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簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第五回

2022-02-27 08:55:25 | 簡略版「今ひとたびの」
簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第五回

  京の町は、碁盤の目のように大路小路が走っている。大内裏の朱雀門(すざくもん)から南へ下って羅城門(らじょうもん)にいたる朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京。右京は湿地が多いので寂れてしまい、主だった邸宅は左京に立ちならんでいた。東西に走る大路は大内裏のある北端から一条、二条と下って羅城門のある九条まで、三条は大内裏に近いので豪壮な邸宅が目につく。

  道貞邸の近くまでくると読経の声が聞こえてきた。太后は早くも宮中を出て道貞邸へ入ったようである。夫の承諾などかたちだけ、和泉国へ知らせがとどいたころにはもう移御(いぎょ)していたのかもしれない。
  読経の声はおもいのほか小さかった。悪霊を追い払うほどのいきおいはなさそうだ。僧の数がそろわないのだろう。

  式部の一行は東の総門をくぐった。
  総門には門番がいる。太后に従ってきた者たちか、驚きあわてるばかりで要領を得ない。随身が門番に事情を説明しているあいだに、式部は牛飼童(うしかいわらわ)に声をかけ、牛車を車舎(くるまやどり)にはこぶよう命じた。一刻も早く太后を見舞いたい。

  いつもなら、よくよくあたりをしらべさせて人目がないことを確認した上で、扇で顔を隠しながら牛車を降りる。
  気が急いていたので、式部は用心を怠った。牛飼童が牛を引いて出ていったあとは侍女が二人だけ、他に人はいない。いないとおもいこんでいた。

  車舎の片隅にもう一台、牛車の屋形がおかれていることに気づいたのは、侍女の手にすがり、もう一方の手で袿の裾をたくしあげて屋形から細殿へ降りたったときだった。

  おや、と目をしばたたいた。屋形の物見窓が細くあいている。しかし、よもやその中に人が・・それも男が・・乗っているとはおもいもしなかった。
  足をふみだそうとしたときである。
  男の声がした。
「こととはばありのまにまにみやこ鳥・・・」

  天が降ってきても、これほどは驚かなかっただろう。式部は棒立ちになった。

・・・都のことをわれにきかせよ、とつづくこの歌は。式部自身が和泉国で詠んだものだ。太后へ宛てた文に認めた歌の中の一首である。
  なぜ、ここで、自分の歌を耳にするのか。どこのだれとも知れない男が、なぜ、自分の歌を知っているのだろう。

参考 諸田玲子氏著作「今ひとたびの、和泉式部」

簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第四回

2022-02-26 08:25:08 | 簡略版「今ひとたびの」
簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第四回

  式部にとって京の都は母の胎のようなものだ。夫とのつかのまの別れに理由のない不安をおぼえつつも、いったん足をふみいれてしまえば、水を得た魚のように体の隅々まで生気がよみがえってくる。

「三条へおこしになられますか。それとも宮中へ?」
随身がたずねた。
「三条へ」
  三条の邸宅は夫の所有する家の中でいちばん大きく、四分の一町を占めている。

  式部に求婚していたころ、夫は太皇太后少進だった。しかし、式部と結ばれたのちは権大進に昇進、昨年の除目(任官の人名を記した目録)では競争相手を押しのけて和泉守にも抜擢されている。
「ほれみろ、いったとおりだろうが」
「婿殿の口利きで、お父さまも左大臣のお目にとまりました。いずれはお父さまにも国司の道がひらけるかもしれません」
  両親は小躍りした。

  夫が和泉国へ赴任したあと、式部の家族は三条の夫の留守宅を借りて引っ越した。当時、一家が住んでいたのは大内裏にほど近い修理職(しゅりしき)町と左兵衛(さひょうえ)町にはさまれた勘解由(かげゆ)小路にある小屋敷で、式部母子を迎えて後見するには手狭だったためである。

  そんなわけで、式部が夫の任地へ下向しても、式部の父や姉たちは三条の道貞邸に住んでいた。
  そこへ、重篤の太皇太后昌子内親王が養生するための仮御所として三条の道貞邸を明け渡すよう下命があった。占いで吉方と宣託があったとか。今ごろは太后を迎える準備で大わらわにちがいない。

