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終章 イギリス「女好きが大国の歴史をかえた」

2021-06-07 17:45:59 | 伝統国家イギリス
 「女好きが大国の歴史をかえた」 一部引用編集簡略版

  ヘンリー八世は議会を用いて、イングランドの教会をローマ法王から分離して独立させる立法を、つぎつぎと行わせた。1532年に収入税法を成立させて、それまで教会がローマ法王に収入を上納していたのを国王に納め、イングランドの教会のために使用するように改めた。聖職者も議席を占めていたが、買収されるか、脅迫に屈した。

  1533年には、法王庁に対する上訴を禁じる上告禁止法を成立させて、ローマ法王がイングランドの教会に干渉できなくした。その翌年には、国王を「神のもとで、イギリス国教会の地上唯一の至上の首長」とする国王至上法を立法させた。ヘンリー八世はそうすることによって、ローマ法王に代わってイギリス国教会の法王となった。
  これは社会革命をもたらすとともに、イギリスを大陸からいっそう独自の道を歩ませるのを促した。1536年には群小の修道院を解散させて、修道院が全国に所有していた荘園を中心とする莫大な不動産や、おびただしい金額の宝飾器を王室財産にして没収した。二年後には、大きな修道院もすべて対象となった。これは枯渇していた王室の金庫を大いに潤した。

  ヘンリー八世がローマ法王に対して絶縁状を叩きつけたのは、宗教上の理由からではなかった。色恋沙汰から起こったことだった。最初の妃だったキャサリンと離婚して、女官のアン・ブレーンと結婚しようと強く望んだが、ローマ法王が離婚を認可しなかったからだった。
  ヘンリー八世の海軍好きと女好きが、イギリスの歴史を大きくつくりかえたのだ。

  アンは1525年にキャサリンの女官に取り立てられた直後に、ヘンリーの目にとまった。アンは二十四歳で、ヘンリーが三十代なかばだった。王妃は四十歳に近かった。ヘンリーはそれまで何人もの愛人をもったが、アンを見初めたときには、アンの姉のメリーを愛人にしていた。メリーも王妃に女官として仕えていた。

  ヘンリーはアンに激しく恋した。ところがアンはヘンリーが誘っても、結婚するまでは王と同衾(どうきん)することを拒んだ。そこでキャサリンとの離婚を認めるようにローマ法王と六年近くも交渉したが、法王は応ぜずに、ヘンリーを破門するといって脅かした。そこでヘンリーはローマ法王とイングランドの教会の関係を断ち切った。もちろん、国王のもとに置かれるようになった協会は、離婚を認めた。

  といっても、ヘンリーがわがままを通すことができたのは、それまでイングランドにおいて、ローマ法王の権力に対して強い不満が鬱積するようになっていたからであった。このころには、イングランドの人々は外国人を嫌うようになっていたし、それまでも歴代の国王とローマ法王庁とのあいだに何回も軋轢が発生していた。ヨーロッパでプロテスタント=新教が力をもつようになっていたのにも、助けられた。このような土壌があったからこそ。ヘンリーはローマ法王と袂を分かつことができたのだった。
  それにイギリス人は今日でも、フランシス人やドイツ人のように、抽象的な理念によって引きずり回されたり、理屈を弄ぶことがない。イギリス人はプラクティカル=いたって実利的なのだ。

  アングリカン・チャーチ=イギリス国教会は宗教の教義上の対立とは全く関係なしに、ヘンリー八世の浮気から発したものであるが、イギリスのナショナリズムが生んだものだった。イギリス国教会は神に合わせたのではなく、人の必要に合わせてつくられたといわれる。だから教義が厳しくなく、キリスト教の教派のなかでは、きわめておおらかである。
  この点では、日本の神道に似ている。イギリス人は宗教的に無精だ。イギリス人の宗教への態度はずぼらで、日本人と共通しているところがあるのだ。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
   加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

