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5.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 5回目

2021-06-12 16:23:07 | 三浦按針 ウィリアム・アダムス
5.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 5回目

 アダムスの心情、望郷 二隻目の百二十トンの西洋式帆船建造

 ●故郷への手紙

  アダムスはイギリスに妻と子供を残していた。五年目も終わる頃、帰国したいと皇帝に訴えた。しかし、アダムスは皇帝にとって手離せない人間になっていた。それに比べ、船長はさほど役に立っていなかったから、彼の帰国は許された。船長はアジアに来ていたオランダ艦隊に採用され、艦隊はマラッカ諸島に向かい、ポルトガル艦隊と交戦した。オランダ艦隊はこの海戦に勝利したのだが、船長は戦死した。アダムスがこうした顛末を知るのはまだ先のことだった。アダムスは船長がどうにか母国に帰って、家族や友人に自分の置かれた状況を伝えてくれることを期待していたのだ。
  アダムスの日本での驚くような体験は、彼自身が妻や友人に宛てた手紙で知ることができる。妻への手紙は不完全で日付がなく、友人への手紙は1611年10月22日付けとなっている。こうした手紙でアダムスがヨーロッパを出発したのが1598年6月だったことがわかるのだ。

  この手紙をしたためた時期には、アダムスは船長の戦死を知っていたから、自分が日本で生きていることを故国に伝えることはできないだろうと絶望していた。友に宛てた手紙にはこうある。

 「故国にいる者は私が生きているのか死んでいるのか、何の手掛かりもないだろう。妻には何とか私が日本で生きていることを伝えたいものだ。未亡人として生きる妻、父無し子として生きる子供たち。そのことを思うと悲しみでいっぱいだ」

 これに続くアダムスの言葉には望郷の思いが溢れている。

 「ラトクリフとライムハウスの町には僕のことを知っている者がいるはずだ。ニコラス・ディギンズ、トーマス・ベスト、ニコラス・アイザック、ウィリアム・アイザック、ウィリアム・ジョーンズ、それからビーケットさん。もしこの手紙がこのうちの一人にでも届くことがあったら、私が罪深き巡礼者としてまだ生きていて、神の加護を願っていることをわかってくれるだろう」

 ●オランダ貿易(二隻目の百二十トン帆船建造)

  アダムスが最初に建造した帆船は、日本人の船乗りを乗せて沿岸を二、三度航海した。アダムスは皇帝の命令で二隻目の百二十トンの帆船を建造した。この船は都(大坂)と江戸を航海した。この二つの都市の距離はちょうどロンドンとイギリス西南端にあるランドエンズとほぼ同じくらいである。江戸と大坂を結ぶ航路では遭難が多発していた。1609年、大型のスペイン帆船セントフランシスコ号が夜半この沿岸で座礁した。160人が溺れてしまったが、340人以上が救助された。このニュースペイン(メキシコ)に向かう船にはマニラ総督に匹敵する重要人物がいた。助けられた乗組員はみな親切な扱いを受け、彼らをアカプルコ(メキシコ太平洋岸)に帰すのにアダムスの百二十トンの船が使われた。アダムスは帰国するチャンスだったが、この船に乗り込むことは許されなかった。

  1610年にアカプルコに向かったこの船は無事戻ることができた。その翌年には救助のお礼の品々を満載した船がニュースペインからやってきた。その翌年には救助のお礼の品々を満載した船がニュースペインからやってきた。その船には両国の継続的な交流を求める特使も乗っていた。
  この事件についてアダムスは1611年に書いた手紙の中で触れている。この頃には彼の建造した百二十トンの船はフィリピンで使われていたことがわかっている。この事件の頃にはアダムスは地方領主のような扱いを受けていた。妻や子供たちとと暮らせたら、あるいは家族と手紙のやりとりだけでもできたら、アダムスは相当に幸せだったに違いない。

