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解説-24.「紫式部日記」日記の構成と世界-女房たるもの、いかにあるべきかB1

2024-07-04 10:29:24 | 紫式部日記を読む心構え
解説-24.「紫式部日記」日記の構成と世界-女房たるもの、いかにあるべきかB1

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-女房たるもの、いかにあるべきかB1

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「B部分一回目のB1」

  この部分は、前半記録体とは明らかに文体もスタンスも違うが、文脈としては全く連続している。従来「このついでに」が消息体の開始となされているが、それは便宜的なことで、記録と無関係な女房批評は、実際には「このついでに」の直前、宣旨の君の記事から既に始まっている。
  記録体で、主家の晴事というテーマでは篤成親王誕生関係の諸事を、自分の成長記録というテーマでは寛弘五年大晦日の盗賊事件を記し終え、筆は自然に批評へと移ったのだろう。

  消息体部分で紫式部が記すことは、一貫して「女房たるもの、いかにあるべきか」ということである。
  まず彰子女房から数人を紹介、その容姿や性格を見渡してゆく。とりあえずの結論は、女房は「心ばせ(気配り,心遣い)」こそ得がたいものだということ、「心重く、かどゆゑも、よしも、うしろやすさも」すべて兼ね備えることが理想だということである。
  この「落ち着き、才覚教養・風情・仕事能力」という価値基準は一見どの後宮にも共通するかのようだが、「今めかしさ」や「気ぢかさ」で親しまれた定子後宮とは異なる。紫式部は、彰子女房は普遍的美質を持つ正統派であるべきと考えているようである。

  次に、斎院女房中将の君の手紙の話題を持ち出すが、それは彰子後宮の情緒に欠けることを俎上に載せるためだった。確かに後宮は斎院に比べ環境的に劣るが、そうした外部要因だけではなく、女房たち自身に問題があると紫式部は指摘する。
  上臈女房たちのお嬢様意識が過剰な消極性につながり、日常業務への実害さえ引き起こしているというのである。かしこまりの言葉「侍り」を連発しながら、「いとかく情なからずもがな」、もっと風情をと紫式部は主張する。
  女房として周りが見えてきた紫式部は、女房がどれほど重要な責務を負う、政治的な存在であるかを知っている。
  敦康親王と篤成親王の後継争いは目前に迫っている。貴族たちは篤成親王を歓迎するに違いないが、彰子後宮の不人気や、貴族たちの定子への追憶は良くない材料なのである。

次回はB消息体部分:三「才女」批評B2

解説-23.「紫式部日記」日記の構成と世界-女房・公卿A3

2024-07-02 12:12:35 | 紫式部日記を読む心構え
解説-23.「紫式部日記」日記の構成と世界-女房・公卿A3

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-女房・公卿A3

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「A部分三回目のA3」

  いっぽうで、女房たちや公卿・殿上人を見つめる目は、すぐれて女房的である。例えば盛大な五日の産養で、彰子付き女房たちは、女房少将のおもとが装束に付けた銀箔の貧相さを見て、突き合って非難したという。これは美的な避難ではなく、「殿の古人(こじん:前に親しくしていた人)なり」と付記されるような道長家女房の古株にしては、この晴事(はれごと:晴れがましいこと)への配慮が足りないと非難しているのである。

  また、親王誕生五十日の祝で、紫式部は酔い乱れる公卿たちの姿を、順に見渡すように記している。その姿はといえば、政務でしばしば「至愚のまた至愚」と言われた右大臣藤原顕光は、几帳の綻びを断ち切り女房に戯れるまさに至福の姿、中宮冊立以来中宮職に勤め続け、彰子を出世の梯子とすがる中宮の大夫(だいぶ)斎信(ただのぶ)は、乱れた場を収めて祝いの席を成功させようという抜け目ない官吏の姿、「小右記」に窺われるように万事に細かい実資は実資で、女房の華美を疑い装束の枚数を数える姿と、すべてが彼らの最も彼ららしい瞬間を切り取ったものであって、見事としか言いようがない。

  女房とは、主家に密着した存在である。物理的に主家の内部、御簾の中にまで入り込み、主家と生活を共にするという在り方から、自然に彼女たちは、主家に関する情報を、微細に至るまで知ることになる。女房同士の横のつながりもある。
  また彼女たちが女性であり、女房であるという気安さから、貴顕の男たちも女房には素顔を覗かせる。朝霧の中から現れる道長、御帳台の中で眠る彰子、それぞれの女房たちが装束に込めた配慮、公卿たちが酔って晒した素顔。
  これらはすべて、紫式部が女房であるからこそ書けたことである。紫式部は、男性官人の行事日記、貴族の古記録を意識しつつ、それらとは全く違った「女房だからこそ、ここまで見、ここまで書けた」という作品に挑戦しているようだ。

