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14-後半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)

2024-05-07 17:09:24 | 紫式部ひとり語り
14-後半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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父の浮沈 つづき

  だが父は知らなかった。この宴の主催者である道兼様が、実は花山体制の転覆をはかる敵側から天皇のもとに送り込まれた密偵であったことを。尾多気からわずか一年数か月後の寛和(かんな)二(986)年六月二十三日未明、道兼様は天皇を言葉巧みに内裏の外に連れ出し、あろうことか山科の寺で出家させてしまった。

  愛妃の弘徽殿女御忯子(しし)様を身重で喪われた天皇の悲しみにつけ込んだのだ。天皇は、神道の祭りを行わなくてはならない存在だ。仏教は異教、その専門家たる僧侶であってはならない。僧になりたければ位を降りるしかない。だから、出家させたとは退位させたということなのだ。新しく立てられた天皇はたった七歳。後の世に一条天皇と呼ばれる帝である。

  つまりこれは、政変だった。仕組んだのは、一条天皇の外祖父、右大臣藤原兼家様。道兼様はその息子だ。兼家様は四代前のご先祖藤原良房様以来実に百二十年ぶりの外祖父摂政となって、すべての権力を握られた。

  旧勢力となった義懐(よしちか)様と「五位の摂政」藤原惟成(これしげ)は自ら出家。即日、蔵人以下新天皇のもとの新体制人事が行われて、父は失職した。(「日本紀略」寛和二年六月二十三日)。

  それから十年、父には職がなかった。官人としての資格のみで、所属する職場のない「散位」になったのである。兼家様の息子の三兄弟、道隆様、道兼様、そして道長殿が次々台頭するのを遠くに見ながら、鬱屈の日々が続いた。私はこうした父のもとで育ったのだ。

  我が家は輝かしい名家だ。だが父には職もない。漢学は素晴らしい学問だ。だがそれを修めた父は世に用いられぬ。私は私の血と教養に胸を張る。だが一体それが何になるのだろうか。

つづく

13-前半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)

2024-05-06 10:52:04 | 紫式部ひとり語り
13-前半.紫式部の育った環境 父の浮沈 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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父の浮沈

  父は安和(あんな)元(968)年、播磨権少掾(はりまのごんのしょうじょう)となった(「類聚符宣抄」八)。私の生まれる前のことだ。また貞元二(977)年には、東宮の御読書始めの儀という華々しい場で「尚復(しょうふく:(「尚」はつかさどる意) 宮廷での講書の際に講師を補佐する)」なる役を与えられた(「日本記略」同年三月二十八日)。

  この儀式で東宮に講義を御授けする役は「学士」と呼ばれ、門閥の学者が務める。この時は菅原輔正様だった。父はその補佐の役を得たのだ。時に十歳だったこの東宮、師貞様が後の花山天皇だ。

  おそらく、この大役には理由があったのだろう。師貞様は冷泉天皇の第一王子で、母は藤原伊尹(これまさ)様の娘、懐子(かいし)様だ。だが既に伊尹様も懐子様もこの世に泣く、師貞様の味方といえば亡母懐子様の弟である義懐(よしちか)様お一人だった。ところがその義懐様の奥様が、亡くなった私の母と従姉妹同士なのだ(図の系図6)。

  東宮師貞親王の近習(きんじゅ)の中で、父は多くの人物の知遇を得た。例えば藤原惟成(これしげ)。永観二(984)年、親王が即位するや、彼は唯一の外戚である義懐様の片腕として、天皇の側近職、蔵人となった。やがてついたあだ名は「五位の摂政」。位は五位だが、天皇にすべてを任されているといってよいほど実務を取り仕切っているという意味だ。

  父も六位蔵人となり、式部省の三等官式部丞を兼ねた。天皇の側近という立場に加え漢学も活かせるという、願い続けた官職を得たのだ。

  ようやっと巡り来た春に、父はこう詠んだ。

   遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな

   [たとえ遅咲きでも、咲くべき花は咲くのだなあ。私は我が身をもうこれまでと見限っていたけれど、この私もついに花が咲いたよ。]
   (「後拾遺和歌集」春下147番)


  蔵人所の上司である藤原道兼様の邸で、名残の桜を惜しむ宴が催された時の歌だ。

つづく

12-後半.紫式部の育った環境 父の転進 (紫式部ひとり語り)

2024-05-04 10:22:43 | 紫式部ひとり語り
12-後半.紫式部の育った環境 父の転進 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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父の転進 つづき

  官人は、みな朝廷から位を授けられている。だがその中で貴族と呼ばれるのは、位が五位以上である者だけだ。貴族には多くの特権が与えられており、その最大のものに、親の位によって子の初任の位が決まる「蔭位(おんい:律令制体制のなかで、高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)」の制度がある。
  つまり、高い位の父の子は最初から高い位で勤め始めることができるのだ。役所で実際にあたる仕事はその位によって決められるから、高官の子は若くして労も無く、少将だとか侍従だとかいった華やかな官職を得る。そのようにできているのだ。

