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すみません。また二重投稿です。

2021-11-09 15:13:43 | 投稿ミス
14 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本 」

 第1章
 ルーズベルト(FDR)が敷いた開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
目次漏れ項目 日独伊三国に向けられた「防疫演説」
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相

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1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本

  近衛内閣が日米交渉を始めた時点では、陸海軍は日米関係が悪化しつつあったものの、まだ、対米戦争にまでなるとは深刻に考えていなかった。
  陸海軍も、日米交渉が成功することを、強く期待した。

  対米英蘭戦争となれば、当然、アメリカや、イギリス、オランダが領土としている東南アジアの植民地が、戦場となった。
  陸海軍は太平洋の欧米の植民地や島々において、米欧と戦うことを、まったく想定していなかった。日本の国力からいって、そのような戦争を想定することが、できなかったからだった。

  政府、軍にとって、日本の国力を比較すると、格段に差があり、工業力の差は20倍にもなるということが、常識となっていた。事実、アメリカが先の大戦中に建造した空母の数が104隻であったのに対して、日本は12隻だった。アメリカの航空機生産は、1944(昭和19)年だけをとっても、100,752機に達した。

  もし、日本が対米戦争を企てて、早い時期からアメリカと戦うことを計画していたとしたら、サイパン島、テニアン島、トラック島をはじめとする、第一次大戦後に日本の南洋委任統治領となったマーシャル諸島を、要塞化したはずである。
  ところが、開戦後の1944(昭和19)年はじめまで、日本は南洋諸島に防備を施すことが、まったくなかった。

  もし、十分な時間をかけてこれらの島々に防備を施していたとすれば、サイパンや、テニアンをはじめとする諸島に来攻したアメリカ軍に対して、もっと頑強に抵抗することができたろう。少なくとも、短期間で奪われることはなかったはずだ。

  陸軍は南方作戦について、まったく準備していなかった。
  陸軍がマレー半島、フィリピン、ビルマ、蘭印侵攻作戦の着手したのは、開戦の九カ月前の三月のことだった。海軍にいたっては、わずか四カ月前だった。

  それまで、陸軍はジャングル戦に備えた訓練を、一度も行ったことがなかった。
  開戦が決定すれば、これらの侵攻することになる地域について、作戦の遂行に当たって、かならず事前に用意される詳細な地図も、自然環境や現地の風俗などを調査した兵要地誌も、欠いていた。

  陸軍はもっぱら宿敵として見立てたソ連との戦争に備えていたし、海軍はアメリカと日本海海戦のような艦隊洋上決戦を戦うことしか、想定していなかった。
  日本の陸海軍は、南方を戦場とするような形の戦争を、予想したことも、計画したことも、まったくなかった。

  著者は高松宮宜仁(のぶひと)親王殿下に何回もお目にかかって、戦前から対米戦争に至るまでと、戦中戦後のお話をうかがったことがあった。殿下は開戦時には、中佐として軍令部に勤務されていた。
  著者が「戦争がどのような形で終わると、創造されましたか?」とおたずねすると、「アメリカの主力艦隊が日本近海まで進出してくるのを迎え撃って、日本海海戦のような艦隊決戦が戦われ、それにわがほうが勝って、戦争が終わると、漠然と考えていたね」と、お答えになった。

  日本は対米戦争を戦うのに当たって、長期的展望を持つことが、まったくできなかった。それにもかかわらず、勝算なしに対米戦争に飛び込むことを、強いられた。
  陸軍も、海軍も、緒戦の一年か二年しか、思い描くことができなかった。
  海軍は日本海海戦のような艦隊決戦を、それも一回だけ戦われることを、想定していた。

  しかし、仮にアメリカに対して艦隊決戦を行なって、一回戦ったとしても、もし、戦争がそこで終わらずに、消耗戦に持ち込まれた場合にどうするべきなのか、考えていなかった。
  日本は短期戦争を戦う能力しか、持っていなかった。
  もし、長期戦になれば、日本は工業生産力において、アメリカにとうてい太刀打ちできなかった。

