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B14 紫式部日記 中宮彰子が一条天皇に捧げる新作追加の『源氏の物語』豪華本を制作

2021-04-06 09:39:53 | 紫式部日記
  1008年は『源氏の物語』にとって特別な年でした。あの藤原公任(きんとう 小倉百人一首では大納言公任)から、読者であるということをほのめかされたのです。十一月一日、中宮彰子の生んだ皇子の誕生五十日(いか)の儀の宴でのことです。
  日没頃から始まった儀には、お産の時と同様に多くの公卿たちがつめかけました。それぞれ一条天皇に自分の娘を入内させています。右大臣と内大臣までが参上されたのですから、どちらも道長と中宮彰子の前に負けを認めたということでしょう。
  そんな時です。簀子敷から公任が廂の間を覗き込まれ、『源氏の物語』の女主人公の名前を口にされました。

― 左衛門の督(かみ)、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがい給ふ。源氏に似るべき人も見え給わぬに、かの上はまいていかでものし給はんと、聞き居たり。 ―
[現代語訳
 左衛門督藤原公任が「失礼。この辺りに若紫さんはお控えかな」と中を覗かれる。ここには光源氏に似ていそうな方もお見えでないのに、まして紫の上などいるはずもないではありませんか。私は存じませんことよ、と聞くだけは聞きましたが応えないでおきました。]

  公任は『源氏の物語』を読んでおられた。そのことを知らせるために、わざわざ「若紫」と、光源氏の妻の名前で呼ばれたのです。今や公任は道長の後塵を拝するしかなく、道長に従うしかない。漢詩・和歌・管弦のすべてに長け有職故実(ゆうそくこじつ 古来の先例に基づく、朝廷・公家・武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと)にも通じている公任が、中宮彰子の一女房にすぎない紫式部の、しかも和歌や日記よりずっと格式の劣る物語などというものの登場人物名を口にされたのは中宮彰子への点数稼ぎだったはずです。
  見え透いたおだてに乗るものですか。意地悪な心が起こって、紫式部は公任を黙殺しました。紫式部自身にとっても紫の上は、現実の誰にも代え難い大切な存在です。紫式部などと一緒にしてほしくありません。額に手をかざして紫式部を探す公任を横目に、紫式部は格下の文芸の作者が正道の文化の重鎮を袖にする小気味良さと、中宮女房ならではの、中宮様の権力を笠に着る快感とに、ほくそ笑みました。
  ですがいっぽうで、紫式部は深い喜びを禁じえませんでした。公任が言われた「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」という言葉は、中国唐代の伝記小説『遊仙窟』の一場面に倣ったものです。ですから『源氏の物語』での密かな引用にも気が付いて、そのことをほのめかして下さったのです。
  紫式部が知の限りを注ぎ込んで成したものが、しかるべき人にきちんと理解されている。それを知った喜びは、まさに物語作者としての手ごたえ以外の何物でもありませんでした。

  その年には、中宮彰子の発案で『源氏の物語』の豪華本が制作されるということもありました。中宮彰子は、長くそばを離れていた一条天皇のために、内裏還御土産物として『源氏の物語』新本を作ることを思い立たれたのです。一条天皇は以前に、この物語を読み、紫式部へのお褒めの言葉を口にされたことがありました。中宮彰子は、そのことを思い出して、続きをお見せすれば必ずや一条天皇を楽しませることができると、考えになったのでしょう。

  中宮彰子は出産からまだ二月の体で、しかも底冷えのする霜月に、新本制作作業を見守ります。道長も「冷たい時節に、子供を産んだばかりでこんなことをする母親がどこにいる」と叱りますが、中宮彰子は耳も傾けません。その熱意を紫式部は微笑ましく拝見していました。
  紫式部には分かっていました。この『源氏の物語』は、中宮彰子と一条天皇の間を取り持つ仲立ちになるのです。中宮彰子は冊子作りの作業の中で、もう物語を読んでいるので、余裕をもって一条天皇とともに楽しむことができます。読み終えた後には、二人で感想を述べ合うこともあるでしょう。一条天皇は中宮彰子の感想や意見の中に、一条天皇と初めて出会った時の、十二歳の少女とはもう違うことに、遅まきながら気づくことでしょう。長く中宮彰子に目を向けることのなかった一条天皇が、大人の女に成長した中宮彰子を知り、そのとき二人の関係は大きく深まる良い機会になるのではないでしょうか。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B13 紫式部日記 内裏の盗賊事件と変わってゆく紫式部

