簡略版「今ひとたびの、和泉式部」第五回
京の町は、碁盤の目のように大路小路が走っている。大内裏の朱雀門(すざくもん)から南へ下って羅城門(らじょうもん)にいたる朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京。右京は湿地が多いので寂れてしまい、主だった邸宅は左京に立ちならんでいた。東西に走る大路は大内裏のある北端から一条、二条と下って羅城門のある九条まで、三条は大内裏に近いので豪壮な邸宅が目につく。
道貞邸の近くまでくると読経の声が聞こえてきた。太后は早くも宮中を出て道貞邸へ入ったようである。夫の承諾などかたちだけ、和泉国へ知らせがとどいたころにはもう移御(いぎょ)していたのかもしれない。
読経の声はおもいのほか小さかった。悪霊を追い払うほどのいきおいはなさそうだ。僧の数がそろわないのだろう。
式部の一行は東の総門をくぐった。
総門には門番がいる。太后に従ってきた者たちか、驚きあわてるばかりで要領を得ない。随身が門番に事情を説明しているあいだに、式部は牛飼童(うしかいわらわ)に声をかけ、牛車を車舎(くるまやどり)にはこぶよう命じた。一刻も早く太后を見舞いたい。
いつもなら、よくよくあたりをしらべさせて人目がないことを確認した上で、扇で顔を隠しながら牛車を降りる。
気が急いていたので、式部は用心を怠った。牛飼童が牛を引いて出ていったあとは侍女が二人だけ、他に人はいない。いないとおもいこんでいた。
車舎の片隅にもう一台、牛車の屋形がおかれていることに気づいたのは、侍女の手にすがり、もう一方の手で袿の裾をたくしあげて屋形から細殿へ降りたったときだった。
おや、と目をしばたたいた。屋形の物見窓が細くあいている。しかし、よもやその中に人が・・それも男が・・乗っているとはおもいもしなかった。
足をふみだそうとしたときである。
男の声がした。
「こととはばありのまにまにみやこ鳥・・・」
天が降ってきても、これほどは驚かなかっただろう。式部は棒立ちになった。
・・・都のことをわれにきかせよ、とつづくこの歌は。式部自身が和泉国で詠んだものだ。太后へ宛てた文に認めた歌の中の一首である。
なぜ、ここで、自分の歌を耳にするのか。どこのだれとも知れない男が、なぜ、自分の歌を知っているのだろう。
参考 諸田玲子氏著作「今ひとたびの、和泉式部」