  そのために、対米戦争を始めるに当たって、緒戦で勝利を収めたうえで占領地域を固めて不敗の態勢を確立すれば、そのうちにアメリカが戦意を喪失して講話が行われるとという、きわめて曖昧な結末しか、思い描くことができなかった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

失礼しました。古い記事を誤投稿してしまいました。カテゴリー紫式部日記をご参照ください。

2021-11-08 17:07:59 | 投稿ミス
  道長は中宮彰子の頭頂部の髪を少しだけ削ぎ、形ばかりだが出家の儀式を施しました。万が一産褥死しても、極楽往生できるようにということです。中宮彰子は、定子と同じようにこのまま亡くなるのではないか。重苦しい空気が垂れ込める中、1008年九月十一日正午頃、中宮彰子はようやく御子を産み落とされました。ですがまだ油断はできません。胎衣≪たいい 胎児を包んでいた膜や胎盤≫が出るまでは。定子はこれで亡くなったのです。緊張が走り、土御門殿の広い寝殿の端から端までひしめいた僧も女房も官人も、もちろん道長一家も、いま一度どよめいて額を床にこすりつけます。
  人々の祈りはかないました。中宮彰子は無事に出産を終えました。しかも、生まれた御子は男子でした。

― 午(むま)の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。平らかにおはします嬉しさの類ひも無きに、男にさへおはしましける喜び、いかがはなのめならむ。 ―
[現代語訳
 正午に、空晴れて朝日がぱっと差したような気がした。安産でいらっしゃった嬉しさは何物にも比べ難いが、その上生まれたのが男子とは、いやもうどうして普通の喜びようでいられようか。]

  道長と倫子の、ほっとした様子、二人は早速別室に赴き、大役を果たした僧・医師・陰陽師どもに褒美を渡される。

  それにしても何と強運の道長でしょうか。今や道長を外戚とする、血のつながった皇子が誕生したのです。これでようやく摂政(天皇のできることを全て代役できる地位)という天に続く梯子が見え始めたのです。上りつめるまでに必要なことは、一つだけです。この御子を、元服前、つまり自ら政治を執れるようになる前に、幼帝として即位させることです。

  中宮彰子は、十三歳の年には歴史上最も若くして中宮の位に就き、今は皇子の将来が囁かれてすっかり「国の母」、帝の母扱いです。ですが、この人はただの産婦でもあります。紫式部は畏れ多くもその寝顔に見入りました。

―  御帳のうちを覗きまゐりたれば、かく国の親ともて騒がれ給ひ、うるわしき御けしきにも見えさせ給はず、すこしうち悩み、面やせて、おほとのごもれる御有様、雲よりもあえかに、若くうつくしげなり。小さき灯炉を、御帳のうちにかけたれば、くまもなきに、いとどしき御色あひの、そこひもしらずきよらなるに、こちたき御ぐしは、結ひてまさらせ給ふわざなりけりと思ふ。かけまくもいとさらなれば、えぞかきつづけ侍らぬ。 ―

[現代語訳
 紫式部が御帳台のなかを覗き込むと、中宮様はこのように「国の母」と騒がれるような押しも押されもしないご様子とは全然見受けられません。少しご機嫌が悪そうで、面やつれしてお休みです。その姿はいつもより弱々しく、若く、愛らしげです。小さな灯りを帳台の中に掛けてありますので、それに照らされた肌色は美しく、底知れぬ透明感を漂わさています。また髪の豊かさが、床姿の結髪ではいっそう目立つものだと感じられます。あらためて口にするのも今さらのことですし、もう書き続けられませんわ。]

  いたいけな、そしてことのほか健気な産婦の、中宮彰子。作らぬ寝姿のあどけなさは、だからこそ紫式部には、ひときわの輝きを帯びて感じられました。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

すみません。また二重投稿ミスです。

2021-07-02 11:27:25 | 投稿ミス
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏二十五歳の夏のこと。世情は光源氏にとって芳しくなく、すべてが厭わしいと思えてならない。そんなある日、光源氏は故桐壺院の女御麗景殿の邸へと出向いた。女御の妹の三の君・花散里(はなちるさと)とは、かつては宮中で、かりそめの想いを交わした間柄だった。もう表立った恋人と言う訳ではないが、その名残で今でも姉ともども光源氏が援助しており、思い立てばこうしてふらりと訪ねることのできる相手である。

