だが2011年の最高裁判決以来、起立斉唱はOKという流れになってしまっているようだ。それによると起立斉唱は「一般的、客観的に見て式典における慣例上の儀礼的な所作」であると認定し、「思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある」ことは認めつつ、不起立不斉唱は「社会一般の規範と抵触する場面において制限を受けることがある」と判断したのだという。

「強制」については天皇(現上皇)も懸念を示していた。都教育委員が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事」と園遊会で言ったとき、強制にならないように、と答えたという(朝日新聞2019-5-3)。もちろん、政治的権能をもたない天皇の発言に、「思想・良心の自由を保障する憲法の規定を守りましょう」という自明のこと以上のものを読み取ってはならない。だが、「強制」がまかりとおっているというのは、天皇陛下に言われるまでもなく、多くの人の批判するところだ。

だが、歌わない、歌えない人に苦痛を与えることもなく、式典を乱すこともない妥協は工夫次第で可能なはずだ。
たとえば起立斉唱に反対する教職員は会場周辺の見回りに配置するといった配慮をしている学校があると大昔に読んだ。
また、式次第も工夫できる。「君が代を斉唱するから起立してください」と言われると立ちたくない人でも、「起立→開会の辞→君が代斉唱→校歌斉唱→着席」という流れであれば立つことに違和感はないのではないか。(君が代の「口パク検査」は論外。)
そもそも最高裁判示は「社会一般の規範と抵触する場面」を挙げているが、今の時代、体調が悪い人などに起立を強要しないことが「社会一般の規範」になっていると思う。つまり、不起立が「社会一般の規範と抵触する」という判断が時代に合わないのではないか。起立をうながす際に、「体調の悪い人などはそのままで結構です」などと案内すれば、不起立の人を見て不快に思う人もいなくなるだろう。


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