2021-04-05 12:15:52 | 紫式部日記
  実を言えば、中宮彰子のもとで能力を認められていると感じ、中宮彰子を支えたいという気持ちになってからも、紫式部は長くこの女房という仕事に違和感を抱いていました。理由は、一つにはその見かけの派手さ、また実に落ち着きがなく人目にも晒されている仕事であること、そして最後には、角を突き合わすこともある人間関係です。
  紫式部も女房になったからには、浮かれた生活を送っていると見られているに違いありません。美しい装束を纏い、華やかな儀式に彩を添える女房。主人と和歌を詠み恋の話をし、楽し気に暮らす女房。外からは、浮き浮きと弾む心しか推し量ることができないでしょう。しかしその現実は、今日は土御門殿、明日は内裏と、一箇所に所を定めずふらふらと彷徨う毎日。主家の浮沈と運命を同じうし、明日知れぬ政治の流れに身を任せながら生きる人生ではありませんか。それは幸福なのでしょうか。少なくとも紫式部には苦しいことでした。

  女房という仕事に対して、嫌悪感を抱き続けるのか、覚悟を決めるのか。紫式部は揺れていました。
  一条天皇が土御門殿に行幸された時には、豪華な輿から一条天皇がお出ましになる姿よりも、輿を肩に担いで苦しげに突っ伏す駕輿丁【がよちょう 人の担ぐ乗物を担ぐひと】の姿に目がひきつけられました。

― 何の異ごとなる、貴きまじらひも、身の程限りあるに、いと安げなしかし ―
[現代語訳
 『何が違おう。私もあの担ぎ手と同じだ。女房という高級な仕事でも、この身なりに従わなくてはならない決まりがあって、ちっとも安穏としていられないのだもの』]

  里の女時代に比べれば随分図太くなっています。このまま恥じらいを無くし、どんどん蓮っ葉になって、顔を丸出しにしても平気になってゆくのかもしれません。そんな下品なことが大嫌いな紫式部だったのに。これから、どんな嫌な人になってゆくのだろう。暗い底なしの淵を覗き込むような気がしているのです。
  そんな気持ちでいた1008年の大晦日のことでした。紫式部は内裏で思わぬ事件に遭遇しました。思えばそれが、紫式部が女房たる自分を自覚したきっかけだったかもしれません。

≪内裏の盗賊事件≫

  その夜、大晦日恒例の邪気払いの儀式「追儺(ついな)」が早めに終わり、紫式部は局に下がってお歯黒をつけるなど身づくろいをして、寛いでいました。内裏は一年のすべての行事を終えた静けさに包まれていました。
  その時、中宮彰子の部屋のほうからものすごい叫び声が聞こえました。紫式部は同じ局で寝ていた弁の内侍を起こそうとしましたが、なかなか起きてくれません。叫び声は人の泣きわめく声に変わりました。凶々しい気配ですが、ともかく行かなくては。同じく局にいて起きていた女蔵人の内匠と、弁の内侍もたたき起こして同行します。
 「内匠の君いざいざ」
 と先におしたてて、
 「ともかうも、宮、下におはします、先ず参りて見奉らむ」
 と、内侍を荒らかにつき驚かして、三人震ふ震ふ、足も空にて参りたれば、裸なる人ぞ二人ゐたる。靫負(ゆげい)・小兵部なりけり。かくなりけると見るに、いよいよむくつけし。
[現代語訳
 「内匠さん、さあさあ」
 紫式部はむりやり彼女を先に立てて、
 「何はともあれ、中宮様がお部屋にいらっしゃる。まず御前にあがってご様子を確認致しましょう」
 乱暴に弁の内侍をたたき起こすと、三人してぶるぶる震えつつ、宙を踏むような心地で声の方に行ってみました。と、裸の女性が二人、うずくまっています。中宮様付きの女蔵人、靫負と若い小兵部でした。こういうことだったのだ……盗賊。ますます背筋がぞっとします。]

