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46- 平安人の心 「紅梅:匂宮と真木柱の姫君たち」

2021-08-06 10:02:11 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  時は飛び、匂宮二十五歳の春である。
  その頃按察使(あぜち)大納言(幼名・紅梅、のちに弁少将)と呼ばれていたのは、光源氏の悪友にして好敵手であった故致仕大臣(かつての頭中将)の次男だった。兄の柏木亡き後、一族の柱として帝の覚えめでたく出世した彼もすでに五十四、五歳で、最初の北の方を亡くし、同じく夫の蛍兵部卿宮に死なれた真木柱(故髭黒の娘)と再婚していた。
  亡き北の方との間の大君(おおいぎみ)と中の君、真木柱の連れ子の宮の御方と、三人の娘の行く末を大納言は思案し、先ず大君を東宮妃とした。東宮には右大臣・夕霧の長女が嫁いで寵愛を 受けていたが、藤原一族の本懐を遂げたいと負けん気を奮ったのである。

  続いて大納言は、中の君は匂宮へと望む。一方、宮の御方は実母の真木柱にも顔を見せぬほど内気で、大納言が訪ねても打ち解けない。その庭先の紅梅の枝を匂宮のために折り取ろうとして、大納言はふと往年の光源氏を思い出す。匂宮や薫が今どんなによい世評を受けていようが、あの光源氏には比べものにもならない。だが大納言は、匂宮を光源氏の形見と拝しようと思い直す。

  匂宮はどうも中の君より宮の御方がお目当てのようで、母の真木柱は対応に惑う。匂宮が女好きでお忍びの恋人も多く、宇治の八の宮(故桐壺帝の息子)の姫君のところへもしげしげと通っているからだ。信頼できないが高貴な匂宮を無下に拒むこともできず、真木柱は優柔不断な態度をとり続けざるを得ないのだった。
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左近の”梅”と右近の”橘”

  内裏紫宸殿の前庭にあるのは、左近の桜と右近の橘。ひな祭りの飾りとしてもお馴染みの二つだが、実はこの左近の桜、もとは「左近の梅」だった。「続日本後記」には、仁明(にんみょう)天皇(810~850)の承和(じょうわ)十二(845)年、皇太子や臣下たちがこの梅の枝を髪に飾り、楽に興じたとある。
  当時といえば、例えば在原業平が二十一歳の頃である。彼が殿上人となるのはもう少し先のことだが、あるいは地下(じげ)の官人として庭に立ち、左近の梅を見ていたかもしれない。梅が桜に植え替えられたのも同じ仁明天皇の世のことという(「古事談」巻六)から、業平は植え替えの様子をみていたかもしれない。

  梅は中国が原産で、奈良時代に入って日本に渡った。なるほど日本神話に登場しないわけである。「万葉集」には梅を詠んだ歌が百二十首近くもあり、桜の四十首余りを大きく引き離す。
  縄文時代から日本にあった桜に対し、先進国中国の香りを文字通り馥郁と伝える梅は、奈良朝の知識人たちの異国趣味をかき立てたのだ。

  紅梅は平安時代になってから渡来したらしい。

45- 平安人の心 「匂兵部卿(匂宮):並び立つ匂宮と薫」

2021-08-05 09:10:49 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏が世を去って以来、光源氏を継ぐ人物は世に現れなかった。明石中宮と今上帝(きんじょうのみかど)の間の三の皇子・匂宮(におうのみや)と、光源氏の次男で妻・女三の宮が生んだ息子・薫とが際立っているが、光源氏ほど輝かしい訳ではない。だが光源氏が母の身分に左右されたのに比べ、彼らは血筋の威光に助けられて世評が高いのだ。

  かつて光源氏と紫の上が住んだ二条院には、紫の上からこの御殿を相続した匂宮が住んでいる。また光源氏が建設した豪邸・六条院で紫の上が住んだ春の町には、匂宮と同じく明石中宮が産んだ女一の宮が紫の上を偲んで住んでいる。
  どちらの御殿も結局は明石の君一人の末裔が住むことになり、当の明石の君はたくさんの孫の世話をしつつ老後を送っている。また光源氏のその他の妻たちも、今は右大臣となった夕霧の庇護を受けつつ、それぞれに日々を過ごしていた。