 「私の仕事に対する皇帝の評価は高く、家来が八十人から九十人も持てる身分に取り立ててくれた。大勢の召使や奴隷を従えたようなもので、いわば英国の地方領主のようなものだ。こんな扱いを受けた外国人はこれまで一人もいないらしい。
  1609年、二隻のオランダ船が日本にやって来た。この二隻の主な任務は、ここにマニラから年二回やって来るポルトガルの船を海上で捕獲することだった。追跡が遅れて捕獲には失敗した。彼らが皇帝の住む駿府にやって来ると大歓迎された。年に二、三隻の交易船を日本に送ることに合意すると、彼らは皇帝の発行した朱印状を携えて去っていった」

  この使節の交渉にあたったのはもっぱらアダムスだった。オランダはアダムスに大きな借りを作ったと言えそうだ。

―つづくー 
 次回は、●オランダ貿易のつづき、●カソリック宣教師の傲慢

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」

4.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 4回目

2021-06-11 10:11:18 | 三浦按針 ウィリアム・アダムス
4.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 4回目

 アダムスと徳川家康と面会が続きます。家康はいろいろと質問をぶつけた後、西洋式帆船の建造の話をします。

 ●大坂の皇帝(徳川家康のこと) つづき

 「皇帝は次に、我々の国では戦争があるかと聞いてきた。ポルトガルとスペインとはいつも戦っていますが、それ以外の国とは仲良くやっています、と答えた。続けて何を信仰しているか、との質問が続いたが、天地を創造した神にいつも祈っていると話した。皇帝は矢継ぎ早にいろいろな質問をぶつけてきた。この国に辿り着いた経緯も詳しく聞いてきたので、持っていた世界地図を見せながら、マゼラン海峡を抜けてやって来たことを丁寧に説明した。皇帝はこの説明に納得せず、私が嘘をついていると感じたらしい。
  その後も質問は夜が更けるまで続いた。船にはどんな商品を積んでいるのか、とも尋ねられたので持参したサンプルを見せた。皇帝が尋問を終え部屋を出ようとするとき、我々もポルトガル人のように、この国と貿易が可能かと問いかけた。皇帝の答えは聞き取ることができなかった。
  この質問攻めの後に牢に入れられたのだが、二日後にはまた引き出されて再び質問攻めにあった。ヨーロッパの国々の政情、戦争と平和の成り行き、ヨーロッパの動物の種類。それこそ世の中のありとあらゆることについて質問を受けたのだった。皇帝は私の説明に満足した様子だったが、その日も結局牢に戻された。ただその夜に戻された牢は少しだけ過ごしやすかった」

  アダムスの対応はナイーブで、船乗りらしい率直さが微笑ましい。対照的なのは皇帝の驚くべき好奇心だ。アダムスも彼の質問に素早く、そして隠しだてなく答えている。英国が誇る海の外交は、昔からこうしたすばらしいものだった。

 「結局、三十九日間牢に入っていたことになる。我々の船(エラスムス号)はどうなったのか、船長はどうなったのか。状況は一切知らされなかった。この間にも、イエズス会士やポルトガル人たちは、私たちを海賊で皇帝に厄災をもたらし、全ての国の敵である、と言い張っていた。もし我々を処罰しなければ、この国にやって来て交易しようとする者がいなくなるだろうととまで言うのだ。何とか処罰させようと必死だった」

  ポルトガル人は後から来たものには情け容赦なかった。もちろんオランダ人も立場が逆転したときには同じようなものだった。必要に応じてキリスト教の信仰を否定することも厭わなかった。