  まさに虎の威を借る狐だ。おかしいではないか。能力もない若者を、背後に権力者が付いているからといって世が偏重するするとは、またその若者とて、自己を磨く下積みという時間を奪われている点、実は不幸ではないか。私は、光源氏にその制度を批判させた。

   「高き家の子として、官爵(つかさかうぶり)心にかなひ、世の中盛りにおごり馴(な)らひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵(くわんさく)にのぼりぬれば、時に従う世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、気色取りつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえてやむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ち遅れて、世衰ふる末には、人に軽め侮らるるに、掛り所なきことになむはべる。」

   [「名門の子だからといって、位も役職も思いのまま、世の栄華にいい気になって慣れてしまうと、学問などで苦労することなど遠い世界のことと思うようになってしまうでしょう。遊んでばかりで意のままの出世を遂げてしまえばどうでしょう。時流におもねる世間は、内心は下を出しながら表ではおべっかを使い、顔色を窺いつつ接してくれます。そのあいだはなんとなく一人前とも思われてなかなかのものでしょうが、時が移り後ろ盾も死んで落ち目になると軽く見られて、もうどこもすがる所がないことになってしまいますよ。」]
   (「源氏物語」「少女」)

  こうして光源氏の皇子は、大学という修養の場に進む。きちんとした基礎学力あってこその実務なのだから、学問はもっと尊重されるべきだ。実際の世の中がそうでないというのが納得できない。私は、せめて私の「源氏の物語」では筋をとおしかったのだ。

  さて、起家の文人として登場するのは、その光源氏の息子の家庭教師だ。光源氏に見込まれて、大学入試に向けてつききりで息子を指導する。その成果あって、入試直前、光源氏らを前にした模擬試験で、息子は上々の出来を見せる。光源氏の感涙を見て、家庭教師は面目ありと胸を張り、褒美の酒を受ける。その様子はこうだ。

   いたう酔ひ痴れてをる顔つき、いと痩せ瘦せなり。世のひがものにて、才(ざえ)のほどよりは用ひられず、すげなくて身貧しくなむありけるを、御覧じ得るところありて、この君の御徳にたちまちに身を変へたると思へば、まして行く先は並ぶ人なきおぼえにぞあらむかし。

   [すっかり酔っぱらった顔つきは、痩せこけている。たいそうな偏屈者で、学才の割には仕事に恵まれず、ひがんで貧しい暮らしをしていたのだが、見所があると光源氏様が抜擢され、こうして特別に召しだされたのだ。身に余る待遇を頂戴し、この光源氏様のお子君のお蔭でたちまち変身したという訳だ。まして今後は、世から漢学の第一人者と仰がれてやってゆくにちがいない。]
   (「源氏物語」「少女」)

  「源氏の物語」では、起家の文人も能力が認められる。また、光源氏を皮切りにやがて大学再評価の動きが起こり、博士も起家も世に用いられて、人材登用・適材適所の良き時代が訪れる。
  だが、これは私の作り話だ。現実は夢物語のようにうまくいくはずがなくて、父の官途は茨の道だった。

つづく

11-前半.紫式部の育った環境 父の転進 (紫式部ひとり語り)

2024-05-02 11:35:17 | 紫式部ひとり語り
11-前半.紫式部の育った環境 父の転進 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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父の転進

  このように、我が家は和歌の家なのだ。父為時も、歌人ではある。だが父は、和歌を作りながらも別の道を模索した。それが漢学、文人の道だった。なぜか。正直に言って、出世のためだと思う。もちろん、漢学が好きで才もあったからではあろう。

  だがそれよりも、官途(かんと:官吏の職務、または地位。官職)に危機感を覚えたことが引き金となったに違いない。自らの父雅正(まさただ)のように没落の道に茫然と手をこまねくことも、兄為頼のように国司の官を得んとして権力者に近づくことも、父にはできなかったのだろう。

  朝廷の文書は、すべて漢文で記されている。またその言い回しには、中国の史実や故事が盛り込まれることがある。したがって、漢文と中国史とは実務官僚の基礎知識である。父はそれを修めるため、大学の「文章道」の学生となった。

  ここでの学業を終えれば、即戦力として諸国の掾(じょう)、つまり国府の三等官に推薦してもらえる。「文章生(もんじょうしょう)外国(げこく)」と呼ばれる制度だ。また「当識(とうじき)文章生」といって、中央の役所で判官(ほうがん)になれることもあった。

  判官とは、諸司のやはり三等官だ。そう高い官職でもないが、それが出発点なのだから構わない。なにより阿諛(あゆ:顔色を見て、相手の気に入るようにふるまうこと)追従ではなく実力で官界に入ることができる。人付き合いの下手な父は、これにかけたのではないか。

