2.定子の栄華
山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集
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2.定子の栄華
清少納言は正暦四(993)年から一条天皇の中宮定子のもとに仕え、やがて「枕草子」の執筆を始めた。紫式部が知っていた過酷な背景は、この定子に関わる。定子は、一条天皇の最愛の后であるとともに、悲劇の后だったのである。
もともと定子は、西暦元(990)年、この年関白に就任する権力者・藤原道隆の娘として十四歳で天皇に入内した、押しも押されもしないキサキであった。
平安時代中期、朝廷の最上層部で権力を握ろうとした貴族たちは、競って家の娘を入内させた。娘が天皇に愛されて皇子を産み、家の血を受けたその皇子がやがて即位して、身内という強力なつながりのもとで自家の権力をさらに盛り上げてくれることを願ったのである。
特に摂政・関白は、天皇の代理あるいは助言者という最高職であり、天皇の身内であれば何かと都合がよかった。あわよくばその職をと狙って、貴族は娘たちを後宮(后妃の暮らす殿舎群)に送り込んだ。キサキたちが居並ぶ後宮は、そのまま政治の戦いの最前線であった。
ところが、定子の場合は違っていた。定子は一条天皇がまだ十一歳の時に初めて迎えたキサキであり、他に競いあう相手などいなかった。そして他にキサキが迎えられぬまま、定子は同じ年のうちに早くも中宮、つまりキサキの中で最高位の称号を得た。
完全に敵なしの中宮、それが定子だった。一条天皇より、三歳年上の定子は明るく知的で、どちらかといえば内気で学問好きな天皇の心を捉えたのだ。
道隆の家を「中関白家(なかのかんぱくけ)」と呼ぶ。美男で明るく冗談好きの父・道隆(「大鏡」「道隆」)、国司階級出身で女官勤めに出ながら、男顔負けの知性ゆえに玉の輿に乗った母・高階貴子(たかしなのきし)。両親の長所を譲り受けて、男女ともに
華やかで知性もある子供たち(「大鏡」「道隆」)。
特に定子の三歳年上の兄である伊周(これちか)は漢詩文の素養に長け、場面に合った詩句を朗々と歌ったり、自分でも漢詩を作っては自慢げに披露したりする才能の持ち主だった。(「本朝文粋」)。
道隆は伊周を一条天皇の側近に就け、さらにわずか十八歳で、現在の内閣閣僚にあたる公卿の一員へと引き上げた(「公卿補任(ぶにん)」)。
ここに定子の存在も力になっていたことは、言うまでもない。漢文を好んだ一条天皇のために伊周は内裏に上がっては手ほどきに勤しみ、その場にはやはり漢文をよく知る定子が控えて、ともに和やかな時を過ごした。天皇にとって中関白家の人々は家族であり、心を開くことができる数少ない相手だった。
清少納言が定子のもとに仕え始めた正暦四(993)年、中関白家は、まさに栄華の極みにあったのである。