  内裏に盗賊が押し入ることは、そう珍しくはありません。ですが実際に遭遇したことは初めてだったし、何よりも同僚女房の裸に身の毛がよだちます。装束を身ぐるみ剥がれたのです。いったい男たちは何をしているのでしょうか。鬼やらいが終わるや皆帰ってしまったようです。
  裸にされた二人には中宮彰子が納殿(おさめどの)の装束を下賜されて、とりあえずことは収まりました。その後数日、紫式部はこの夜の自分の行動について考えずにいられませんでした。もはや、いざとなれば自分をさておき、中宮彰子のことを考えます。紫式部の心の根元が女房になったということではありませんか。
  かつては紫式部も、人に頭を下げたり主にために走り回ったりすることを蔑んで、漢詩文や和歌といった自分の得意の埒内で遊ぶばかりの気位が高くて気まぐれの風流人のひとりでした。ですが紫式部は、今や働くことを知りかけています。そこで生きてゆこうとしています。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B12 紫式部日記 中宮彰子無事に皇子を出産

2021-04-04 08:01:02 | 紫式部日記
  道長は中宮彰子の頭頂部の髪を少しだけ削ぎ、形ばかりだが出家の儀式を施しました。万が一産褥死しても、極楽往生できるようにということです。中宮彰子は、定子と同じようにこのまま亡くなるのではないか。重苦しい空気が垂れ込める中、1008年九月十一日正午頃、中宮彰子はようやく御子を産み落とされました。ですがまだ油断はできません。胎衣≪たいい 胎児を包んでいた膜や胎盤≫が出るまでは。定子はこれで亡くなったのです。緊張が走り、土御門殿の広い寝殿の端から端までひしめいた僧も女房も官人も、もちろん道長一家も、いま一度どよめいて額を床にこすりつけます。
  人々の祈りはかないました。中宮彰子は無事に出産を終えました。しかも、生まれた御子は男子でした。

― 午(むま)の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。平らかにおはします嬉しさの類ひも無きに、男にさへおはしましける喜び、いかがはなのめならむ。 ―
[現代語訳
 正午に、空晴れて朝日がぱっと差したような気がした。安産でいらっしゃった嬉しさは何物にも比べ難いが、その上生まれたのが男子とは、いやもうどうして普通の喜びようでいられようか。]

  道長と倫子の、ほっとした様子、二人は早速別室に赴き、大役を果たした僧・医師・陰陽師どもに褒美を渡される。

  それにしても何と強運の道長でしょうか。今や道長を外戚とする、血のつながった皇子が誕生したのです。これでようやく摂政(天皇のできることを全て代役できる地位)という天に続く梯子が見え始めたのです。上りつめるまでに必要なことは、一つだけです。この御子を、元服前、つまり自ら政治を執れるようになる前に、幼帝として即位させることです。

  中宮彰子は、十三歳の年には歴史上最も若くして中宮の位に就き、今は皇子の将来が囁かれてすっかり「国の母」、帝の母扱いです。ですが、この人はただの産婦でもあります。紫式部は畏れ多くもその寝顔に見入りました。

―  御帳のうちを覗きまゐりたれば、かく国の親ともて騒がれ給ひ、うるわしき御けしきにも見えさせ給はず、すこしうち悩み、面やせて、おほとのごもれる御有様、雲よりもあえかに、若くうつくしげなり。小さき灯炉を、御帳のうちにかけたれば、くまもなきに、いとどしき御色あひの、そこひもしらずきよらなるに、こちたき御ぐしは、結ひてまさらせ給ふわざなりけりと思ふ。かけまくもいとさらなれば、えぞかきつづけ侍らぬ。 ―