  だが、と私は思う。先に申した定子様の兄藤原伊周様も、漢文はお得意だ。しかし大学を出てはいない。それはなぜか。最初から将来が約束されているお家柄の方々には、学生の優遇制度など必要ないからだ。ならばそうした制度に父がすがったのは、それほどまでに兼輔の家柄がものを言わなくなったということなのだ。

  貴族社会には、学生を指して言う決まり文句がある。「せまりたる大学の衆」。「貧乏学生」という意味だ。縁故がものを言う今の世、大学に入って学問を修めようなどという人間は、要するに官界に縁故を持たない貧乏人ばかりだ。
  これを漢学では格好をつけて「寒家(かんか)」などというのだが。文章道を志した時点で、父は兼輔と定方の孫であることに見切りをつけた。自ら「寒家」自認組へと転進したのだ。

  だが実は、文人には二つの種類があった。一種類は菅原や大江といった一族、つまり代々文人の家系で、大学寮の頭や博士など学問関係の要職を独占している世襲学者たちだ。彼らのことを「門閥」と呼ぶ。そしてもう一種類は、父のように文人の家柄ではない者たち。この人々は「起家(きけ)」と呼ばれる。
  あの時代、起家の者が大学頭や文章博士になることは、余程のことでもなければ、まずないと言ってよかった。儒学の専門家になったからとて、起家の文人にはそこでの出世も限られているのだ。父にはそれが見えていたのだろうか。

  私は、貧家出身の起業の文人を、私の「源氏の物語」に登場させた。「少女」の巻でのことだ。光源氏は三十三歳、須磨・明石での蟄居から戻り、今や朝廷の重鎮とんっている。折しも息子が元服し、光源氏は父としてその教育に当たる。私は、光源氏が息子を大学に入学させるという筋書きにした。

つづく

10-後半.紫式部の育った環境 没落 (紫式部ひとり語り)

2024-05-01 14:40:58 | 紫式部ひとり語り
10-後半.紫式部の育った環境 没落 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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没落 つづき

  雅正(まさただ)には息子が三人いて、上から為頼、為長、そして私の父の為時だ。この三人にも、共に和歌の才能が引き継がれている。特に一番上の伯父為頼は、円融天皇の時代に関白だった藤原頼忠様にごく近く、宴や催しに出入りしては和歌を披露した歌人だ。

  おや、まるで曾祖父のもとに出入りした貫之たちのようではないか。そのうえ、口惜しいことだが名声は貫之の足下にも及ばない。だが官職は貫之よりずっとましだ。貫之は六十代の半ばを超えて遠国土佐守、だが為頼は、丹波や摂津など京の近国の守を歴任。最後は従四位下にまで至ったのだもの。私は為頼伯父の歌も再利用した。

   もちながら 千代をめぐらん さかづきの 清き光は さしもかけなん

   [望月のまま、千年もこの月は空をめぐり続けることでしょう。そしてその清らかな光を射しかけ続けることでしょう。さあ、盃を持ちながら、いつまでも酒を注ぎかけましょう。]
   (「後拾遺和歌集」雑五1153番)

  これは為頼が、醍醐天皇の孫の徽子(きし)女王様のお歌に対する返歌として作った歌だ。
  徽子様と言えば、伊勢斎宮を務めたのち村上天皇に入内し「斎宮の女御」と呼ばれた方だ。娘の規子内親王が後にやはり伊勢斎宮となられたのだが、その時、徽子女王は母としてともに下向された。そのあたりは、「源氏の物語」で六条御息所が娘と伊勢に下向する参考にさせてもらった。そんな華やかなお方の世界に歌で奉仕する場面が、伯父にもあったのだ。

  私はこの歌を、中宮彰子様に仕えていた時に、自分の歌に利用した。中宮様が最初の皇子をお産みになって、その誕生祝いの席でのことだ。あの会には藤原公任(きんとう)様がご列席だった。女房たちは、自分に盃が回ってきたら飲み干して和歌を詠まなくてはならない。「文化の世界の重鎮である公任様の前では、和歌の出来栄えはもちろん詠みあげ方にも要注意よ」などと皆で言い合って、めいめい和歌を考えた。それで私も緊張して、頭の中で懸命に歌をひねったのだ。

   めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ

   [中宮様という月の光に、皇子様という新しい光までが加わった盃です。今日の望月のすばらしさのまま、皆様がこの盃を持ち続け、千代もめぐり続けることでございましょう。]
 (「紫式部日記」寛弘五年九月十五日)

  しかし結局その夜、和歌を所望されることはなかった。せっかく作ったのに、残念ながらこの歌は披露されなかった。

  だからせめて「紫式部日記」の中には記しておいてやったのだ。できることならやはりあの宴で披露し、公任様のような権威の御耳に入れたかった。だって公任様は、為頼が昔御世話になった関白頼忠様のお子だもの。
  もしかしたら為頼の歌も御記憶にあるかもしれない。それで勘付いて下さったら、どんなによかっただろう。でももう、悔しがってもせんないことだ。

つづく