  そんななか女三の宮の息子・薫は、物心ついて以来、自分の出生に秘密のあることに感づいていた。十九歳で宰相中将に昇進という出世をよそに、憂い多き薫の心は出家に向かっていた。不思議にも彼は身体から芳香を発し、対抗して匂宮も香りに執着したので、彼らは世から「薫る中将」「匂ふ兵部卿」と呼ばれる。
  夕霧は妻・藤典侍(とうのないしのすけ:実は光源氏の乳母兄弟惟光の娘)の産んだ姫・六の君を薫か匂宮に嫁がせたいと望み、落葉の宮の養女として磨きをかけた。やがて薫は二十歳となり、その美と香りは女たちをときめかせる。
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血と汗と涙の「源氏物語」

  「源氏物語」の本文が、平安時代の末にはもう相当乱れてしまっていたことは、前に記した。そうしたなかで、もう一度「源氏物語」の本文を見直そうとしたのが、池田亀鑑である。彼が追い求めたのは、「源氏物語」のできるだけ確実な本文だった。紫式部が書いた原点に辿り着けないなら、せめて純粋な「青表紙本」、または「河内本」がないか。きっかけは三十歳の時、東京帝国大文学部に就職して「源氏物語」関連プロジェクトを任されたことである。彼は日本全国の旧家や寺などを訪ね回った。
  ところがプロジェクトがようやく成果をまとめようとする段階で、佐渡の旧家から突如として「お宝」が現れた。「源氏物語」の、「浮舟」を除く五十三帖揃いだ。売り手の希望価格は一万円という当時にしては一軒家が買える巨額とされ、買い手がつかない中、亀鑑はその情報を得た。とりあえず蔵書家で知られた大島雅太郎に購入してもらい、それを借り受ける形で亀鑑は解読し始める。

  そしてやがて、その本が現存する四帖分の定家自筆本と九帖分のその模写本に次いで古い「青表皮本」の写本であることに気づくのである。奥書には文明十三(1481)年の書写とある。しかも書道の名家・飛鳥井雅康の自筆だ。「その数量において、またその形態・内容において稀有」(「源氏物語大成」)。
  亀鑑はプロジェクトで書いた「校本」を書き換えると決めた。基準となる本はこの「大島本」でいく。七年の血と汗と涙の成果である原稿をなげうち、書き換えに要した月日はさらに十年。亀鑑がようやく「校本」の刊行にこぎ着けたのは、第二次大戦下の昭和十七年であった。

44- 平安人の心 「幻:紫の上の幻を追う光源氏」

2021-08-04 09:33:50 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  紫の上の死は光源氏五十一歳の秋だった。その翌年、光源氏五十二歳の一年が、ただしめやかに過ぎてゆく。春には陽光を見るにつけても心が暗(く)れ惑う。思い出せば生前の紫の上は、時に恨めしげな表情を見せたことがあった。光源氏が他の女への想いをちらつかせた折である。取り返しのつかなくなった今、愛妻の心を乱した自分が、光源氏は口惜しくてならない。

  思いは我が人生にも及ぶ。高い身分には生まれたが、運命は決して幸福ではなかった。やはり仏が厭離穢土(えんりえど:この世をけがれた世界として厭(いと)い離れる)、欣求浄土(ごんぐじょうど:)を悟らせようと宿命づけた身なのだ。まだ踏み出せはしないが、光源氏の心は確実に出家へと向かう。
  そんななか、幼い三の宮(のちの匂宮)が紫の上の言葉を守って紫の上の遺した紅梅や桜を慈しんでいるのを見ると、時には笑みが浮かぶ。自然は営みを変えないのだ。

  夏の更衣(ころもがえ)、賀茂祭、五月雨の頃、七夕、菊の節句、十一月の五節の節句と、光源氏は紫の上哀悼の日々を送る。年の暮れ、紫の上の形見の手紙を涙ながらに焼いたのは、出家の準備のためだった。
  師走半ばの仏名の日、光源氏は人々の前に久しぶりに姿を見せた。だがその姿はやつれもせず、むしろ昔の威光にもまして稀有に輝いて見えたという。そして大晦日、追儺で張り切る三の宮を見守りつつ、光源氏は詠んだ。
ー「嘆きのなか、知らぬ間に時は過ぎた。一年も、そして私の俗世も今日終わるのだ」と。―
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「源氏物語」を書き継いだ人たち