おまけ×5 イギリス「新戦法でスペイン無敵艦隊に大勝利その後無敵艦隊壊滅」

2021-06-06 10:57:14 | 伝統国家イギリス
 「新戦法でスペイン無敵艦隊に大勝利その後無敵艦隊の壊滅」 一部引用編集簡略版

  スペイン語で「アルマダ・インベンシブレ」=”無敵艦隊”と呼んだ百三十隻の大艦隊がリスボンからイギリスへ向けて北へ針路をとったのは、1588年5月だった。一万九千人の陸兵と、八千五百人の水夫や奴隷が乗り込んでいた。しかし、すぐに嵐に遭遇したために、ラ・コルニャ港に退避して、損傷した船を応急に修理したうえで、七月に出航した。
  イギリス艦隊のほうが隻数が少なかったが、射程の長い砲をスペイン艦隊の数倍ももっていた。イギリス側が射程の長い大型のカルバリン(鉄製砲)を153門と、小型344門載せていたのに対して、スペイン側はそれぞれ21門と151門しかなかった。というのは、スペイン海軍は接舷したうえで陸兵が喚声をあげて敵艦に乗り移って強襲する、旧来どおりの戦術を取っていたからだった。スペインの大多数の砲は対人殺傷用だった。しかも、帆だけを使って帆走するイギリス艦のほうが、船底に繫がれた奴隷たちにオールを漕がせて進むスペイン艦より小回りがきいたし、速度も速かった。

  ”無敵艦隊”に対するイギリスの勝利は、イギリスの地理的な位置によるものが大きかった。新しい時代がイギリスに微笑んだのだった。ヨーロッパにとって海といえば、つい昨日までは地中海だった。
  そしてギリシャ、ローマ時代から、”無敵艦隊”のころまで、船といえば波が比較的に穏やかな地中海に合わせて、櫂(かい)と帆を併用して進んだ。そして海戦は接舷して陸兵が斬りこんで勝敗を決めたから、地上戦闘の延長だった。
  ”無敵艦隊”がブリテン島西端のリザード岬から初めて望見されてから、九日間にわたって、イギリス海峡を東進するスペイン艦隊とイギリス艦隊のあいだで遭遇戦が闘われた。スペイン艦隊はイギリス艦隊から射程の長い砲火を浴びて、接舷することができなかった。
  イギリス艦隊はドレークが率いる艦隊も加わって、大きな戦果をあげた。このとき、ドレークが旗艦「ペリカン」で戦闘開始を告げるために使った軍鼓が、ロンドンに展示されている。

  イギリスの無敵艦隊に対する勝利は、官制に対する民活の勝利でもあった。イギリスの船は私掠船をはじめとして民間の出資によって建造され、外洋へ送り出された。そこで、あらゆる工夫と創意が生かされた。それに対してスペインは絶対王政のもとにあったために、民間の力が弱かったので、技術の進歩が阻まれた。

 「無敵艦隊」の壊滅
  スペイン艦隊は強風のために引き返せなかったので、ブリテン島を大きく回って、北海を通って帰国することを試みた。それから先は悲惨な航海となった。八月初めにスコットランドのフォース湾のワイクスネス岬沖を通過した後に、何回にもわたって激しい嵐に遭い、十九隻がスコットランドとアイルランドの沿岸で座礁した。
  ケルト人たちは難破したスペインの貴族や兵士たちを容赦なく襲撃して、略奪した。そして一万数千人が餓死するか、ケルト人に襲われて死んだ。三十三隻が行方不明になった。九月にスペインへ戻れたのは、百三十隻のうち五十数隻しかなかった。二万人以上の将兵や奴隷が死んだ。

  ”無敵艦隊”が壊滅したのを境にして、スペイン帝国の凋落が始まった。スペインは二度と大艦隊を海に浮かべることはできなかった。そしてイギリスがかわって、新しい海洋勢力として台頭するようになった。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
   加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

おまけ×4 イギリス「海賊ドレークの活躍」

2021-06-05 13:04:53 | 伝統国家イギリス
 「海賊ドレークの活躍」 一部引用編集簡略版

  スペインが”無敵艦隊”をイギリスへ差し向けた当時、イギリス人は海洋勢力として興隆しようとしていたが、スペインが海を支配していた。スペインはとくにアメリカに金銀を豊かに産出する植民地をもち、アメリカとの貿易を独占して、スペイン船にしかアメリカ貿易に従事することを許さなかった。