参考 諸田玲子氏著作「今ひとたびの、和泉式部」

簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第三回

2022-02-25 11:34:04 | 簡略版「今ひとたびの」
簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第三回

  道貞は結婚後、和泉国の国司(受領)となった。

  その後、太后が重篤になっていることを知った今、式部はじっとしていられなくなった。

  和泉国から京の都までは一泊二日の旅である。舟で淀川を遡り、山崎で一泊して牛車に乗り換える。洛中へ入ったときは黄昏時になっていた。
  往来が一気ににぎやかになる。
  昨夏は流行病で死人が山をなした。大路でさえ目をあけてとおれたものではなかった。今はもう打ち捨てられた骸(むくろ)は見かけない。
  式部は物見窓をとざした。穢れや魑魅魍魎(ちみもうりょう)が入り込まないように。
  
  結婚当初は、世の常にならって、夫が夜な夜な妻の里邸へかよっていた。しかしそれではいちいち面倒だし、風雨にじゃまされたり、方違えの必要が生じたり、後朝(きぬぎぬ)の別れもつらい。式部は夫の邸宅のひとつに迎えられ、一緒に暮らすようになった。そのときはすでに懐妊していてほどなく子が生まれた。しかも和泉国の国司となった夫が単身で赴任したこともあって、二人きりで過ごした時間は短かった。
  道貞は式部が熱いのに冷たく、流氷のごとくつかみどころがない。蜻蛉のように儚げなのが気がかりなのか、任地の夫からは矢の催促。稚児が三歳になったのをしおに、初夏の候、式部は夫の任地へおもむいたのだった。
  「わたくしも独り寝は寂しゅうございます」

  太后を見舞いたいと道貞に懇願したのは自分だ。それなのにようやく太后に会えるという今になって、夫の目の色ばかりおもいだすのはなぜだろう。独りで都へもどったのはまちがいだったのではないかと、式部はおもいはじめていた。

参考 諸田玲子氏著作「今ひとたびの、和泉式部」

簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第一回

2022-02-23 14:05:23 | 簡略版「今ひとたびの」
  諸田玲子氏著作の「今ひとたびの、和泉式部」を参考にして投稿記事を考えています。「和泉式部日記」を含め生涯の史実をもとに、ミステリー仕立てにした物語なので、どこまで簡略化できるか自信はないです。

  今回からしばらくは、「和泉式部関係系図」や成長の簡単な解説、その後には紫式部の娘のことも少し書いてみたいと思います。


簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第一回

  和泉式部は、父は越前の守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(やすひら)の娘で。皇后昌子(後の太皇太后昌子内親王)に仕え、介内侍と呼ばれた女房であった。
  式部は父の実家の大江邸で生まれ育った。両親のつてで宮中にあがってからは、太皇に実の妹のごとく愛しまれた。御許丸(おもとまる)と呼ばれたのも、太皇がいつもそばからはなさなかったからだ。

  代々、式部大輔をつとめる大江家の娘ということで「江式部」と呼ばれるようになってからも、太皇の話し相手をつとめ。共に書を学び歌を詠み、仏事に没頭する日々だった。

  宮中は恋の無法地帯だ。相聞歌のやりとりは日常茶飯事、暗がりで袖を引かれることもしょっちゅうだし、男女が枕をかわすのはあたりまえ、そんなことぐらいではだれもいちいち騒がない。ただし、結婚となると・・・・・。
  結婚は許可がいらない。証文もなかった。が、女の、もとへ三日かよって「三日夜の餅(みかよのもちい)」を食べればそれが夫婦の証だ。知人縁者を招いて「所顕(ところあらわし)」ー-つまり披露宴をおこなえば、世間からも結婚したとみなされる。

  式部は両親からいいふくめられていた。
  「おなじ男を、三晩通わせてはならぬぞ。おまえの姉たちは皆、つまらぬ男の妻になってしまった。おまえにはの、父がとびきりの夫を選んでやる」