  いっぽうこの部分には、紫式部が自分の心の苦しみについて記した「憂愁叙述」と呼ばれる箇所が、所々ある。
  例えば行幸前、美しい菊の園を見つつ「思ひかけたりし心の引くかたのみ強くて」鬱々とし、自分を水面下でもがく水鳥に重ねる箇所。
  あるいは行幸で、天皇の出御(しゅつぎょ:おでまし)という大切な時に、天皇よりもその輿を背負う駕輿丁(かよちょう:輿(こし)を担ぐ人)に目が行き、自分も同じだと思う場面。
  または、十一月中旬、楽しみにしていた初雪を土御門殿でなくみすぼらしい我が家で見ることになり、落胆と共に自分の変化に驚く場面などである。これらの多くは、私家本への書き換えの際に加えられたものと考える。それは、書き換えの動機がこれであったと推測されるからである。

  零落貴族出身の自尊心と引け目、夫の死以来抱き続けた無常観と厭世観、女房世界への嫌悪感。そうした私的な鬱屈にとらわれ、ややもすれば仕事中も目の前のことから意識がずれて、違うことを考え出す。憂愁叙述に記される紫式部の姿は、個人紫式部の内面記録として非常に貴重である。
  おそらくはそれらは、紫式部自身にとっても拙いながらかけがえのない記憶であったに違いない。だが見方を変えれば、それは女房としてプロ意識に欠ける、未成熟な姿ということになる。
  ところがそうした彼女が、消息体や後半記録体においては、内面の懊悩を抱えつつもそれを表に出さず主家の為に用務を果たす、成熟した女房に変貌している。

  内面の苦と、女房としての成長。私的書き換えは、自分のこの魂の足跡を記しとどめ伝えたいという理由から為されたと考える。私家本「紫式部日記」とは、つまるところ女房紫式部の打ち明け話であった。この観点からみると、雑然とした寄せ集めに見えた構成は俄かに一貫性を持つのである。

次回はB消息体部分:女房たるもの、いかにあるべきか

解説-22.「紫式部日記」日記の構成と世界-彰子A2

2024-07-01 11:07:08 | 紫式部日記を読む心構え
解説-22.「紫式部日記」日記の構成と世界-彰子A2

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「A部分二回目の-彰子A2

  だが、同じく主人であるとはいえ、彰子に対する紫式部のまなざしは道長に対するものとは違う。彰子は最初の登場場面で次のように描かれる。


   御前にも、近う候ふ人々はかなき物語するを聞こしめつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させ給へる御有様などの、いとさらなることなれど、憂き世の慰めには、かかる御前をこそ尋ね参るべかりけれと、現し心(うつしごころ:理性のある心)をばひきたがへ(打って変わって)、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。

<現代語訳例
中宮様におかれても、おそば近くお仕えしている女房たちが、とりとめもない話をするのをお聞きになりながら、(身重のため)お苦しくいらっしゃるだろうに、そしらぬふうでそっとお隠しなさっておられるご様子などが、本当に今さら言うまでもないことであるけれども、このつらい世の中の慰めとしては、このようなご立派な中宮様をお探ししてお仕え申すべきであったのだと、普段の心とは打って変わって、たとえようもなく全て(の鬱々とした気持ち)が忘れられるのも、一方では不思議なことである。>


  彰子が身重のつらさをさりげなく隠す姿に、紫式部は「つらい人生の癒しには、求めてでもこのような方にこそお仕えするべきなのだ」と感動し、日頃の思いとはうって変わって、すべてを忘れたという。その自分を不思議だととらえる目もありながら、確かにひとときを癒されたのである。それは彰子への崇敬が、権力関係ではなく人としての共感だからである。

  「女房日記」は基本的に、主家に従う女房が主家を賛美する姿勢を執ると考えられるが、紫式部の彰子へのまなざしには、主を仰ぐというよりも人として寄り添う一面がある。篤成親王を出産後、七日の産養(うぶやしない:出産後、三・五・七・九日目の夜に催す祝宴。親戚・知人が衣服・調度・食物などを贈る)をよそに御帳台で休む彰子を描写する場面もそうだ。

  重圧の中で大役を果たした彰子の、痛々しい程の健気さを、紫式部は見届けている。

次回は女房たちや公卿・殿上人に対する紫式部の見方(A3)です。

解説-21.「紫式部日記」日記の構成と世界-道長A1

2024-06-30 10:58:07 | 紫式部日記を読む心構え
解説-21.「紫式部日記」日記の構成と世界-道長A1

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-道長A1

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「A部分一回目のA1」

  この部分には、彰子と道長を主人として賛美するまなざしが露わである。緊張感に満ちた冒頭部分は、中宮を迎えたこの土御門邸で、庭の木々の梢や遣水(やりみず:川から庭園に水路を造り引き入れた時の庭をながれる川水)の畔の叢といった言わば「道長支配空間」の自然のみならず、「おほかたの空」という天までもが、出産の季節の到来を知らせていると記す。
  それに引き立てられて、道長が揃えた僧たちの不断の御読経(24時間、絶え間なく行われる読経。12人の僧侶が2時間ずつ、輪番で担当する。大般若経、最勝王経、法華経を読む)が感動を募らせる。まさに天下一体となって、彰子の男子出産を盛りたて、祈るのである。