  イギリスの私掠船(しりゃくせん)がアメリカ貿易に従うスペイン船を頻繁に襲った。私掠船は勅許(勅命による許可)された海賊船であるが、いってみればイギリスはスペインに対して非公式な戦争を戦っていた。それにイギリスはスペインが支配していたネーデルランド(オランダ)の反乱を支援していた。スペインのフェリペ二世はイギリスに侵攻して征服することを決意して、1586年に準備を始めた。
  ところが、翌年の四月にフランシス・ドレーク(1545頃~1596年)が率いる23隻のイギリス艦隊が、カディス港にあったスペイン艦隊を奇襲して33隻を焼き払ったために、イギリスへの侵攻計画が大幅に遅れてしまった。ドレークといえば、海賊として有名だ。

  ドレークはイギリス史で、私(加瀬氏)が会ってみたいと思う一人だ。当時のイギリスの海へ向けたエネルギーを象徴している。ドレークは海水がイギリス人の血潮となった時代のヒーローである。貧しい航海牧師の息子だったが、海賊となって私掠船の大胆な船長として、メキシコ湾でスペイン船を略奪したり、西インド諸島のスペイン植民地を襲撃した。
  ドレークは三十代前後だったが、排水量が百トンの「ペリカン」と二十五トンの「スワン」の二隻と七十三人の乗組員を率いて、カリブ海を荒らし回った。ドレークはあまり背が高くなく、痩せて、赤みがかった金髪に青い目をして、見栄坊で傲慢だったが、すべての行動を細心に計画した。

  スペイン人はドレークを「エル・ドラク」=竜と呼んで、恐れた。千里眼をもっている超人という意味である。
  私掠船はロンドンで出資者を募った。エリザベス一世も、ドレークの出資者の一人だった。

  ドレークは1577年にプリマス港から出発して、世界一周に挑戦した。排水量百トンの旗艦「ペリカン」に乗って、四隻を従えたが、百六十人の乗組員のなかには薬剤師、牧師、靴屋、仕立屋、楽隊までいた。海賊を働いて、殺人や略奪を行ったのにもかかわらず、牧師を乗せていたというのは、そのような行為が良心を咎めなかったことを意味する。ドレークは食事のときには、楽隊に演奏させた。
  ドレークは略奪を繰り返しながら、南アメリカ大陸の南端を回って、イギリス人として初めて太平洋に出た。それまでスペイン人は、太平洋を自分の湖水のようにみなしていた。「太平洋」と名づけたのも、スペイン人だった。そしてドレークはニューギニア島やセレベス島、ジャワ島を訪れて、アフリカの最南端の喜望峰を回って、三年後に帰国することによって、世界一周に成功した最初のイギリス人になった。

  略奪品をいっぱい積んでプリマス港に帰港したのちに、エリザベス一世が乗船して、ドレークにナイトの称号を授けたので、たちまちイギリスの国民的英雄となった。これまでイギリスの女王や国王が授けたなかで、もっとも価値がある「サー」の称号だったといわれる。こののちに、ドレークは私掠船隊を指揮して、再びカリブ海に出てスペイン船を襲った。
 (ちなみに、カズオ・イシグロ(1954年~)も2019年にナイトの爵位を授与されています。関係ない話ですけど創作作家は65歳前後で作品に劣化がみられがちですが、彼の最新作にもそういう劣化が感じられ残念に思いました。投稿者私見です)

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
   加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

おまけ×3 イギリス「ダイアナ報道の嘘」

2021-06-04 17:01:27 | 伝統国家イギリス
 「ダイアナ報道の嘘」 一部引用編集簡略版

  ダイアナ元皇太子妃(1962~1998年)が事故死したときに、イギリス王家は危機に見舞われたように見えた。二百万人といわれる人々が、ダイアナ妃が住んでいたケンジントン宮殿前の広場を訪れて花を捧げ、テディベアを供えた。エリザベス女王とチャールズ皇太子がダイアナ妃の死に当たって、冷淡に振る舞ったことに対する抗議が含まれていたといわれる。