 「皇帝は、日本に何の害も与えていない者を処刑することは正義に反するとして、このオランダ人たちを殺すわけにはいかない、と言ってくれた」
 「私が牢に入っている間に、我々の船は大阪の港近くに曳航されてきていた。牢に入って四十一日目、皇帝から再び呼び出され、書き留められないくらいたくさんの質問を受けた。最後に皇帝は、仲間のところに戻ることを許してくれた」
 「港に係留されている我々の船を目指して小舟を漕いだ。船上では船長も仲間もいて、元気に私を迎えてくれた」
 「船にあったものは何もかも持ち去られていた。特に航海に必要な観測器具は喜んで持っていったらしい。ところが、皇帝は持ち去られたものを元に戻すよう命令してくれた。その上、相当のお金を食料や必需品購入用に支給してくれた。しばらくして将軍の住む関東(Quanto)という島に向かうことを命じられた。江戸(Jeddo)という町に近いらしい。我々は船で移動したいと懇願したが、皇帝は許可しなかった。乗組員たちは船長に反抗し始めていて、日本人から支給された全てをよこせと要求していたから、もし皇帝が船での移動を許可していたら、船長も私も殺されていたかもしれない」  

 ●西洋式帆船の建造(一艘目、後に大き目のをもう一艘建造)

  これからおよさに年間、我々の船に戻ることはきっぱりと断られた。彼らはこの国で残りの人生を楽しく穏やかに過ごすことだけを考えろというのだった。皆それぞれが勝手に住みやすいところを探して散っていった。皇帝からは十分の米と年間現在価値で三万~五万円相当の金貨が与えられた。アダムスだけは他の乗組員と違い、新しいことにチャレンジするタイプで能力もあったから、皇帝が彼を認め始めた。そうして彼に相談するようになっていった。これまでの外国人では考えられないことだった。

 「四、五年も経ったある日、皇帝は私に西洋式帆船の建造を命じた。船大工もいないし、造船の知識も持ち合わせていないと答えたのだが、とにかくやってみろと言う。失敗してもかまわないと言うのだ」
 「およそ八十トンの船を何とか完成させた。皇帝は十分に気に入ってくれたようだ。皇帝は私をいっそう可愛がるようになって、お呼びがしきりとかかるようになった。プレゼントもしばしばいただいた」

  アダムスが実際に携わったのは製図だけで、あとは日本人の船大工やら鍛冶屋が活躍してくれた。みんな船の構造をよく理解していたらしく、アダムスは指揮をするだけで十分だった。
  この仕事が終わると、皇帝はアダムスをさらに重用した。難にでも興味を示す皇帝のよきアドバイザーといった立場だった。

 「たくさんのことを皇帝に伝授したが、中でも皇帝が喜んだのは幾何と代数だった。これにはイエズス会の連中もポルトガル人も驚いたようだ。彼らの商売に利用しようと、私にせっきんしてきた。私は彼らのために皇帝への便宜をはかってあげた。かつて私に向けられた彼らの悪意を考えると、少しお人よしすぎたかもしれない」
―つづくー 
 次回は、●故郷への手紙、●オランダ貿易

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」

3.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 3回目

2021-06-10 16:04:08 | 三浦按針 ウィリアム・アダムス
3.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 3回目

  いよいよ、アダムスが徳川家康と面会します。家康の人柄観察も興味深いです。(注:むかし大阪は大坂でした)

 ●ポルトガル人たちカソリックの敵意  つづき

  確かにこの頃、太平洋のこの周辺に現れる船は、スペインやポルトガルからの船でなければ、みな海賊船あるいは私掠船(勅許された海賊船)と見なされていた。ローマ教皇の裁定で、次々に発見される新世界はスペインとポルトガルで分け合うことが約束されていて、イギリスやフランスなど他の国には手を出させなかった。こうした国の船がスペイン船やポルトガル船に見つかると積荷は全て密輸品として没収され、乗組員は盗人として扱われた。しかし、宗教改革を成し遂げた国々はこの馬鹿げた主張を受け入れはしなかった。世界の地理を全く知らない教皇がスペイン、ポルトガルに勝手に与えた領土である。その分割に正当性などあるはずはない。それでも反カソリックの国の太平洋の航海は、自衛のために船団を組むことが常識だった。船団であれば、自由な交易ができ、スペイン船やポルトガル船に抵抗できたのだ。逆に両国がコントロールしている港に上陸して掠奪をしかけることもあった。