[現代語訳
 紫式部が御帳台のなかを覗き込むと、中宮様はこのように「国の母」と騒がれるような押しも押されもしないご様子とは全然見受けられません。少しご機嫌が悪そうで、面やつれしてお休みです。その姿はいつもより弱々しく、若く、愛らしげです。小さな灯りを帳台の中に掛けてありますので、それに照らされた肌色は美しく、底知れぬ透明感を漂わさています。また髪の豊かさが、床姿の結髪ではいっそう目立つものだと感じられます。あらためて口にするのも今さらのことですし、もう書き続けられませんわ。]

  いたいけな、そしてことのほか健気な産婦の、中宮彰子。作らぬ寝姿のあどけなさは、だからこそ紫式部には、ひときわの輝きを帯びて感じられました。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B11 紫式部日記 中宮彰子お産始まる 大騒ぎの物の怪調伏(ちょうぶく)

2021-04-03 12:30:59 | 紫式部日記
  九月九日は重陽の節句です。前夜から菊の花の上に綿を置いて香と露を含ませ、朝方それで顔を拭いて、老いを拭い捨てます。この年、倫子は、自分のための菊の綿を紫式部にも分けてくれました。
  倫子と紫式部はまたいとこにあたりますが、倫子には品格と威厳が備わっています。道長の二つ年上で、道長を婿取りしてからは人脈の面でも経済的な面でも支え、次々と御子を産んで、この家の基礎を作ってきました。すでに四十代半ばですが、この前年の1007年正月には何と四十四歳で末娘を出産し、女としても道長の妻としても大きな存在感を示しています。かつてこの倫子は円融天皇か花山天皇のきさき候補として育てられましたが、時機を逸して成りませんでした。
  晩方、中宮彰子の前に参ると、女房たちと新調の香を薫きながら月を愛でているところでした。その時、中宮彰子は、例になく苦し気な様子を見せました。出産の兆しです。
  とうとうお産が始まりました。子の刻(午前零時前後)、倫子が道長にことを知らせ、道長は事務方長官や、権大夫に召集をかけました。公卿や殿上人も次々とやって来ます。邸内はにわかに喧騒に満ちてきました。
  夜明け前、寝殿内をお産用の白木や白布のものに取り替えます。中宮彰子は白一色の御帳台(みちょうだい)に入り、一日中不安げに過ごされました。

≪物の怪たちと物の怪調伏≫
  お産が始まると、寝殿の母屋には僧や陰陽師(おんみょうじ)が呼び込まれ、それぞれが大騒ぎで物の怪調伏に取りかかりました。

― 御物怪どもかりうつし、限りなく騒ぎののしる。月ごろ、そこら候いつる殿のうちの僧をばさらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者(げんざ)という限りは残るなく参り集い、三世(みよ)の仏も、いかに翔(かけ)り給ふらむと思ひやらる。陰陽師とて、世にある限り召し集めて、八百万の神も耳ふり立てぬはあらじと見えきこゆ。 ―
 [現代語訳
  中宮様に憑いた物の怪どもをかり出して、囮の霊媒(よりまし)に移す。この作業で、辺りは大変な騒がしさだ。ここ数カ月間邸内に控えていた大勢の僧たちはもちろんのこと、お産にあたって山々寺々から修験者という修験者が駆り集められ、その皆が力を合わせて加持するのだから、前世・現世・来世の仏もいかに飛び回って邪霊退治をしてくださっていることか。また陰陽師も、世にある限りを召し集めたのだもの、祓いに耳を傾けぬ神など、八百万の神の神にひと柱としてあるまい。]

  調伏の場では、験者たち一人につき一人「よりまし」なる霊媒があてがわれます。これは大方少女たちで、中宮彰子に取り憑いた物の怪どもを引き離し自分の身に憑かせるのが役目です。験者たちの術が進むにつれて、少女たちにはそれぞれ、狗(いぬ)や狐や死霊など怪しい何かが乗り移る。すると彼女たちはその様子をなして、体を揺らして泣きわめいたり、四つん這いで走り回ったり、また人の名を名乗ったりする。それらはみな、出産をねたんで中宮彰子に憑いていた物どもなのです。