  「源氏物語」の作者は紫式部である。しかし紫式部が書いた「源氏物語」が、いま私たちが目にしているものと同じかと言えば、それはわからない。紫式部自身が書いた本が伝わっていないので、確認のしようがないのだ。
  とはいえこの大長編「源氏物語」が一気に発表されたものではないことは、容易に想像がつく。つまり、最初はばらばらに世に出たのだ。そうした「源氏物語」が、現在のようにある程度整った形で伝えられるようになるには、幾人もの中興の祖がいた。そしてその筆頭は、やはり藤原定家をおいていないだろう。

  実は、紫式部の時代から二百年を経ずして、「源氏物語」は注釈書が必要なほど読みにくくなっていた。大体、本ごとに文章が違うのである。そうなった理由はいくつもある。
  まず、草稿の流出だ。「紫式部日記」には、藤原道長が紫式部の局から物語の草稿を盗み出し、次女の姸子(けんし)に与えたと記されている。好評ゆえの被害だが、要するに作者がこの世にいる間から下書きと完成原稿の両方が出回っていて、作者自身もそれを止められなかったのだ。
  第二に、誤写だ。江戸時代以前、本は書き写して伝えられた。印刷技術はあったが、美術品と同じで本も一点物であることにこそ価値があり、手で写されたのだ。誤写に気づけばよいが気づかない場合もあって、それがまた次の人に写されれば、もとの本とは違う一派が生まれてしまう。
  そして第三は、書写の際の勝手な書き換えや、創作である。和歌と違って作者が尊重されない物語は、書き換え御免と考えられていた節さえある。「源氏物語」に創作意欲をかき立てられた読者が、巻ごと新作してしまうこともある。こうして平安末期頃、「源氏物語」には現在の五十四帖のほか、今は伝わらない巻もあった。

  そんな時に現れ、「源氏物語」に深く関わって活躍したのが定家である。歌道の大家・藤原俊成(しゅんぜい)を父に持つ次男。生まれたのは応保二(1162)年と平治の乱の直後で、平安末期から鎌倉初頭にかけての揺れ動く時代を生きることになる。
  「源氏物語」が歌人必携の書だというのは、父の俊成の説である。「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり(歌読みが源氏物語を参考にしないとは、残念なことよ)」。「六百番歌合」での言葉だ。和歌は第一の文芸、物語はサブカルチャーとされていた格付けは、こと「源氏物語」に関しては、これで帳消しとなった。

  定家は歌道に精進するとともに、平安時代の歌集や物語を集め、自ら写した。「源氏物語」を写したのは定家六十四歳のときだった。定家の「源氏物語」は表紙の色から「青表紙本」と呼ばれ、「源氏物語」本文の決定版とされた。同じ頃、「源氏物語」のわかりにくさを解消したいと考えて、俊成の弟子の河内の守父子が作った「河内本」もある。

  二つの本は二つながら尊重され、さらに写し継がれて時代を超えた。その作業に携わった人々の数は計り知れない。定家を中興の祖とは言ったが、彼だけではない。河内の守親子も、いや「源氏物語」を書き継いだ人たち皆が、この物語の命をつないできた。「源氏物語」は多くのサポーターたちの情熱によって支えられ、今に伝えられているのである。

43- 平安人の心 「御法(みのり): 紫の上の死 」

2021-08-03 09:43:58 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  女楽の後に発病して四年、紫の上は一時の危篤こそ凌いだものの、衰弱が進んでいた。紫の上にはすでに人生に未練もなく、最後の願いは出家だったが、光源氏はそれを頑として許さなかった。

  三月の花盛り、紫の上は二条院で法華経千部供養を執り行った。死を覚悟した紫の上の目には、誰も彼もが今生の見納めのようで慕わしく、明石の君や花散里とは歌を贈答した。同じ光源氏の妻として関わり合い、いま自分一人が先立つことに万感の思いがあったのだ。夏には意識も失いがちになり、見舞いのため明石中宮が二条院にやって来た。言葉少なに思いを語って、紫の上は最後の時を過ごす。
  なかでも、中宮の皇子・三の宮(のちの匂宮(におうのみや))には、自分の死後は二条院を相続して前栽の紅梅と桜をいとおしんでほしいと頼む。三の宮は幼心にも深く受け止め、目に涙を浮かべてうなずいた。

