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D4 彰子と息子たち、国の権威としての信条と生き方 最終回

2021-04-17 10:04:22 | 源氏物語の時代 一条天皇と後宮
  一条が死んで五年後の1016年、彰子の息子敦成(あつひら)が即位した。後一条天皇である。秋の新嘗祭は一代一度の大嘗会(だいじょうえ)として大々的に開催された。

   帝が賀茂川で潔斎(けっさい)なさる「御禊(ごけい)」の日となった。先例にならわず諸事万端が一新され、殿方・公達の馬や鞍、弓や矢筒の飾りに至るまで特別である。選ばれて女御の代わりを務められる女御代の役には、道長殿の明子腹の姫君寛子様があたった。その車からは、収まりきらぬ装束の袖口が外にこぼれ出て、何枚を重ね着したとも数え切れぬ豪華さで輝いている。帝が御幼少なので、輿には彰子皇太后が同乗なさる。何とも描きようのない素晴らしさだ。(栄花物語)

  行列に同行する近衛大将は、左大将が彰子の弟頼道、右大将は例の実資。二十五歳の若い頼道に負けず六十歳の実資はかくしゃくとし、微笑みをたたえて馬を歩かせたという。道長の倫子腹の次男教道と明子腹の長男頼宗はともに衛門府の長官で、華麗な武官姿にみずみずしい若さを匂わせてゆく。女房たちの車が四、五十台も続く。右大臣、内大臣も馬で行く。すべての行列の最後を行くのは、貴族の中では一人だけ牛車に乗った道長だった。選りすぐりの美形ばかり三、四十人を共とし、摂政ゆえに許される十人にさらに異例の二人を加えた十二人の警護騎馬隊を前に立て、大声で先払いをさせながら、道長の牛車は進んだ。それは道長の栄花の実現を人々の目に見せ付ける光景だった。

  だが、彰子はその父さえ及びもつかない場所、鳳輦(ほうれん 天皇の乗物の美称)の上にいた。母が帝と同乗するのは、一条の大嘗会に一条の母詮子が同乗した例にならっている。それはちょうど三十年前、一条は七歳だった。いま敦成は九歳である。息子を抱きながら彰子は、父を含め貴族官人のすべてを見下ろす位置にいた。それは、これから天皇の母として権力の一角を担ってゆく彰子の人生を象徴するかのようだった。

  敦成が後一条天皇となって二年目、三条天皇の長男で東宮だった敦明が東宮の位を返上した。『大鏡』は道長の圧力に屈したともいうが、史料に従う限り、自発的に位を降りたというほうが事実に近いと考えられている。もとより人望がなく、何度も乱闘事件を起こすなど、政治向きでない性格でもあった。新東宮は彰子の下の息子敦良となった。後の後朱雀天皇である。冷泉・円融兄弟に始まった両統迭立(てつりつ 交互にたつこと)状態はこれで終わった。一条の皇統が残ったのだ。

  天皇と東宮を擁した彰子を『大鏡』は「天下第一の母」と呼ぶ。後一条の治世は足かけ二十一年、後朱雀は十年。彰子は息子たちを後見し、父を、また父を継いで摂政・関白となった弟頼道を支え、積極的に政治に介入した。その間、1026年、出家し法名(ほうみょう)「清浄覚」となる。と同時に、通常は天皇経験者に与えられる称号「院」を授けられて、その後の彰子は「上東門院」と呼ばれた。天皇家に血を受けない人間でありながら、当時において人としての地位を極めたのである。

  出家のあくる年、1027年にはすぐ下の妹の姸子が亡くなった。三十四歳であった。お洒落の好きな姸子だったが、最期は虫の息の下で髪を切る仕草をして、父の道長に出家の意志を伝えた。道長は遺髪を捧げ、「一緒に連れて行ってくれ」と泣いたという。
  その言葉どおり、道長も同年十二月四日、他界した。姸子の四十九日に床に就き、十日ほど後には重体となった。彰子は父道長のために僧百人を動員して『寿命経』を読ませたが、容態は悪化、震えを繰り返し、背中の腫れ物の毒気が腹部に回ったと診断された。治療は及ばず、うめき声をあげながら衰弱して、自らが建立した法成寺阿弥陀堂内で六十二歳の生涯を閉じた。偶然同じ日に藤原行成も急逝した。五十六歳だった。

  息子たちも彰子より先に逝った。後一条は1036年、享年二十九歳。また後朱雀は1045年、享年三十七歳。後朱雀の後は彼の子の後冷泉が足かけ二十四年間、同じく後三条が五年間、相次いで帝を務めた。そしてそれぞれ、五十歳になる前に世を去った。時代がどう遷ろうと、彰子は自らの血を分けた天皇たちを、母としてまた祖母として見守り、見送った。その間もそしてその後も、摂関家と天皇家を支え、摂関制を見守る存在として彰子は生きた。それは権威であることを自ら引き受けた、長い長い人生だった。彰子の崩御は1074年。父道長と同じ法成寺阿弥陀堂内で、八十七年の天寿を全うした。彼女のひ孫、白河天皇の代のことだった。