  冒頭から出産までは、最初に中宮彰子を登場させ、その後は道長、頼道、篤成(あつひら)親王の乳母となる女房宰相の君、そして彰子の母倫子と、主要な家族の一人一人にスポットライトを当てるようにエピソードを連ねてゆくことからも、明らかな構成意識が窺える。献上本「紫式部日記」の姿を多分に遺す部分であろう。
  主家を主役に、この家にとって一大晴事となった親王誕生劇を、女房の目で書いてゆこうとする気概が、端々に感じられるのである。

  そのことは例えば、道長と早朝、女郎花の和歌を交わした場面での表現にも見て取れる。この贈答は「紫式部集」にも載るが、そこでは状況は次のように記される。

   朝霧のをかしきほどに、御前の花ども色々乱れたる中に、女郎花いと盛りに見ゆ。折しも、殿出でて御覧ず。一枝折らせ給いて、几帳のかみより「これ、ただに返すな」とて賜わせたり

 女郎花さかりの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ

   と書き付けたるを、いと疾く

 白露は分きてもおかじ女郎花心からにや色の染むらむ

 (「紫式部集」六十九・七十)

  色々の花が咲き乱れる中で、道長は美女を意味する女郎花の花をことさらに選び、差し出す。しかも「これ、ただに返すな」とは、恋の誘いかけを袖にするなということだ。
  「もう女盛りを過ぎた私、殿のお相手はできませんわ」と紫式部が詠めば、道長は「いと疾く」詠み返す。「女郎花は自分の意志で美しく染まっている。お前も心がけ次第ではなかなかのものだよ」。多分に色ごとめいた香りが、家集には漂うのである。

  ところがその同じ素材を、「紫式部日記」は全く違うやりとりとして描く。

   渡殿の戸口の局に見出せば、ほのうちきりたる朝の露もまだ落ちぬに、殿ありかせ給ひて、御随身召して遣水払はせ給ふ。
   橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上よりさし覗かせ給へる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顔の思ひ知らるれば、「これ。遅くてはわろからむ」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。

 女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ

  「あな、疾」と微笑みて、硯召し出づ。

 白露は分きても置かじ女郎花心からにや色の染むらむ

  ここには、家集に見えなかった随身の姿が書かれている。随身は、警護のため勅令により特に与えられる武官だが、道長はそれを私的に従者としてとして使い、遣水の掃除などをさせているのである。
  その威容、紫式部は強い引け目を感じるが、それも家集には書かれなかったことだ。

  いっぽう花については、女郎花以外の花があったことが削られている。道長の言葉は紫式部に詠歌の早さを要求するもので、女房としての力を試している。したがって歌の意味も「女郎花に比べると我が姿が恥ずかしく思えます」となる。
  或いは「露」に漢語「露恵(情を顕わす?)」の意を匂わせて「この邸宅の女郎花のように、道長さまの恩恵を被りたく存じます」との意もあるのかもしれない。

  道長は自分が早く詠むのではなく「あな、疾」と、紫式部の詠歌の早さを評価する。そして「恩恵に分け隔てはない。お前も自らの意志で頑張りなさい」と励ます。道長はあくまでも、紫式部にとっては仰ぎ見る主家の長とされている。
  家集と「紫式部日記」のどちらが事実かについては不明だが、こうした書き分けが明確かつ意識的に行われていることは重要である。

次回は彰子に対する紫式部の見方(A2)です。

解説-20.「紫式部日記」日記の原形

2024-06-28 10:24:53 | 紫式部日記を読む心構え
解説-20.「紫式部日記」日記の原形

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の原形

  経験の浅い紫式部が、前半記録体に記されるようなこと細かな事実を見、またメモするには、主家から取材が許可されなくてはならない。才芸の女房として雇われた紫式部は、通常の業務に加えて主家のために晴儀(せいぎ:朝廷の儀式を、晴天の日に正式に執り行なうこと)の記録を作成する任務を、特別に与えられたのだろう。

  ところで紫式部は前半記録体の中で、「源氏物語」が作られた際、自分が書いた完成原稿はすべて手元から失せ、いっぽう草稿がまとまって流出してしまったと記し、無念さを顕にしている。
  献上本「紫式部日記」においては、その轍を踏まぬよう、自分のための写しを取っていたに違いない。それをもとに、大きく作り変えて誕生したのが、現行「紫式部日記」の原形だったと考える。

  現行形態さえ文学作品としての統一感に欠ける「紫式部日記」だが、これに首部が付いた私家本原形は、さらにまとまらない印象を呈するものだっただろう。だがそれは作者の意思が、この書き物を文学的に完成させるよりも、第一に情報として役立つものにすることを優先したためと考える。

  その「情報」ということの意味については、次項で述べる。本の製作には高価な紙を必要としたはずだが、この作品には「いとやつれたる」形で反故(書きそこなったりして不要になった紙)を使ったことが消息体末の挨拶文に記されており、そこからも、執筆がごく私的な営みであったことが窺われる。
  なお、公的な性格を持つ献上本が、献上先の貴さゆえに流布せず、私家本のほうが広まるのは、古典籍の世界でしばしば見受けられることである。

つづく