  紫式部は、物の怪などという実態が本当にいるのかどうか疑わしいと思っています。それよりも、自分の幸福の踏み台になった相手や自分に恨みを抱いていると思しい相手などに対する、引け目や罪悪感が人の心に潜んでいて、物の怪めいた何かがあれば、その人のせいと考えてしまうのではないだろうか。後ろめたい心が見せる幻、それが物の怪だと紫式部は考えています。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B10 紫式部日記 中宮彰子お産近づく ― 秋のけはひ入り立つままに

2021-04-02 11:46:47 | 紫式部日記
  紫式部は、中宮彰子のお産につき諸事を書き留めておくように命ぜられました。もしも皇子が生まれれば、必ずやいつかは即位し、道長家に揺るぎなき栄華をもたらしてくれる存在になるでしょう。その誕生は家にとって二つとない晴事となります。記録として残し伝えよとの命令です。他の仕事を免除されて、紫式部は取材と記録に集中しました。
  1008年七月十六日、中宮彰子はお産に向けて道長の邸宅土御門殿に入られました。時に懐妊八か月。出産予定はは秋の終わり月、九月です。中宮彰子を待ち迎えた土御門殿は、草木も季節の色に染まり、お産への臨戦態勢に入っていました。

― 秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくおかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。 ―
[現代語訳
  いつの間にか忍び込んだ秋の気配が次第に色濃くなるにつれ、ここ土御門殿のたたずまいは、何とも言えず趣を深めている。池の畔の樹々の梢や流れの岸辺の草むらは、それぞれに見渡す限り色づいて、この季節は空も鮮やかだ。そんな自然に引きたてられて、安産祈祷の読経の声々がいっそう胸にしみいる。日が落ちれば涼しい夜風がそよぎだし、風音は絶えることのない庭のせせらぎの音と響きあって、夜通し和音を奏でる。]

  土御門殿は、東西一町(約100m)南北二町の広大な敷地に寝殿や東・西・北の対、廊が整然と並ぶ大邸宅です。庭には池が作られ、その畔には御堂もあります。かつてこの邸宅の敷地は北半分だけでしたが、源倫子が一族から相続し、倫子の夫である道長の邸宅になってから、二倍の面積に広げられて、ますます綺羅を増しています。
  中宮彰子のお産所、この邸宅の寝殿を取り囲む自然のすべてが、お産の時期がもうすぐだと言っています。
  それに応援されて、道長が招集した高僧たちの読経の声が、頼もしく響きます。一人一時(いっとき 二時間)ずつ読んでは交代し、一日中絶えることのない安産祈願の読経の声です。この者たちは、これから晩秋の出産本番まで、こうして絶やさず経を読み続けます。

  緊張した空気がみなぎる中、最も張りつめた気持ちでいるのがお産をする当人の中宮彰子です。しかし中宮彰子は、心の乱れなどおくびにも出されません。
  中宮彰子はなんと強いのでしょうか。誰もが知っています。この方の過酷な人生を。中宮彰子は、一条天皇の子供を産んで道長を次代の天皇の外戚とするべくこの世に生を受け、わずか十二歳で入内しました。
  彰子は中宮の称号を授けられ、また定子が崩御され名実ともに後宮随一の后となってからも、懐妊されませんでした。また今ようやく懐妊なってからは、初産の怖さに加え、どうしても男子を産まねばならない重圧が」のしかかってきたことでしょう。こんな中で、一条天皇の支えもあるとは言えません。
  紫式部は、ここにもまた「世」があり「身」があると思いました。中宮彰子は、最高権力者の娘にして今上天皇の妻という至高の地位にあり、今や懐妊中です。外から見ればこれほど華やかで幸せに満ちた人はいないでしょう。ですがその内側は、むしろ道長の娘、帝の中宮であるからこその苦を負うことになったのです。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り