  そしてついに秋の夕暮れ、紫の上は光源氏と明石中宮に見守られながら最期を迎える。その死は明け方、露の消えるがごとくであった。光源氏は動揺し、今さら紫の上の落飾言い出すが、夕霧がそれを止めた。夕霧は光源氏と二人で紫の上の死に顔に見入り、年来抱いていた密かな想いに別れを告げた。

  即日行われた葬儀では、光源氏は一人で歩くことすらできなかった。幼少から幾度も愛別離苦に見まわれながら気丈に生きてきた光源氏だが、今や生涯の伴侶すら奪われ、世の無常に倦(う:つかれるの意味)み果てたのだった。
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死者の魂を呼び戻す呪術~平安の葬儀

  人は死ねば遺体となる。その亡骸は衛生上、いつまでも平安京の中に置いておけない。そこで遺体は河原や郊外の野辺に運ばれ、葬られた。そして一般市民の場合、その代表的な葬送法は、亡骸を「捨て置く」ことだった。

  後白川法皇(1127~1192年)の時代に作られたとされる、「餓鬼草紙」なる絵巻がある。餓鬼とは生前の罪のために餓鬼道に堕ちた亡者で、常に飢えに苦しみ、時々人間界に現れては食べ物を貪る。おぞましいことに、この絵巻で餓鬼が好んで食べているのは生者の食べ残しや排泄物などで、死体も大好物の様子である。そんな訳でこの絵巻の一場面には、墓地らしき場所を舞台に、いくつもの死体が描かれている。棺桶に入れて放置された死体。敷物の上に寝かされた死体。土の上に直に転がされた死体。それぞれが死後の経過時間に応じてあるいは黒ずみ、あるいは白骨化している。これらの死体は、火葬にされず、埋められもしていないのだ。絵師の作り事ではない。

  とはいえ貴族階級では、やはり火葬が一般的だった。だが、例外も少なくない。「栄華物語」(巻七)によれば、一条天皇(980~1011年)の皇后定子の葬儀は土葬だった。

―「煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれとながめよ (煙となって空に上ることも、雲となって漂うこともない私の体。どうぞ草の葉に降りた露を、私と思って偲んでください)」。

本人がこのように、辞世の歌で願ったからだ。せめて体だけでもこの世にとどめたかったのだろうか。あるいは、万に一つの蘇りを願ったのだろうか。遺族は定子のために、まず霊屋(たまや)という遺体安置所を建て、周囲には築地塀もめぐらした。遺体はいったん六波羅蜜寺に置かれ、葬儀の日には絹と金銅で飾った豪華な牛車に乗せられて、取野辺の霊屋まで運ばれた。霊屋の中には遺体と共に調度の品も収められたという。ちなみに定子の女房だった清少納言は、晩年をこの取野辺の近く、月輪の地で過ごしたとされる。主人が亡くなっても傍に仕えたのだ。

  さて、紫の上が亡くなったとき、光源氏はその日のうちに彼女を荼毘に付した。蘇生を願わなかったわけではあるまい。むしろ、自分の心に無理をさせてでも紫の上の死を受け入れ、信心深かった彼女の極楽往生を進めようとしたのではないか。それが、最後までこの妻に出家をさせなかった光源氏の、懺悔のしかたではなかったのだろうか。野辺送りの道すがら、一人で歩けないほど打ちひしがれた光源氏の姿は、そんな心の証しのようだ。

42- 平安人の心 「夕霧 後半:一条御息所の死 夕霧と落葉の宮の動きと雲居雁の逆上」

2021-08-02 10:16:52 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  一条御息所の文は、夕霧がそれを読む寸前に、夫の背信を疑う雲居雁によって奪い取られてしまう。夕霧がその文を読んだのは翌日で、時すでに遅かった。夕霧の態度に絶望を募らせ、御息所は帰らぬ人なっていた。落葉の宮は衝撃から、母の後を追いたいとまで思う。
  母の死の原因を作った夕霧がまるで夫のような顔をして葬儀の采配を振るうのも疎ましい。だがこの頃には、落葉の宮に仕える女房たちが心を合わせ、宮と夕霧の結婚を望むようになっていた。それが自分たちの暮らしの拠り所となるからである。

  夕霧はその後も小野に通い詰める。二人の噂が流れるが、光源氏も口出しはできない。不本意な結婚にからめ捕られてゆく落葉の宮を目の当たりにし、紫の上は、女性というものの生き難さに思いを致した。そんな周囲をよそに夕霧は着々と結婚計画を進め、落葉の宮を小野から一条に引っ越させ、自らは主人のように一条宮で待ち、落葉の宮を迎え取った。
  落葉の宮は塗籠(ぬりごめ:邸内部の物置)に立てこもって夕霧を拒むが、女房が夕霧に加担して夕霧を塗籠に入れたため、ついに押し切られ、契りを結んでしまう。

  いっぽう夕霧の本妻の雲居雁は、夫の浮気に腹を立て、姫君たちと幼子を連れて実家に帰る。ことの面倒さに、「誰が恋など風流がるのか」と夕霧は懲り懲りの気分である。このように、まめ人・夕霧が豹変しての恋愛劇はごたごたの様相を呈するのであった。
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  結婚できない内親王

  私たちに親しみ深い結婚された内親王といえば、紀宮清子さまだろう。動物がお好きで、盲導犬に関わるご公務に勤しまれた爽やかなお姿は、まだ記憶に新しい。紀宮さまは、平成の天皇・皇后両陛下の「いつかは結婚するように」との方針のもとで育てられたと聞く。そして結婚されて黒田清子さんとなり、幸せにお暮しのことと拝察する。だがその幸せは、平安時代の内親王たちには難しかった。当時、内親王とは基本的に結婚しない存在だったからだ。

  律令のひとつ「継嗣令(けいしりょう)」は、内親王はじめ四世皇女までの結婚を、天皇や皇族を夫とする以外、認めていない。皇女たちが他氏の男と結婚すれば、彼女たちを介して天皇家の血が他氏に流れてしまう。それを阻んで天皇家の権威を守ろうというのが、法の主旨だ。
  だが摂関期、天皇には藤原氏の娘が続々と入内するようになった。皇女たちは圧倒され、いきおい独身で生涯を過ごすことが多くなった。今井源衛氏によれば、平安時代が始まった桓武天皇(737~806年)から「源氏物語」直前の花山天皇(968~1008年)の時代までの間に、皇女の数は百六十余人。うち結婚したのは、わずかに二十五人と、六人に一人に満たない。彼女たちがいかに結婚に縁遠い存在だったかがわかるだろう。
  ところが「源氏物語」には、そんなまれな結婚を一人で二度もした内親王がいる。朱雀院の次女・落葉の宮だ。最初は柏木と結婚し、その死後は夕霧と再婚している。

  実は、実態としての皇女の結婚は、法の通りではなかった。天皇や皇族以外の、臣下と結婚した皇女たちもいたのだ。今井久代氏は、そこに二つのパターンを指摘する。
  ひとつは、皇室と藤原氏とが手を結ぶための政略結婚。実は、柏木と落葉の宮の結婚にはこの要素があった。柏木は、藤原氏の筆頭・太政大臣(元の頭中将)の長男である。かつて女三の宮との結婚を願い出た時には、朱雀院は「まだ若いし、身分も低い」とはねつけた。だが落葉の宮との縁談の時にはもう中納言。今上帝からも信頼される、評判の人物だった。柏木と縁組をする利益が、朱雀院やその子の今上帝にも十分にあったと考えてよい。
  そしてもうひとつのパターンは、「私通」だ。臣下の男が、父帝、または父院の目を盗んで内親王を我がものとする、スキャンダラスな結婚である。寡婦となった落葉の宮に夕霧が言い寄り、ついには陥落させたのは、このケースといえよう。だからこそ、落葉の宮の母・一条御息所の心痛を招き、落葉の宮自身、塗籠にこもってまでも抵抗したのである。