  この時代は海賊の世界であった。スペインとポルトガルの厚かましいほどの強欲さと嫉妬。残虐な性格。これがこの時代の背景なのだ。海賊の時代はエリザベス一世、ジェームズ一世、チャールズ一世の在位に重なっている。自由な交易をスペインとポルトガルが認め始めたのはウィリアム三世の時代に入ってからで、レイスウェイク条約(1697年)以降のことである。この頃になると、この二か国以外の国もアジア太平洋地域でそれなりの力をつけてきたのだ。いずれにせよ、この時期のイギリス人船乗りは南北アメリカにあるスペインの支配地域や太平洋の海が危険であることは十分に認識していた。

 「イエズス会やポルトガル人は我々(アダムスたち)を海賊行為の罪で磔にするように主張していた。そのせいで日本人も我々を警戒の目で見るようになっていた。我々の仲間の中からも二人の裏切り者が出た。一人はポルトガル王に忠誠を誓う約束をし、アダムスたちの積荷を捌(さば)こうとたくらんだ。もう一人の裏切者と一緒に積荷を取り上げる方法を考え、航海の途次にあった出来事を敵にしゃべっていたのだ」

  ポルトガル人たちは、この国に築いた独占貿易の既得権は絶対に渡さないと懸命だった。アダムスたちイギリス人は不可侵のテリトリーに迷い込んだ異教徒の群れだった。アダムスたちが磔にされたら、どれほどポルトガル人たちを満足させたことか。

 ●大坂の皇帝(徳川家康のこと)

  ところがアダムスたちにとって幸運だったのは、我々の件が大坂にいる皇帝(翻訳者注:emperorと書いてあるが、徳川家康のこと)に報告されると、大坂に連れてくるようにとの命令が下ったのだ。アダムスを含む二人が大坂に向かうことになった。

 「出発前に仲間に別れの挨拶をした。船長以下みな衰弱し、病んでいた。船長の手をしっかり握った。この手が、私を何度救ってくれただろうか。豊後の王様の船に乗せられ、ここから八十リーグ(約430Km)離れた大坂に向かった。1600年5月12日、皇帝の住む港に着いた。連れて行かれた宮廷は、金箔がふんだんに使われた豪華な屋敷だった。皇帝の前に出ると彼は、私をじっくり観察した。その目は私にはなぜか好意に満ちたものに感じられた。彼はジェスチャーを交えて会話を試みてきた。そのうちポルトガル語を話す通訳が現われた。皇帝は私の出身地と、この遠く離れた日本に現れた理由を尋ねた。国の名前を挙げ、東インド諸島が目的地だったことを説明し、商売を通じてどこの国とも仲よくしたいと答えた。この国で産出しない品々をたくさん運んでくることができること、逆にこの国だけにしか手に入らない物産を買い付けたいことを説明した」

  アダムスが政治や経済やらの小難しいことには馴染みのない、ただの航海士であったことが幸いしたのだろう。自分たちの置かれている立場をうまく説明している。
―つづくー 
 次回は家康からの質問攻めの続き、アダムスたちの船の大坂への曳航、船長たちとの再会そして西洋式帆船の建造

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」

2.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 2回目

2021-06-09 15:04:30 | 三浦按針 ウィリアム・アダムス
2.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 2回目

●アダムスたちの厳しい航海は続いた。

  「我々は食料を確保する手段を相談した。上陸して力ずくで略奪するには、あまりに多くの仲間を失った。残っている者もほとんどが病んでいた。そんなときスペイン人らしい男が我々の船にやってきた。その男は次の日も現れたのだが、我々は何事もなかったかのように帰してやった。三日目に二人のスペイン人が乗船してくると、我々は、彼らが担保なしで約束を守るか心配だったが、こちらの窮状を説明し、食料を何とかできるか交渉した。しぶしぶであったが、彼らは約束の時間までに必要な食料を揃えてくれた。牛肉とマトンのおかげで、我々は相当に体力を回復することができた」