  ダイアナ妃の葬儀はウェストミンスター大寺院で催されたが、荘厳なものだった。王室の伝統がそうさせたのだった。それにケンジントン宮殿前を花の海にしたのは、ダイアナ妃がカリスマ性をもっていたためだが、ダイアナ妃がイギリス王家に嫁がなかったとしたら、あのようなカリスマ性をもてなかったろう。ダイアナ妃も妖精の一人だった。

  ダイアナ元皇太子妃が事故死した直後に、イギリス社会はマス・ヒステリアによって襲われた。新聞とテレビが”ダイアナ熱”を煽ったのだった。その真っ只中にも、イギリスの新聞は新聞の報道姿勢や記事を批判する投書を載せた。イギリスの一流紙の投書欄から、私(加瀬氏)の目にとまったものを、抜粋したい。

 「マスコミによるダイアナ妃のニュースの操作はひどいものだった。たしかに大衆がそれを求めていたことがあろうが、あまりにもゆき過ぎていた。(中略)マスコミがダイアナ妃の葬儀に沿道に出るといって予想した民衆の数は、途方もなく誇張されたものだった。五、六百万人が繰り出すといったのに、実際には百万人か、二百万人だった。」(「インディペンデント」紙、ピーター・ゴーシ、オクスフォード大学歴史学教授)
 「これはマス・ヒステリアだった。貴紙は民衆の力だといったが、狂気だった。私はおびただしい花束の写真に嫌悪感を覚えた。大量の花束を見て、恐怖に駆られた。一種のフローラル(花による)ファシズムではなかったか」(「ガーディアン」紙、マギー・ウィンクウォース、精神科医)
 「かつてわれわれは中国で人々が”毛語録”をかざして、スローガンを唱えているのをヒステリーと呼んだ。だが、今、同じような狂騒と浮ついた状況が、イギリスを支配している」(「ガーディアン」紙、ロン・ブレス、引退した化学者)
 「貴紙がパパラッチを批判した同じページに、皇太子と二人の親王が教会へ向かう写真を載せていたが、車窓の外から撮られたものだった。その写真は、恥ずべき覗き趣味以外の何物でもなかった。三人をそっと悲しませてやれないのだろうか」(「インディペンデント」紙、バーナード・オコーナー、牧師)

  戦後、日本の新聞は一貫して民主主義の担い手であるというイメージを広めてきた。新聞はそのように装ってきただけではなく新聞自身もそう信じてきたようである。これはばかばかしいことだ。
  私(加瀬氏)は日本の新聞は、民主主義とほど遠いところにあると思う。日本の新聞はどうしようもない非民主主義的な体質を備えている。日本で新聞を批判するときに、投書欄に注目することはあまりない。だが、私は投書欄を読むたびに、日本の新聞の質が低いことを慨嘆せざるをえない。

  ある朝の朝日新聞の「声」欄をとってみよう。読者からの投書の見出しを順にあげていくと、「介護認定には十分現場を見て」「疑問を感じる”基地で活性”」「作るか外注かおせちで悩み」「ゲーム感覚で不景気を楽しむ」「携帯が使える車両設けては」「五十七歳で挑んだ大型免許取得」「留学で知ったすてきな人々」というものだ。
  どの日をとっても、読者の提案や日常体験、随想といった投書が並んでいる。その新聞の論調にそった意見もあれば、微笑ましいような話題もある。だが、一口に言えば、暇潰しには役立とうが退屈きわまりない。
  日本の新聞は外からの批判を嫌う。読者と対等であると思っていないからだ。読者を見下ろしている。都合の悪いことを隠蔽しようとする体質は、倒産や廃業を強いられた銀行や証券会社とかわらない。