  途中、中川の辺りに、昔通った女の家があった。琴の音に引き寄せられ、光源氏は和歌をおくる。だが女は「人違いでは」ととぼける。さては新しい男でも通っているのか。心変わりももっともだが、男女の仲とは世知辛いものだと、光源氏は感じさせられる。

  振られた光源氏の心は、もとよりの目当てだった花散里によって癒される。久しぶりの光源氏の来訪を、花散里は温かい情で迎えてくれた。橘の香りのなか、女たちそれぞれの、変わる心もあり変わらぬ心もあることを思い、光源氏は感慨にふけるのだった。
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  「空蝉」「若紫」「花散里」・・。「源氏物語」の五十四帖の巻々には、どれもうっとりするほど美しい名前がついている。しかしこの巻名は、いったい誰がつけたのだろうか。作者の紫式部自身だろうか、それとも後の世の読者なのだろうか。

  「更級日記」には、作者の菅原孝標(たかすえ)の女が「源氏物語」を読んで胸をときめかせたことが記されている。治安元(1021)年の記事だから、「源氏物語」の誕生からまだ二十年も離れない時期だ。ところがそこには、巻名が出てこない。「紫のゆかり」を見て続きを読みたくなったと言っているのは、紫の上が登場する一連の巻々のことだろうけれど、はっきり「若紫」の巻を読んだとは言っていない。
  続きがなかなか手に入らず、仏様に「一の巻よりしてみな見せ給え」と祈ったとは書いているが、「桐壺の巻から」とは書いていない。そんなことから、物語が作られた当初は巻名がなかったとの説も、一部にはあった。だが考えてみれば、「紫の上関係の巻」とか「第一巻から」などという言い方は、巻名を知っている現代の私たちでも、することがある。「更級日記」のあいまいな表現を根拠にして、巻名がなかったと考えるのはせっかちすぎる。

  では巻名は、いつ誰がつけたのか。この素朴で深い疑問に答えてくれるのが、清水婦久子氏の説(「源氏物語の真相」角川学芸出版)だ。巻名には、和歌の世界でよく使われる言葉、「歌ことば」であるものが多い。またその巻の内容も、その歌ことばが詠みこまれ人々が慣れ親しんできた古歌に深くかかわっている。そんなことから、紫式部は古歌から美しい歌ことばを取り出し、それをいわば「お題」としてそれぞれの巻を書いた、と考えるのである。つまり、巻名が最初にあって、それから物語が作られたというわけだ。

  たとえば、光源氏が初めて恋の冒険を知る「帚木」の巻。この帚木という木は、平安時代にはよく知られていた伝説上の木だ。信濃国の「園原」という地にその木は生えている。遠くから見れば確かにあって、箒を立てたような形もわかる。だが近づくと、不思議なことに姿を消してしまうのだという。その伝説をもとにして、歌が詠まれ世に広まった。「源氏物語」の九十年ほど前のことだ。紫式部はこの伝説をヒントに、「帚木」をお題として、「帚木」巻を書いた。果たしてストーリーは、光源氏の前に一度だけ姿を現した人妻が、その後は決して会ってくれないというものだ。光源氏が追えば追うほど、女は光源氏を避けて姿をくらましてしまう。まさに伝説の「帚木」のように。

  では、「花散里」はどうか。和歌の世界では、橘の花が散る家として詠まれる。そこにホトトギスが来て鳴くという歌も多い。また橘には、「その花の香りを嗅ぐと昔を思い出す」という歌もある。さて、この巻のストーリーは、ホトトギスならぬ光源氏が昔の思い出を語りに橘の香る花散里の館にやって来るというもの。そしてその後も彼女は、光源氏にとって「昔なじみの癒やし系」的な存在として、物語の中で静かな存在感を発揮し続ける。「源氏物語」と和歌の世界は、かくも深くつながっているのだ。

ご迷惑をおかけしました。第9をダブル投稿していました。

2021-07-01 17:49:09 | 投稿ミス
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  桐壺帝が退位し、光源氏(母は桐壺更衣)の兄・朱雀帝(すざくてい:母は弘徽殿女御)が即位。その外祖父・右大臣の一派が権力を握る。そんななか、六条御息所の娘が伊勢斎宮となる。六条御息所は、光源氏との関係を清算して、娘の伊勢行きに同行しようか悩みながらも、やはり愛執の想いを断ち切れない。いっぽう左大臣家では、光源氏の正妻・葵の上が懐妊し、喜びに沸く。折しも、新しい賀茂齋院を迎えて賀茂祭が行われ、祭りの前の御禊(ごけい:天皇の即位後のみそぎの儀式)には光源氏も随行する。六条御息所は光源氏の姿を一目見ようと網代車に身をやつしてやってきたが、後から来た葵の上一行により、公衆の前で愛人の立場を暴露されたばかりか、車を壊され屈辱を味わうのだった。
  葵の上は出産が迫り物の怪に苦しめられる。世はそれを六条御息所の生霊と噂し、六条御息所自身も、まどろみの中で葵の上を打ち据える夢を見るようになる。そして光源氏も、妻が臨月の床でほかならぬ六条御息所にかわり、恨みの歌を詠むのを見て驚愕する。葵の上は男子を出産、光源氏はじめ一同は安堵し喜ぶが、数日後、物の怪により急逝する。光源氏は激しい喪失感に苛まれつつ、嘆く左大臣夫婦に子どもの養育を任せ、婿として十年を過ごした左大臣邸を出る。
  二条院に戻った光源氏は、引き取って四年、成長した若紫を初めて抱く。初めて知る男女のことに衝撃を隠せない若紫だったが、光源氏は三日の夜の餅(もちい)など結婚の儀式を整え、心からの誠実さを見せた。
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  父が娘を思うのは権力がらみの場合だけに限らない。父が娘の身を案じ、嫁げば夫婦仲を案じ、幸福であった欲しいと願ったことは、現在の父とそう変わらない。ただ、今と違うのは、女性の立場の不安定さだ。たとえ公卿の娘でも、父が亡くなり後見を失えば、女房にまで身を落とすことが珍しくなかった時代だ。高貴な父たちは自分の亡き後こそ、娘を思って気を揉み、時に亡霊となる。
  その代表が、「栄華物語」(巻十二)の描く具平(ともひら)親王(946~1009年)だ。彼は娘の隆姫を藤原道長の息子・頼通に嫁がせていた。ところが具平親王の死の六年後、頼通に新しい縁談がもたらされる。相手は今上・三条天皇(967~1017年)の内親王。結婚が成れば、押しも押されもしない高貴な新妻に、隆姫が圧倒されることは間違いない。加えて隆姫には子もなく立場が弱い。夫の頼道は乗り気ではなかったが、道長は「男が妻を一人しか持たぬとは痴(しれ)の様」と冷たく言い放ち、縁談を進めた。

  そんななか、頼通が重病に倒れ、彼に取り憑いた物の怪の一人として、具平親王が名乗りをあげるのだ。霊は道長をそばに呼んで、泣きながらこんこんとかきくどく。死後も娘が心配で、片時もそばを離れず見守り続けてきたこと。頼通の縁談という危機に、いても立ってもいられず出てきたこと。平に謝る道長に、霊は何度も「どうだ、子どもが可愛いか」と言う。親として子を思う気持ちは同じはず、頼通の命が惜しければ縁談をやめよというのだ。道長にしてみれば背筋も凍るような言葉。だが隆姫にとっては、死後もここまで案じてくれる、怖いほど愛に満ちた親心だった。果たしてこの縁談は沙汰止みとなる。

  「源氏物語」で葵の上が臨月を迎えた時、取り憑いた数々の物の怪の中には、六条御息所の故父大臣の霊もいると噂された。葵の上の父左大臣との、政治がらみの怨みなのか、それとも光源氏をめぐり、御息所を守ろうと現れたのか。物の怪に聞けるものなら聞いてみたい。