  僚船の航海士はアダムスと同じくイギリス人で、あの有名なトーマス・カベンディッシュ船長(大航海時代のイギリスの探検家。1560~92年)の世界一周航海に参加している。アダムスと僚船の航海士は二人とも山っ気があるほうだったせいか、よく気が合った。残りの僚船三隻のうち一隻はスペイン船に襲撃されたことは聞いたが、あとの二隻がどうなったかは不明だった。おそらく沈没したのだろう。アダムスの船では仲間に互選された船長らで今後の方針が検討された。こういう状況の中で、どうしたら最高の利益を得る商売ができるかが最も重要なテーマだった。積荷は毛織物で、この商品をどこで売り捌くのか、はっきりした当てがあるわけではなかった。

 「最終的には日本に向かうことに決めた。ディレック・ゲリットソンという男の意見を採用したのだった。この男はかつてポルトガル船で日本に行ったことがあるという。この島では毛織物が重宝されているらしい。マラッカや東インド諸島では暑くて毛織物は不要だろう。こうして目的地は日本に決まった」

 「1599年11月29日、目的地に向けて出帆した。数カ月にわたって貿易風に恵まれた」

  アダムスは人食い人種が住んでいる地帯に入ってきたことを確信していた。

 「北緯十六度付近でこうした島を見つけた。大型ボートで近づいた八人は人肉食の犠牲になったと思う。人食いの島民一人を捕獲した」

  北緯二十七度から二十八度付近で風向きの一定しない嵐に遭遇した。1600年2月24日、この嵐の中で二隻の帆船はお互いを見失っている。この二隻が出会うことは二度となかった。オランダの港を出た五隻の艦隊のうち、残ったのはアダムスの船だけであった。しかしアダムスはあきらめなかった。

●カソリックの敵意

 「嵐に悩まされながらも全力で、日本に向けて帆を張った。3月24日、ウナコロナ島と名づけられた小さな島が見えた。この頃既に多くの乗組員が病気になり死者も出ていた。なんとか這いずって動けるものが九人か、十人いるだけだった。船長も含めた誰もが死を覚悟していた。こんな状況の中で遂に日本が見えてきた。4月11日のことだった。この頃になると動ける者はわずか5人もいないありさまだった。ここは目指していた豊後だった。12日、小型の船がやって来て日本人たちが乗り込んできた。我々にはこれに抵抗する力は全く残っていなかった。我々の船はここに錨を下ろした」

  後日、日本人は実直な民族だと知るのだが、この時点では彼らは決して正直とは言えなかった。

 「日本人は、危害を加えることはなかったが、持てる限りの積荷を持っていってしまった。ただ、のちに代金を支払ってくれる者もいた。翌日、兵士が乗船してくると残りの積荷が盗まれることはなかった。二、三日して、我々の船は港の中に曳航された。この地方の王に我々の入港が知らされ、彼の指示が決まるまで、この港で待機することになった。幸いなことにこの王は船長と病人上陸を許してくれた。一軒の家があてがわれ、食事も与えられゆっくりやすむことができた。五、六日した頃、数人のポルトガル人がやって来た。そのうちの一人はイエズス会士だった。キリスト教徒になった日本人も混じっていた。長崎という町から出向いてきたのだ。彼らは、我々が海賊で、商売のためにこの国に来たのではないと主張していた。プロテスタントの我々を敵視していたのだ」
―つづくー

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」

1.米英は1853年のペリー来航以前に、日本と日本人を恐るべき精度で把握。今回三浦按針の情報1回目

2021-06-08 17:32:55 | 三浦按針 ウィリアム・アダムス
1.米英は1853年のペリー来航以前に、日本と日本人を恐るべき精度で把握。今回三浦按針の情報1回目