  その白河によって、間もなく時代は院政期へと遷った。が、彰子にまつわる話は以後も語り継がれた。キサキの入内につけても、出産につけても、彰子の例こそがあやかるべき先例とされて見習われたのだ。摂関家の黄金時代を築いた女性、天皇家の家長のように君臨した国母として、彰子は伝説のように尊敬され慕われ続けた。

  彰子が話した昔語りも、聖典のように伝えられた。平安時代の最末期を生きた関白、藤原忠実はこう語る。

   天皇や摂政・関白は、慈悲の心をもって国を治めなくてはならないものだな。これは私が祖父の故関白師実(もろざね)公(頼道の子)から伺った話だ。
   昔祖父に、上東門院(彰子)様がこうおっしゃったという。
  「かつて一条院は、寒い夜には、わざと暖かい夜具を脱いでいらっしゃいました。どうしてですかとお聞きすると、『日本国の人民が寒がっているだろうに、私がこうして暖かく居心地よく寝ているのでは、良心が痛むのだ』。そうおっしゃいましたよ」

  彰子の心の目には、ほほえましいほど真面目な一条の姿がいつまでも焼きついていた。

  おわり(全編の終わりです。読んでいただいた方々に感謝いたします)

参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり

D3 彰子と息子たち、彰子は女院「上東門院」に

2021-04-16 10:32:25 | 源氏物語の時代 一条天皇と後宮
  彰子のその後

  彰子はどうしていただろう。彼女は平安時代には珍しい、実に八十七歳という長寿を生ききった。一条が死んだときはまだ二十四歳。名実ともに、その人生の本番は一条が死んでから始まったと言っても過言ではない。
  実は、彼女は見違えるような変貌を遂げた。権力の中枢に座し、女院「上東門院」として世に君臨するに至るのだ。『紫式部日記』が記していた臆病な彰子、女房に指図一つできない彰子は、後年の彼女からは考えられない。だがその人生の原点は一条との十二年の生活にあった。彰子が変化し、それをはっきりと世の中への行動に示すようになったのは、一条の死後二年近く経った頃からのことだった。

  一条は生前何度も贅沢禁止令を出し、道長も当時はそれに従っていた。だが三条の時代になるや、道長は天皇に非協力の態度をとり、あからさまに贅沢を行った。そのため世の雰囲気は一気に派手になった。それに拍車をかけたのが、彰子の妹姸子の贅沢好きだった。姸子の主催する宴会はこの正月以来の二カ月間に限っても、既に四度になる。招かれたほうも空手では行けず、貴族たちはそのつど料理や菓子を持参した。特に「一種物(いっすもの)」という客に酒肴を持ち寄らせる宴会は、貴族の負担はさらに重かった。彰子はそうした貴族たちの心に配慮し、自らの邸宅を道長に使わせなかった。

  ここで大切なのは、彰子が饗宴自体を嫌ったわけではないということだ。別の機会には、自ら豪華な宴を催し貴族たちを招くこともしている。服藤早苗氏が「貴族を招き政治的結集を謀る饗宴そのものを彰子はむしろ積極的に活用した」とされるのは慧眼である。彰子は貴族たちに負担となる宴会はやめ、そうでない宴会は開いて、人心を掌握したのだ。
  貴族たちに対して彰子がとったのは、自ら貴族たちのつぶやきに耳を澄まし、貴族たちの不満を解消し、貴族たちと協調しようとする姿勢である。これは一条の方法だった。彰子の原点に一条との十二年があると考えられる。

続く(国の権威としての生き方と心情)

参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり

D2 彰子と息子たち、清少納言と人々のその後

2021-04-15 08:35:03 | 源氏物語の時代 一条天皇と後宮
  清少納言は都にいた。

   清少納言が月の輪にかへり住む頃

― ありつつも雲間にすめる月のはを いくよながめて行き帰るなん ―
   清少納言が月の輪の山荘に帰って夫と住みだした頃
  空にありつつ雲の切れ間に澄んだ光を見せる月。あなたがいた宮中も「雲」の上と申しますね。そこに住む月を幾夜・・・・・・幾代眺めて、一度離れた「月の輪」の地へと帰ってきたのですか。

