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解説-19.「紫式部日記」一条朝以降

2024-06-27 10:06:21 | 紫式部日記を読む心構え
解説-19.「紫式部日記」一条朝以降

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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一条朝以降

  寛弘八(1011)年五月、一条天皇は病に倒れ、六月二十二日に三十二歳の若さで崩御した。後継は彰子が産んだ篤成(あつひら)親王と決まった。紫式部は彰子と共に内裏を去った。

   ありし世は夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
 (「栄華物語」巻九)

その折のこの歌は、まるで中宮に成り代わってその心を詠むかのようである。

  この年二月一日、為時は越後の守に補任され、その地に赴いていた。紫式部の弟惟規は従五位下に叙されていたが、都での仕事を辞し、老父を労わって彼の地に下った。だが彼自身が病にかかり、越後で亡くなってしまった。

  紫式部は、長和二(1013)年五月二十五日の「小右記」に皇太后彰子に仕え応対する女房「越後守為時女」として見えるので、この時までは彰子や貴族に信頼されつつ働いていたことが確かである。

  だが為時が長和三年六月に任期途中で越後の守を辞退して都に帰り(「小右記」六月十七日)、やがて長和五(1016)年四月二十九日には出家してしまった(同、五月一日)ことから、紫式部も為時の越後下向中に亡くなったのだと解する説もある。

  それに従えば、紫式部は長和三年六月十七日以前に、四十歳前後で没したことになる。しかし「小右記」寛仁三(1019)年正月五日に実資(さねすけ)とその養子資平(すけひら)が太皇太后彰子のもとで会った女房に、長和二年五月二十五日の「為時女」と面影の通じる書き方がされており、これを紫式部と見る説もある。
  そうとすれば、紫式部は彰子の長男篤成が後一条天皇となり、その弟敦良が後太弟となった、天下第一の国母となった彰子の姿を見ることができたことになる。

  筆者は、紫式部はやがて宮仕えから身を引き、晩年を静かな思いで過ごしたと考えている。古文系「紫式部集」巻末歌がその心境を窺わせるからである。

   ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる初雪
 (「紫式部集」一一三)

   いづくとも身をやるかたの知られねば憂しと見つつも永らふるかな
 (「紫式部集」一一四)

  「紫式部日記」にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さと共に生きる境地に、紫式部は達したのである。

  なお、紫式部は「尊卑分脈」に「御堂関白道長妾云々」と、伝聞の形ながら道長との関係を記される。「紫式部日記」年次不明記事の贈答に端を発する風聞と思われるが、「妾」の根拠は不明である。

  二人が情事を持った可能性はあろうが、その関係が「栄華物語」等他資料に言及されていないことを見れば、「妾」や「召し人」などといった継続的関係には相当しない、ほんのかりそめのものだったのではないか。
  ただ、それが当事者の心にもたらす意味はまた別である。「紫式部日記」での道長妻倫子の微妙な描き方、「源氏物語」での召し人たちの丁寧な描き方と共に、今後熟考すべき問題であろう。

つづく

解説-18.「紫式部日記」彰子という人

2024-06-26 10:22:40 | 紫式部日記を読む心構え
解説-18.「紫式部日記」彰子という人

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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彰子という人

  紫式部は出仕によって、「源氏物語」の舞台である宮廷生活の実際に触れ、物語を書き続ける上での経済的支援も受けることができるようになった。だが最大の利点は、言葉を交わすことはもちろん会ったことなかった様々な階層の人々に会い、貴賤を問わぬ人間観察を深めたことだろう。中でも彰子という人との出会いで得たものは大きかったはずだ。

  彰子は道長という最高権力者の娘、今上天皇の中宮という貴人である。だがその生涯は、少なくともこれまではただ家の栄華のためにあった。十二歳で入内させられ、しかし夫にはもとからの最愛の妻、定子がいた。定子が亡くなると夫はその妹を愛し、彰子を振り向きはしなかった。

  彰子は十四歳から定子の遺児敦康の義母となったが、自身が懐妊することはなかった。おそらく道長のデモンストレーションという政治的理由の御蔭(おかげ)でようやく懐妊となったが、今度は男子を産まなくてはならない。彰子こそが苦を抱え、逃れられぬ「世」を生きる人であった。

  だが、彰子は紫式部に乞うて自ら漢文を学び、一条天皇の心に寄り添おうとした。晴れて男子を産み内裏に戻る際には、一条天皇のために「源氏物語」の新本を作って持ち帰った。自分の力で少しずつ人生を切り拓く彰子の手伝いができることは、紫式部の喜びであったろう。

  彰子は寛弘五年と六年に年子で二人の男子を産んだ。寛弘七年正月十五日には二男敦良親王の誕生五十日(いか)の儀が催された。「紫式部日記」巻末記事のその場面には、彰子と天皇の並ぶ様が「朝日の光あひて、まばゆきまで恥ず(づ)かしげなる御前なり」と記されている。この年の夏か秋、紫式部は「紫式部日記」を執筆し、彰子後宮を盛りたてる気概を示した。

つづく

解説-17.「紫式部日記」出仕

2024-06-24 09:48:51 | 紫式部日記を読む心構え
解説-17.「紫式部日記」出仕

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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出仕

  家にいて書き始めた初期の「源氏物語」が、短期間で人気を博したのだろう。紫式部は寛弘二(1005)年か三年の年末には、彰子の女房として出仕することになった。ここには、道長か、あるいは紫式部にとってまたいとこである彰子の母源倫子の要請があったと考えられる。
  前述のように、道長は知的女房によって彰子後宮を彩り、いまだに懐妊を見ない彰子と天皇の仲を促したいと考えていた。道長は最高権力者で、紫式部の父為時の越前の守補任の際の恩人でもある。女房勤めの資質も意欲もない紫式部だったが、拒むことはできなかったはずだ。

  だが紫式部の内心は、居所が後宮に変わろうとも、常に「身の憂さ」に囚われていた。いっぽうで、紫式部を迎える彰子付き女房たちは、身も知らぬ才女を警戒していた。自分の殻に閉じこもる紫式部と、偏見によって彼女を毛嫌いする女房たちとはそりがあうはずもなく、紫式部はすぐに家に帰って、そのまま蟄居することになった。

  不出仕は五カ月以上に及んだ。復職はそれからなので、初出仕が寛弘二年末であったとしても、「紫式部日記」記事の寛弘五年秋までに、紫式部には実質二年余の経験しかないことになる。

  女房の世界は、主家に住み込み、主人への客に応対し、様々な儀式での役をこなす、「里の女」とは全く異質のものである。特に紫式部が激しい拒否感を抱いたのは、不特定多数の人に姿を晒すことや、男性関係が華やかになりがちなことだった。
  だが、「紫式部日記」によれば、寛弘五年の紫式部には大納言の君や小少将の君という職場仲間がいた。

  この年五月の土御門邸法華講で彼女たちと交わした和歌が、「紫式部集」古本系付載の「日記歌」なる後人作資料に載せられている。
  それによれば紫式部は華やかな法事を目の当たりにしつつ「思ふこと少なくは、をかしうもありぬべき折かな」と我が物思いの丈に涙ぐみ、大納言の君は「かがり火にまばゆきまでも憂き我が身かな」と詠み返し、翌朝には小少将の君も「なべて世の憂きに泣かるるあやめ草」と詠んでいる。
  出自や身分は違え、誰しもがそれぞれに苦を抱えて生きているということに、紫式部は思いをいたしただろう。

つづく

解説-16.「紫式部日記」夫の死

2024-06-22 16:26:58 | 紫式部日記を読む心構え
解説-16.「紫式部日記」夫の死

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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夫の死

  だが、幸福は長く続かなかった。長保三(1001)年四月二五日、宣孝が亡くなったのである。宣孝はその二カ月前まで記録に名前が見える(「権記」同年二月五日)ので、長く臥せっていた訳ではない。
  紫式部にとっては唐突な、夫との死別であったに違いない。加えて妾という立場でもある。死に目にあう、ということもできなかっただろう。
  「紫式部日記」によれば、彼女はその後幾つかの季節を、喪失感だけを抱えて呆然と過ごすことになる。

「紫式部集」の和歌は、夫との死別を境に一変し、人生の深淵を見つめ、逃れられぬ運命を嘆くものとなる。彼女は夫の人生を「露と争ふ世」と詠んでそのはかなさを悼み、自分のことは「この世を憂しと厭(いと)ふ」と言い捨てた。
  「世」とは命や人生、また世間や世界を意味する言葉だが、そこに共通するのは、<人を取り囲む、変えようのない現実>ということである。そして、そうした「世」に束縛されるのが、人の「身」である。人は「身」として「世」に拒まれ生きるしかない。ただ死ぬまでの時間を過ごすだけの「消えぬ間の身」なのだ。夫の死によって、紫式部はそのことに気づかされたのである。

  ところが、やがて紫式部は、「身」ではないもう一つの自分を発見する。それは「心」である。ある時気がつくと、思い通りにならない人生という「身」は変わらないのに、悲嘆の程度が以前ほどではなくなっていた。

  数ならぬ心に身をばまかせねど身に従ふは心なりけり
  (「紫式部集」五十五)

  「心」は「身」という現実に従い、順応してくれるものなのだ。だがやがて紫式部は、心というものの、現実を超えた働きにも目を向けるようになる。

  心だにいかなる身にか適(かな)ふらむ思ひしれども思ひしられず
  (「紫式部集」五十六)

  自分の心はどんな現実にも合わないものだと、何度も思い知るのである。

  現実に適応しない心なら、その居場所は虚構にしかない。こうして紫式部は、寡婦であり母である「身」とは別の所に自身の心のありかを見つけるようになる。友人を介して物語に触れ、少しづつ前向きに生き始める様は「紫式部日記」に記されている。

つづく

解説-15.「紫式部日記」結婚

2024-06-21 11:23:52 | 紫式部日記を読む心構え
解説-15.「紫式部日記」結婚

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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結婚

  「紫式部集」によれば、紫式部には、下向先の越前まで恋文を送ってくる男がいた。花山天皇時代、六位蔵人として為時と同僚だった、藤原宣孝である。

  宣孝は紫式部の曾祖父である右大臣藤原定方の直系の曾孫で、紫式部とはまたいとこの関係に当たる。宣孝の父の為輔は公卿で寛和二(986)年権中納言にまで至って亡くなった。母は参議藤原守義(もりよし)女(むすめ)、宣孝とその兄弟たちは受領だったが、姉妹は参議藤原佐理(すけまさ)に嫁いでいる。
  また、宣孝の妻の一人は中納言藤原朝成(あさひら)女で、彼女と宣孝の間の子である隆佐(たかすけ)も、後に後冷泉天皇の康平二(1059)年、七十五歳で従三位に叙せられ公卿の一員になった。(図の関係系図参照)
  このように宣孝の周辺には、過去・宣孝現在・そして未来にわたって公卿が多い。為時とは違い、彼の一族は処世に長けていたのである。宣孝自身は正五位下右衛門権佐兼山城の守が極位極官だったが、それは壮年でなくなったためであろう。

  宣孝は目端の利く男で、行動力もあった。「枕草子:あはれなるもの」に書きとめられているエピソードは有名である。道長も参詣した吉野川金峯山(きんぷせん)は、誰もが浄衣(じょうえ)姿で行くと決まっている。だが宣孝は「人と同じ浄衣姿では大した御利益もあるまい」と、自らは紫の指貫に山吹の衣、同行の長男にも摺り模様の水干などを着させて参詣し、人々を驚かせた。

  ところがまさにその甲斐あってか、二か月後には筑前の守に任官できたという。宣孝が筑前の守になったのは事実で、西暦元(990)年のことである。
  なお、参詣に同行した長男隆光は「枕草子:監物(けんもつ:中務 (なかつかさ) 省に属し、大蔵 (おおくら) ・内蔵 (うちくら) などの出納を監督)」に「長保元(999)年六月蔵人、年二九」と記される。
  実際に長男隆光が蔵人になったのは長保三(1001)年六月二十日(「権記」)だが、いずれにせよ長男隆光は九九〇年代初めの生まれとなり、紫式部と同年代、或いは年上である可能性もある。

  つまり宣孝は、紫式部の父と言ってもよいほどの年配だったのだ。恋が進展した長徳三(997)年、紫式部は二十代半ば、宣孝は四十代半ばか五十がらみで、十分に大人の恋と言えた。

  宣孝は楽しい男だった。春先の恋文には「春は解くるもの」という謎々を書いてきたりした。何が解けるのか?氷や雪、そして冷たい女の心である。「春だもの、君は私を好きになるさ」というのが謎々の意味だ。いっぽう女性関係も盛んで、紫式部と同時期に近江の守の娘にも言い寄っているとの噂があったという。「尊卑分脈」によれば、紫式部以外に少なくとも三人の妻がいた。おそらく裕福でもあったのだろう。

  紫式部はこの年秋ごろに帰京したと考えられる。都では定子が天皇に復縁され、批判の的となっていた頃である。結婚は翌年であろう。なお紫式部は本妻ではなく、妾(しょう:本妻以外の妻)の一人だったので、結婚は終始宣孝が彼女を訪う妻問婚(つまどいこん:夫が妻の下に通う婚姻の形態)の形であった。やがて娘が生まれ、紫式部は妻そして母としての日々を生きた。

つづく