  1852年7月、ペリー出港の4カ月前にニューヨークで出版された本書は、アメリカの日本開国計画の成否を固唾をのんで見つめていた米英知識人のニーズに応え、大英帝国の一流の歴史・地誌学者が書いた「日本の履歴書」だ。著者に鎖国日本への訪日経験はない。スペイン、ポルトガル、オランダ人の記録をはじめとする玉石とりまぜた文献・情報をもとに日本の歴史、地理から日本人のルーツや民族性まで網羅し解説しているのだが、天皇と将軍の権威の並立をはっきりと認識するなど、その分析力は驚くほど適確だ。死を覚悟して戦い、勤勉で社交的な日本人の資質も高く評価。米英はすでに1853年のペリー来航以前に、日本および日本人について恐るべき精度で把握していたのだとわかる。

 三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 1回目

  イギリスは布教については全く関与していないのだが、オランダ人が初めてこの国にやって来ることができたのは、イギリス人航海士アダムス(三浦按針)の技能と科学知識のおかげであった。エリザベス朝期の半ばに生まれたこの男の興味深い逸話は数多く残されている。残された手紙を引用する。
 「私はケント地方の町、ジリンガムに生まれた。ここはエリザベス一世の時代に造船所が設立された。十二歳の頃には、船長の資格を持つ人の見習いとして十二年間を過ごした。オランダの船がインドに向けて頻繁にむかうようになると、自分の技量を試したくなった」
 「1598年、五隻のオランダの船団が東インドに向かうことになり一隻のチーフパイロットとして雇われた」
  船団がオランダを出帆したのは1598年6月24日。エリザベス一世治世の晩年のころである。

  当時は何事もなくうまくいく航海などはほとんどなかった。航海中に壊血病が蔓延し、アフリカのギニア沿岸に錨を下した。指揮官は既に死亡し、ここでも相当数が死んだ。1599年4月初め、ようやくマゼラン海峡(南米南端)まで達した。

 「南米のこの地は、既に冬となっていて雪も激しく、寒さと飢えで仲間の多くが衰弱していった」

  当時、この海峡を抜けるヨーロッパの船はほとんどなく、海図もなく、アダムスはたとえ倍の時間がかかろうともケープ岬(アフリカ南端)沖をぬけたかったようだ。

 「南から吹きこむ風や冷たい雨と雪で越冬せざるを得なかった。4月6日から9月24日までの長期間この地に釘付けになり、食料も尽きて、多くの仲間が飢えで死んでいった」

  やっとのことで海峡を抜けたものの、船団は離れ離れとなり、アダムスの乗る船はチリの沿岸で僚船を9日間待ち続けたが、仲間たちは現れない。そこでモカ島(チリ南部太平洋岸の島)に向かった。

 「沿岸には気性の穏やかな原住民が住んでいて、羊やジャガイモを小さな鐘やナイフと交換してくれた。ところが、この地域はスペインの支配下にあり、彼らは接触をやめてしまった」

  南アメリカの沿岸はどこにいっても、スペイン人かポルトガル人が支配していて、彼らの激しい敵愾心と警戒心に悩まされた。

 「11月1日、南緯38度に位置するモカ島に近づいた。しかし風が強すぎて錨が下せない。しかたなくサンタマリア島(サンチャゴ南方二百キロ、コロネル川河口沖の島)を目指した。この島についての情報は全くなかった。少人数の先発隊を上陸させたら、島民との小競り合いで八、九人が負傷した。しかし島民は親切にもてなしてくれた。翌日、船長は二、三十人の部下を連れ、食料を求めて島に向かった。数人の島民が親しげにボートに近づいてくると、酒と芋のようなものを見せながら上陸を促した。羊も牛もいるようだった。船長はこの誘いに乗って部下と共に上陸した。ところがこれは彼らの策略だった。どこかに隠れていた、千人を超す原住民が一斉に船長たちに襲いかかったのだ。虐殺された仲間の中に私の弟トーマス・アダムスもいた。あまりに多くの同僚を失い、錨を上げるのも難しくなるほどだった」

  この惨劇から二、三日して見失った僚船の一隻と再会できたのだが、彼らも同様の手口で、モカ島で船長と二十七人の仲間を殺されていた。

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳書名「日本 1852」