  しかし、葬儀の日に沿道を埋めて並んだ民衆は、イギリス人らしかった。号泣する者もヒステリックに叫ぶ者もいなかった。警官が涙を拭った。大寺院の鐘が一分ごとに鳴った。棺を乗せた砲車の轍の音が、虚ろに響いた。それほど静かだった。「ウェルダン・ダイアナ・サンキュー」(ダイアナ、よくやった。ありがとう)と低く呟く男の声が、テレビのマイクに入った。
  ダイアナ妃は美しく、若くして悲劇的な死を遂げたために庶民の心をとらえた。それにイギリス国民はアンダードッグ~負け犬を贔屓するという気質がある。判官贔屓なのだ。ダイアナ妃が義母のエリザベス女王や、チャールズ皇太子からいじめられたというイメージが、庶民のあいだに広まっていた。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

おまけのおまけ イギリス「王室の性モラル」

2021-06-03 09:56:44 | 伝統国家イギリス
 「王室の性モラル」 一部引用編集簡略版

  もちろん、多くのイギリス人が王室を誇りにしている。王室は基本的によいものであり、イギリス社会に形と安定をもたらし、国に品格を与えていると考えている。たしかにチャールズ皇太子とダイアナ妃だけではなく、アンドリュー王子、アン王女の離婚や不倫騒ぎは、一過性のものかもしれないが、王室を深く傷つけた。
  イギリスにはつねに王制廃止論者が存在してきた。イギリスでは公に王制を廃止することを主張することに対して、タブーが全く存在していない。それだけ人々のあいだに、民主主義がしっかりと根を降ろしているのだ。
  しかし、王制を廃止して共和国に改めようと主張する者は、ほとんどの場合、自分へ向けるべきである個人的な不満を王制へ向けている。その証拠に右であれ左であれ、人生に成功している者から、このような声を聞くことはめったにない。

  今日、イギリスの女王は政府に対して「意見を聞く、警告する、励ます」という三つの役割しかもっていない。いまやヨーロッパの立憲君主制度のもとの国王は、ハンカチ意外に鼻を突っこむことを許されないというが、もちろんイギリスもそうである。

  このところイギリスの王室は、スキャンダルにまみれている。チャールズ皇太子は昔の恋人と不倫を楽しんできた。ダイアナ妃は生前、テレビに出演して不倫を働いたことを認めたし、恋人と自動車電話で愛を囁いているやりとりを録音されてしまった。アン王女は再婚したし、アンドリュー王子のセーラー妃も、恋人ができたうえで別居した。
  しかし、イギリスの王家の性モラルが紊乱(びんらん:みだれること)しているのは、王家の本来の姿に戻ったということだ。いったい王家の人々が中産階級の人々と同じような退屈きわまりない生活を送っているのが、自然な姿なのだろうか。

  イギリス王家の紋章には、「ゴッド・アンド・ライト」(神とわが権力)という言葉が刻まれているが、王権神授説に因るもので、王や王家の人々はどのようにわがままに振る舞ってもよいというものだ。チャールズ皇太子の先祖の王や王族は贅沢三昧を楽しみ、勝手気ままに生きたものだった。
  歴代の王や、女王はみな似たようなものだ。イギリスの現在の女王はエリザベス二世だが、エリザベス一世(在位1558~1603年)は生涯独身で通したものの、愛人のエセックス伯爵を処刑している。

  イギリス王家が中産階級の模倣をするようになったのは、ビクトリア女王(在位1837~1901年)の治世に入ってからだ。産業革命が進んだおかげで、中産階級が出現しただけではなく、マルクスをはじめとする物騒な過激主義者が跳梁(ちょうりょう)するようになったからだった。女王が没して17年後に、ビクトリアの従弟のニコライ二世がロシア革命によって殺された。
  ビクトリア女王は質素な生活を重んじた。しかし、広大な贅を尽くした宮殿のなかで、ハンカチ一枚や下着一着を節約するというのは、なんと偽善的なことだろうか。紋章にはライオンがあしらわれているが、百獣の王であるライオンが兎や鼠の真似をすることはないのだ。

  現在のエリザベス女王の代まで、中産階級の道徳律が守られてきた。いま、チャールズ皇太子をはじめとする子の世代が、王者や王族らしく堂々と振る舞うようになっているのである。
  もっとも、王族のスキャンダルはマスコミが発達するようになったことから、外に知られるようになった。それに1970年代に性の解放が進むようになった結果、鍵穴から覗く”キーホール・ジャーナリズムが登場するようになったからである。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長