  藤原公任が清少納言に贈った歌である。月の輪は、清少納言の元夫の藤原棟世が山荘を持っていた地と考えられている。三田村雅子氏はこの歌を、宮仕えに憧れて歳の離れた棟世の下を飛び出した清少納言が、何年も経って結局は復縁したことを公任がからかったもの、と解釈している。清少納言は四十歳前後、夫はもう七十を超えていたと思われ、貴族社会の小さな噂になったのだろう。清少納言は歌を受け取ってもしばらく返事をしなかった。さすがにむっとしたのだろう。
  月の輪という地名は今も京都市東山区に残っていて、地内の門跡寺院泉湧寺(せんにゅうじ)の境内には清少納言の「夜をこめて」の歌碑がささやかに置かれている。説話の世界では清少納言は晩年落ちぶれたとされ、田舎に下って菜を干しながら「宮廷の殿方のなほし(直衣)姿よ」と思い出にふけったり、刃傷沙汰に巻き込まれるなど、ひどい話もある。だが事実としては、晩年はこの月の輪か、あるいは亡父清原元輔の遺した京中の邸宅で暮らしたと思われる。元輔邸では隣人が、学者大江匡衡(まさひら)の妻にして彰子の女房、『栄花物語』正編の作者ともされる赤染衛門だった。大雪の日に、二軒を隔てる垣根が倒れてしまったという歌が残ってる(『赤染衛門集』)。
  また清少納言は、和泉式部とも文通していた。平安随一の女流歌人にして『和泉式部日記』の主人公でもある恋多き女性で、やはりこの時期を彩った才女の一人だ。和泉式部は1009年頃から彰子に仕えたが、清少納言との歌のやりとりは、互いの男性関係をからかいあったり、清少納言から海苔を贈ったりと親密である(和泉式部集)。
  清少納言には明るく元気というイメージがあるが、今に残る歌集『清少納言集』には、意外にも老いの悲しみや恋の涙を詠むなどしみじみした歌が多い。逆境の中でこそ笑いを、という『枕草子』の姿勢は、本当はもろい清少納言がことさらに気丈であろうとしてとったものだったのかもしれない。ともあれ赤染衛門や和泉式部とのやりとりからは、友人の多い晩年だったと想像される。

  投稿者補足;和泉式部と赤染衛門の関係は諸田玲子著作のミステリー小説「今ひとたびの、和泉式部」に詳しい。
ー あらざらむこの世のほかのおもひでに
  今ひとたびの逢ふこともがな ー
  清少納言もちょっとだけ怖いおば様としてでてきます。

 続く(彰子は女院「上東門院」に)

参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり

D1 彰子と息子たち、紫式部、人々のその後

2021-04-14 11:52:07 | 源氏物語の時代 一条天皇と後宮
(参考図書が変わったので、今までの内容と一部重複することをご容赦ください)

  一条天皇の死から二年後の1013年。例の御意見番、時に五十七歳の実資は日記にこう記した。

  昨夜、実資の養子を密かに皇太后彰子様のもとに遣わし、東宮敦成(あつひら 彰子の第一子)様が御病気なのに休暇中でお見舞いできなかったとの旨、挨拶させた。養子は今朝方帰って報告した。
 「夕べ彰子様のところで逢った女房ですが」
現越後の守藤原為時の娘(紫式部)だ。私は前々からもこの女房を彰子様への諸事伝言係にしてきた。
 「彼女が言うには『東宮の御病気は重くはありませんが、まだ完全にご回復ではございません、少しお熱がおありです。それから道長様もすこしだけ具合が悪くていらっしゃいます』ということです」

  紫式部は彰子に仕え続けていた。道長に対してさえも辛口な実資の信頼を得、彼から彰子へのたびたびの、また秘密の言上なども受け付ける、最前線の実務女房として生きていた。
  紫式部は一条期末期に『源氏物語』を宇治十帖まで書き終え、なすべきことをすべてなした虚脱感の中で、仏道に惹かれていったと想像されている。それでもすぐに宮廷を去らなかったのは、彰子への愛情と尊敬によるとされる。『源氏物語』の完成時期には諸説があるが、すべて推測の域を出ない。だがその多くの部分は、紫式部が宮廷に出仕し、彰子と出会ってから執筆された可能性が高い。彰子の後援とともに、その人生が紫式部に教示したことも多かっただろう。一条没後の紫式部については「一寡婦としての彰子の生き方の中に、摂関家の女の運命を考え続けたはずである」と想像される。

  晩年の紫式部は宮仕えから身を引き、実家で静かに暮らしていたと思われる。自撰家集『紫式部集』は、そのころ編集されたものと思しい。それは次の二首で終わっている。
― ふればかく憂さのみまさる世を知らで 荒れたる庭に積もる白雪 ―
   生きながらえればこんなにつらさばかりが募る世の中とも知らないで、荒れ果てた我が家の庭に降り立ち、積もる白雪。思えば、人もみな最初はこのように無垢なのだ。

― いづくとも身をやるかたのしらねれば 憂しと見つつも永らふるかな ―
   現実を生きざるを得ない身、どこへ行こうと気の晴れるところなど分からないから、憂いに満ちたものと分かりつつも、こうして生き永らえていることよ。

  「世」そして「身」。誰にとっても憂いばかりの現実と、それを生きる人間とを、紫式部は見つめ続けていた。人は何も知らず生まれ、人生の海に乗り出し、やがてそこにある苦悩と悲哀を知る。だがそれでも、人は生き続けるしかない。初雪が積もる庭を眺めながら、そんな感慨にふけったのだ。彼女が最後に辿り着いた思いは、人生への諦念だったのだろうか。

  続く(清少納言は都にいた)

参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり